光州市立美術館名誉館長 河正雄

―心正しければ筆正し―

2019年新型コロナウイルス感染症が社会的、経済的影響を先んじて描いたカミュ著の「ペスト」に対する関心が高まった。2020年に入り世界的に蔓延したコロナ禍は、14世紀中世ヨーロッパにおける人口の1/3(3000万人)がなくなったというペスト災害に酷似し、歴史の再現となっているのではあるまいかと言われる。

 コロナは善悪、老若男女区別なく忍び寄り苛烈な症状は時に命を奪う。しかし人は自身が罹患する事はない、運の悪い人達だけが罹り自身には縁遠いものだと抽象的に思いがちだ。

 毎日の仕事に没頭、時に享楽に溺れる狂騒の日々、自分だけはコロナに罹患しなければ良いと、闇雲に生きる抽象の世界に生きる人々が、自身の幸福とは反対の位置にいる事に気付き、その心の土台というものを激しく揺さぶられる変化に直面している。

 抽象と戦う為には、自分が正しいと思う理想や理念で対抗する事になる。誰も目に見えぬ其処彼処に遍在する病魔に触れて、罹患したいとは思わないだろう。しかし人は自分の心の中にコロナを持っている現実からは誰も逃れ得ぬと認識しながら自覚が出来ていないようだ。

 罪のない子供達までが苦しみ死んでいく世界は信じたくはないし、人道的に許容出来るものではない。神が人間の所業にコロナという罰を与えられたという人々もいる。ではコロナは神の名の元に善悪選ばずに人間を罰しているというのだろうか。

人類は「神は人間を見捨てないし、人間の罪を救ってくれる」と信じて神を肯定して来た。しかし誰しも不条理な災禍に巻き込まれて殉教者になりたくはないのだ。

身に迫るウイルスから逃れるには、身を護る為の神頼みではなく、身近な先祖、先人の行いに感謝の祈りを捧げ、積み上げられて来た叡智と精神性を以て対処すべきではないだろうか。

コロナは人間の尊厳とは、人生とは、と災禍の中に生きる人類に警鐘を鳴らし、三省(自省・内省・反省)を促しているように思える。人間はいずれは死ぬという命題を抱えて生きる。それ故に心正しい人は恐れを知らない。

―不条理と戦う人生―

損か得か、得する者がいれば誰かが損をする表裏一体の論理。金儲けという資本主義体制の末路、金が唯一の価値基準とする現実世界に於いて、人間社会に現在恐ろしい事が起きている事にようやく気付き、いつ終わるとも判らない漠然とした畏怖を抱えつつ生きる事を余儀なくされているが、凡人は感じつつも正しい選択肢を選ぼうとしないのが常である。

 「事なかれ主義」で人間としての責任を棚上げにした「自己責任回避」が蔓延している。無防備で事態を直視出来ない人間は、自身の首を絞める「袋の鼠」となって孤立を深めている。内なる悪を見ようとしない自身を社会的、心理的「追放状態」に追い込む悪循環に陥っている。人間社会は常に不条理だ。愚かにも歴史は強者劣敗を繰り返している。

 「ペスト」の著者であるカミュは常に「不条理」と向き合い、「不条理」と相対し生きた時代の記憶を作品世界に遺した。

自分が楽になり生き易くなる幸福の為、愛する人の為に何かをしたい。内なるペスト=不条理に対する葛藤を抱え苦しんでいる人の為に為すべき事をする。生きた街、国の住人として、人間として市民と連帯し自分の幸福の為の理念に逃げないで「不条理」と戦う誠実さを以て自分の仕事を果たす。

理念で戦う戦争の「不条理」、全体主義や天災害の「不条理」の世界をどう生き、どう戦うべきか。それには連帯を以て立ち向かうべきであると説いている。

しかしながらイデオロギーに執着する権力者や自由主義者、弱肉強食の資本主義の不条理を醸成している現実から、どのように連帯するのか。思想、身体、経済社会的に弱者優先であるべきとの理念である。

「ペスト」は伝染病が人間を集団的「不条理」で襲う事であるとカミュは描いている。「不条理」への反抗を「臆病者になりたくない」という人間のささやかな尊厳と善意で戦い勇気ある生き方への憧れを、生きた文章と文体の言霊で生命を注ぎ込んだ。

暗い人生、貧しい人生、差別の人生、故郷からの追放と別離、ディアスポラの「不条理」を誠実に、カミュは「ペスト」に多面なる人間の本質を捉え描いた。偉大なる直感と感情を持った認識と記憶が生き延びている。

