《出典》2015年09月05日、第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム
千葉県館山大会 記念講演

 アンニョンハセヨ(こんにちは)。御紹介頂きました河正雄(ハ・ジョンウン)です。
 私は1939年・昭和14年、東大阪市で生まれました。終戦を迎えたのは6歳の時。だから、少し戦争を知っています。生まれた年はどういう年であるか、ヒトラーがポーランドへ進出して、第2次世界大戦が勃発した年です。日本では中国と戦争をしていた。徴用法が施行され、そして韓国・朝鮮の人びとに対して、創氏改名、本名を使ってはいけない、日本人の名前に変えなさい、という法律が施行された年です。だから、私は生まれたときから朝鮮の名前をつけることはできませんでした。
 在日76年の生活、普通の方達の二倍三倍韓国との往来をして、語り尽くせぬ二つの祖国、二つの故郷の話があります。

田沢湖の姫観音の事です

 大阪で生まれ、六ヵ月後に秋田県田沢湖の生保内、今でいう仙北市に移りました。当時、田沢湖をダムと看做して周辺に発電所を建設しておりました。国策です。戦争のさなかです。父はその工事の労働者として移り住みました。
 田沢湖の湖畔に辰子像という銅像があります。全身金色の観光の為の像です。舟越保武という芸大の先生がつくられた彫刻です。
 田沢湖には辰子姫の伝説があります。辰子姫はその絶世の美しさを永遠に保ちたいと神に祈ったのです。神様は、人間はそんな願いをもってはいけないと、龍に変身をさせて田沢湖の守り神にしたという伝説です。
 その辰子姫の銅像の対岸に、姫観音という石造の像が建立されているんです。何時建ったのか、1939年11月です。これは私の生まれた年月です。彫刻を造った方は、秋田県湯沢市出身の八柳五兵衛という人で、八代目を継いでいる人です。その時代、日本の彫刻界では著名な仏像彫刻家です。鎌倉の長谷観音の観音菩薩像、大阪の野崎観音の慈母観音像も八柳さんの作品です。
 田沢湖の姫観音は戦後、草に埋もれてそこに分け入ることができませんでした。建立された後、戦後はほったらかしになっていたんです。それが1981年になって田沢湖町(現仙北市)が観光名所にしようということで、草を刈り観音様が現われた。そして市民が集まって、田沢湖で投身自殺する人が多いから、その霊を慰めよう。それから田沢湖にはクニマスという天然記念物に値する魚、田沢湖の固有種だった魚が絶滅したのでクニマスの霊と辰子姫の霊を祀るという立看板を町が立てたんです。最近になって富士の西湖に、そのクニマスが棲んでいることを、さかなクン氏が発表していますね。
 私は、その立て看板に対して異和感を憶え、それは間違いですと唱えたんです。中国と戦争をしていた昭和12年、13年、ダムや発電所建設の為に強制動員された朝鮮人労働者がいて、犠牲者が出たんです。もちろん日本人も亡くなりました。その霊を慰めるために1939年・昭和14年11月、私が生まれたその年・月に建立されたものなのです。
 私の住んでいた家の真裏に東源寺という寺があって、そこに犠牲者の無縁の墓地があったんです。私の家はとても貧しかったのですが、正月やお盆、節句などのときは、必ず家でつくったご馳走を、墓地にある名前もない石ころに、供えておいでと言われて、小学四年生のころからずっと母親の言いつけに従いました。母に何故供えるの?と聞くと、朝鮮人が発電所工事で亡くなり無縁の仏さんとなって葬られているからのだと教わりました。
 幼いながら、なんてかわいそうなんだろうと思いながら育ちました。高校を卒業して、社会に出て、事業を起こして、そのうち生活にも余裕ができました。それでも頭から離れなかったのは、その無縁仏でした。

在日の絵を集めて田沢湖に美術館を作ろうとした話です

 小学校の頃から絵を描くのが好きでした。先生も素晴らしい先生で、憧れた先生でした。絵描きになろうという夢を描きました。在日朝鮮人には日本社会の中で生活の基盤を作る夢は当時、叶う事は殆どありませんでした。それでも、神の恵みなのか、仏の恵みなのか、この社会で生きていくための糧をつかみました。私は絵描きになれず夢は破れたけれど、同胞たちが絵を描いて生活をするということは大変だから、支えになろう。私は在日の朝鮮人、韓国人の絵を集める事にしました。
集めて何をするのか。姫観音が建立されている田沢湖畔に、無縁の仏様たちを慰霊するための祈りの美術館をつくろう、という、とてつもないことを、夢ではなくて実際に事を起こしました。私に対して田沢湖町は、「河さん、あなたはヒューマニズムに溢れている。非常に感動した。その美術館を共に造りましょう」といことになったのです。嬉しかったです。土地も買いました。設計もしました。作品も集めました。全生命を賭けてやりました。
 ところが、日韓条約の不備というか、慰安婦の問題とか、徴用による強制労働、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害者などの戦後補償ができていない。それが日本と韓国の外交問題になりました。それまで友好的に日韓関係は進んでいたのですが、戦後補償問題と歴史認識による教科書問題、竹島(独島)領土問題が重なって、日韓の問題がこじれました。田沢湖町は財政的な理由と言って、スッと引いてしまった。莫大な投資、莫大な時間をかけ準備をし、人生を賭けた私はあっさりと捨てられ、孤児の様な気持ちになってしまいました。