後に「歴史は他の人が作るであろうから、正義を守るより母を守るであろう」とノーベル賞授賞式でカミュは述べた。母こそは正義であるとの言霊に私は首を垂れる。

人類世界は運命共同体である。その概念を権力者が国民や市民を従属させる為の常套句であると人は言うが、私の概念は権力者とは理念が異なる。

未来は根源的に開かれている。理念の下に愛と友情を以て、運命を共にし団結協力する事こそがコロナ=ウイルス=「不条理」を克服する為の唯一の救いの道である。人生とは台本にないウイルス=「不条理」と戦う人生であると言える。私達はありとあらゆる「不条理」に試されているのだ。

―正義とは―

自分の人生は自身で作るものである。だが人間社会がおかしな事になっている。道徳律の価値と人間的価値が滅びゆく理不尽な運命にあるように思える。

 道徳律が形骸化するのは何故か。権力者の横暴と社会的不平等、市民の従属的無気力が相乗して、社会的衰退や人間的劣化が生じる。結果として不道徳が蔓延して人間の品性が劣化、理不尽が募る。

 3年前の心臓手術後から高血圧、糖尿病を発症し自分の身体さえ思い通りにならない。本当に思い通りになるのは自分の心しかないと思い至った。その心を明らかにする余裕が今は少し出来たので綴っていきたい。

 2020年4月3日、韓国文化院に於いて在外国民として韓国第21代国会議員の選挙権を行使し、投票した。その選挙結果は与党「共に民主党」の圧勝であった。

 勝因は新型コロナウイルス封じ込めの対策が良かったとの分析である。善は悪を退けると言うが、コロナウイルスの猛威が時の味方をしたのかと思うと歯痒い評価ではある。

 報復と弾圧を繰り返して来た非情な世界、「不条理」を繰り返して来た人類の営みはいつも馬脚を現すが如き歴史であった。頼みの「良識」は奪われ、喪われて、この世は

元々から混沌で滅茶苦茶、残酷極まりない絶望的なものに思われた。

 「旅の具の多さは身のさわりなり」という芭蕉の句がある。何も持たずに故郷から始まり、故郷で終わる長い旅路を生きて来た。何も持たずにこの世を去る覚悟を固める孤独な旅路であった。

 そう覚悟さえすれば苦しむ自分の心を冷静に見る事が出来る。高級住宅地の豪邸に住んでいる方の孤独に苛まれているというぼやきを聞いた。功成り名遂げていても充足感を得られない終活は悲哀を感じる。

本来、人間の一生とは束の間の幸福を挟む苦しみと絶望の連続の旅ではなかったか。今、先行きが見えない時代に立って、そう覚悟する自分を見つめる事で、絶望の底に善と希望の光が輝く未来があるように思える。

 私は他人には何も期待しないで生きて来た。だからこそ思いがけない優しさと友情が旱天の慈雨となって降り注ぎ、人間の温もりを知ることが多い。

 理屈をつけたものはいずれ滅び衰える。理屈に合い添う事が道理である。理屈無しで相撲技の二枚腰、二枚蹴りを使い強かさに生き延びる事が知恵の一つでもある。

 病はただ「存在するだけ」であるというのに、人類はその「存在するだけ」のコロナウイルスに一方的に脅かされ、試される形になっている。

 韓国がMERS(マーズ)禍との戦いから学び、不意のコロナの「攻撃」に対処し、医療崩壊を迎える事も無く成果を上げて一時安堵した。被覆による知性の成果であり、正に「備えあれば憂いなし」である。

しかし、再び集団感染が発生し、第2、第3波の感染拡大への不安が広がり始めている。油断大敵。我々は今だ、かなり困難な状況にあることを再認識せねばならない。長期戦に備え、模範的試練を世界から求められている。

 私はこれまでに正義を振りかざす人々に翻弄されて来た。迎合主義や正義中毒にはなりたくないので、それらの「不条理」の対する免疫を長い人生で獲得し反抗して来た。

 力や数の論理が全てではない。正義の名で人を無為に罰することは断じて許されない。どちらかの味方になることを拒んで、自分に倣い信じて己の正義の道を歩んで来た。

 日々研究熟考し、溢れる感謝の気持ちで自己を見つめ、自我を捨て落としてゆくと足元が定まり、軸が定まって迷いが少なくなりリベラリストになっていく自分が見えた。

 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」、80歳で心の欲するところに従って矩を越えず、心の赴くままに行動して、道理に違う事は無かった。