李方子様との出会いについて語りましょう

 1982年、日本橋三越でチャリティーバザー展を開催しておられた、韓国の李王朝の李垠(イ・ウン)殿下の妃・李方子様にお会いしました。李垠殿下は11歳のとき伊藤博文によって日本に連れて来られた方です。1970年に亡くなられました。
 1963年に李垠殿下と李方子妃殿下は、朴正煕大統領の計らいで韓国へ帰る事が出来ました。李方子妃殿下は亡くなられた李垠殿下の後を受け、社会福祉活動、慈善活動をなさっているというニュースを読み、1974年、李方子妃殿下を激励しようと韓国へ行き、ソウルでお会いしました。私の初の韓国訪問でした。
 1982年のチャリティーバザー展開催の際、1974年にお会いした時の縁で、私は通訳や接待でお手伝いさせていただきました。そこで妃殿下が「あなたは何をしている方ですか」と聞かれたものですから、「私は田沢湖畔に祈りの美術館を造る事に邁進しています」という話をしました。
 それから五年くらいしてから、李方子妃殿下がご病気で臥せっているというニュースを見まして、お見舞いにソウルへ行き、お会いしました。そしたら「河さん、あなたは美術館を造ると言ったけれど、どうなった?」と聞かれ、びっくりしました。その時は、まだ田沢湖祈りの美術館建設の話は壊れていなかったんです。そしたら「河さん、私が一筆書いてあげるわよ。美術館の名前私が付けてあげるわよ」と言って書いてくださったのが、「田沢湖祈りの美術館」の揮毫でした。しかし、その後になって田沢湖での美術館計画の話は壊れます。

父母の故郷・霊巌について話します

 私の父母の故郷は、全羅南道の霊巌(ヨンアム)といいます。館山市の四面石塔がある大巌院を創建し、三十二世・知恩院の上人になられたのが霊巌上人ですね。
 霊巌には道岬寺(トガプサ)というお寺があります。霊巌の名刹です。1300年以上の歴史を持つ古いお寺です。道岬寺には観音菩薩の曼荼羅があったんです。それが知恩院にあるんです。それは400年くらい前、江戸時代に、霊巌上人が持って来たのではなかろうかと私は勝手に考えています。地元では加藤清正軍が略奪したと言われているのですが記録がありません。
 404年に応神天皇が百済の王様に賢人を求め、招請に応じて日本に渡来したのが霊巌出身の王仁(わに)博士で、日本に千字文と論語をもたらした人です。父母の故郷の偉人との歴史的つながりが、在日二世の河正雄の誇りにしているわけです。戦後は王仁博士の名は教科書をはじめ日本の社会から消え、尊崇の念はどこかに置き去りになり忘れ去られてしまいました。ですが、その恩恵は不滅なのです。
 私は在日二世、日本で生まれ日本の教育を受けているけれども、自分の存在や精神はそうした歴史の誇りの上に立っている。そう考えていただけたらありがたいと思います。

田沢寺の慰霊碑と慰霊祭について話します

 話は姫観音に戻ります。看板の記述について見解が違うということに対して、「売名行為」「でっち上げ」「みんなが平和に暮らしているのに、なんで波風を立てる事を言うのか」と地元の方や同胞からも非難されました。人格も人間性もありませんでした。一番信頼していた友人や同級生、先生までが、「お前何しにこの田沢湖へ来たんだ」と言われ、辛い思いをしました。
 姫観音は田沢湖周辺の国策工事に携わった韓国人、朝鮮人徴用工や日本人の犠牲者の慰霊碑として建立されたと僕は考えていた訳です。しかし、その史実を記した朝鮮人徴用工の記録は見つからなかった。誹謗中傷の為にショックを受け、私は夢遊病者の様な病人になり、起き上がる事が出来ませんでした。
 そこへ横手の十文字町の西成町長さんから電話がかかってきた。「河さん、秋田県の公文書が出てきたよ」といってFAXで70枚くらい送って来ました。何ヶ月も立ち上がれなかった私は、パッと起き上がり、嘘の様に病気は治りました。
 田沢湖の近くに田沢寺(でんたくじ)というお寺があります。その寺に朝鮮人無縁仏が葬られているという事が判りました。そこに慰霊碑を建て、1990年から慰霊祭を行なっています。今年は10月12日、第11回目の慰霊祭を行ないます。
 「その時の遺骨、無縁仏はどうなさいましたか」と住職さんに聞いた所、「私の父の遺骨と共に埋葬しました」というのです。こんな美しい話、こんなありがたい話があるのでしょうか。感動しました。歴史は不幸だったけれど、その後の心の営みはありがたいですね。

映画「赤い鯨と白い蛇」を観て感じ入りました

 昔は田沢湖町、今は仙北市ですが、私の同級生や先生、市長さんはじめたくさんの方々が慰霊に来ていただいています。今日の午前中「赤い鯨と白い蛇」の上映がありました。その映画のメッセージは出征する兵士が「戦場に行った私たちを忘れないでくれ」と言い残します。それに対して、主演の香川京子さんは「それを忘れたら二度死ぬことになる」と語る。
 田沢寺に祀られている無縁仏も同じです。忘れてはなりません。忘れることは罪です。戦争にいい戦争も、悪い戦争もありません。戦争は罪悪です。戦争を経験した人は皆、私と同じく告発します。
 まるで戦争を経験した様に、大それた事を言いましたが、私の戦争体験は六歳のときです。大阪での戦争末期の話です。B29が来る、焼夷弾が落下する。空襲に備えて町内会で防火訓練をしました。六歳でしたが大人に交じり、バケツリレーのお手伝いをしました。大人の真似をして、竹やりの練習もしました。
 同じ長屋に住んでいた同い年の子が、いつも私の家の前で戸が開くのを待っていて、戸を開けると大きな声で「朝鮮人、朝鮮人」と囃し立てました。余り腹がたったので、竹箒で叩いてしまい、枝先が当たり、血が出てしまいました。それを見た母は怒って「謝って来い」と言いました。「俺は何も悪くない」と主張しましたが、しょうが無く謝りに行きました。そのとき、その子の母親は「正雄さん、うちの子が悪いんだから、怪我もこれくらいでよかった。謝らなくていいよ」と言って許してくれたんですよ。その時、正直に自分はバカだなと反省しました。その子は終戦まもなく栄養失調で亡くなり、今でも可哀想だったと思います。
 映画「赤い鯨と白い蛇」の中で、兵隊さんは「私は戦争のために正しい生き方を出来なかった。残されたみなさんは正しい生き方をしてください」というメッセージを残して亡くなられた。主演の香川京子さんは兵隊さんとの約束を守るために、正しい生き方をすると決意をし、それを実行する。そういう映画でした。
 政治家は権力を持ち、お金持ちは財力を持って力を誇示したがる。力で勝負しては駄目です。力で勝負したから日本は敗戦という事になったんでしょう。韓国も失敗しています。人類の歴史は大なり小なりそのようです。では何で勝負するのか、
 心ですよ。相手を良く理解しなくては駄目です。相手の立場にならなければ駄目です。そうすることで自分の立場や主張が理解してもらえる。お互いに譲り合うということです。それには高度な知識よりも知恵が必要です。
 私は美術家です。美術は人の魂を揺り動かします。絵は何も語りませんが絵の中には、その時代に生きた作家たちのメッセージが込められています。私が在日の作家の絵を集め始めた動機は、田沢湖畔に「祈りの美術館」をつくるためでした。歴史、その時代を生きた人達が発するメッセージを風化させないため、作家は亡くなっても作品は残ります。「芸術は永遠である」という言葉がありますね。時代はどんなに経っても魂は残っている。その時代を生きた歴史を美術作品からしっかり学ぶことが出来るのです。

 山本作兵衛は筑豊の炭鉱夫として一生を炭鉱で過した方です。彼が絵日記に描いたものが、世界記憶遺産になりました。
 河正雄がコレクションした在日の作家達の絵も、その次元のものなのです。

 世界はひとつです、境界はありません、民族の違いもありません。その時代をともに生きたという証言、記録、史料など人類が共有する文化遺産なのです。美術作品から発せられるメッセージの偉大性を示すのが河正雄コレクションではないか、と私は自負しています。文化価値を共にする世の中の流れはますます高まり、世界は文化の時代に入っているのです。

 田沢湖祈りの美術館で展示出来なかった私のコレクション、25歳から始め53年継続して集めた作品群は、光州市立美術館を始めとする韓国の美術館や博物館など10箇所に1万余点寄贈して、今は国内を巡回展示しています。ありがたい事に父母の故郷霊巌では郡立の「河正雄美術館」が設立されています。二年後になりますが、光州事件のあった光州市にも「河正雄美術館」が創設されることになっています。その意議は、在日の生き様を顕彰することだけでなく、美術が持つ意味が今、価値として世界で認められつつあるからだと思います。過去に在日の人たちは虐げられ、差別を受けてきています。そうした人権にかかわるものという視点でも、韓国文化の発展に願いを込めています。
 今日こうして皆様方にお話できたことを光栄に思います。最後までお聞きいただいたことに感謝申し上げます。

以上