 自分を信頼することでその抗体は強くなる。その代価はこれまでに充分に支払った。心も体も己のものではないという自分が判り、この世に恐ろしいものは無くなって行った。

―デマ・魔女狩り―

デマの性質について「社会という生体の健康が一番その抵抗力を失っている時に爆発する」とオルポート・ポストマン著「デマの心理学」で学んだ。

デマが広がる条件は、その事柄が人々にとって如何に重要であるか、そして世に出ている公式情報の根拠がない曖昧であるという2つの条件の掛け算で決まるという。情報が全くなかったり、あっても不完全あればフェイクニュースやデマ、流言飛語の燃料となる。

2020年3月の世界的なコロナ拡散によるパンデミック「都市封鎖」は完全にこの二つの条件を満たしている。パンデミックになっていかがわしい噂や奇妙で不確かな情報のフェイクニュースが聞こえて来る。初めにそれを発した者は元より拡散した者にも罪がある。

SNSへの書き込みによる一つの噂話が街角で火が点くと、人の言葉だけを聞いている本質が判らない人は、そのデマを信じて火が炎に転じる。炎に焙られて人は理性を失い、自嘲的被害者として加害者となっていき、その連鎖を食い止める方策が見出せなければ手の打ちようが無くなる。

メディアは本来、市民の声を代弁する役割を担うものだ。しかしその役目を忘れ、狂騒する様は筆舌に尽くし難く、絶望と諦観を抱いてしまうこの頃である。

人の弱みに付け込むデマやフェイクニュースに騙される人が悪いと言われ、声や手も上げる事が出来なくなる分別ある中高年が如何に多い事か。強い者に巻かれ、踊らされて付け込まれる愚者になる事程、悲しい事は無い。

デマを拡散させる策略や目的にはウイルス=理不尽の意趣返しを受ける。ウイルスの鎮静後に、その罪は深刻な憎悪と嫌悪、分裂と差別となって恐ろしい社会現象となって表出する。

悪の捏造者は誰で、憎悪の対象者は誰か。マスコミ、メディアは社会から乖離、孤立無援とならぬよう「除菌者」としての監視が必要である。

中世ヨーロッパで行われた魔女狩りという社会的な病巣は、近代においても米国での反社会主義による「赤狩り」として健在であると知らしめた。徹底した人権侵害と人格全否定は人類が持つウイルス=理不尽であり受け入れる事が出来ない。

この世にそもそも魔女など存在はしない。理性を重要視すれば魔女狩りなど成立し得ない。

しかし人々は自分が標的にされる事の畏れから理性を失い、その畏れが個人のみならず大衆に拡がった時に歯止めが利かなくなり、忌むべき幽霊のような人の道連れとなる。隣人同士で無実の人を集団で責め苛む異常なる暴力行為である。

魔女狩りの手法は、理由などないものを理不尽な行いを匿名で隠れて行う仮面、仮想ゲームである。巡り巡る中で危険な落とし穴を作り、落ちて行く社会に不安を煽り育てるウイルスそのものである。

人々は気に入らないと、自分の好みと勝手で批難、誹謗中傷し、社会的風評を増殖させて世論を煽り立て貶める。

考えればウイルスは老若男女、金持ちや貧乏人、学者や無識者、善人や悪人も等しく受けるという点に於いては差別がなく平等であると言える点、皮肉である。

今世のコロナ終息後には様々な形で、無意味で無慈悲な魔女狩りが行われるのではないかと危惧する。共生するしかないウイルスは形を変えて襲って来るだろう。人間の試練は連帯と最善を尽くすのみに術ありであろう。

―滄浪之水清兮―

自分の苦悩は見えるが他人の苦悩は見えない。自分だけは大丈夫とタカをくくってパンデミックに遭い、悪夢を見ているのではなく現実なのだと我に目覚める。穴の開いた舟はどんな舵を取っても前には進めない。今は考え、正し、直す時であると心を静め姿勢を整え内面の意識を顧みる。

 真理を見誤り数の大きさを求め、しがらみや拘りに囚われた解放されない弱い自我を意識する。目的も意味も考えず、言語に囚われて惑わされる自己主体への内省である。

 世人は他人の成功を妬み、嫉妬する。好き嫌いという感情で人を陥れる。周囲の顔ばかり気遣い、風向きで一夜にして敵味方へと豹変する。寝業師達の敬意と称賛、祝福が出来ない卑しい心根が理解出来ない。

 生臭い人情の世界で生きるには、自分が一番愚かだと思えば間違いないようだが、愚かにはなれない自分がいる。簡単に物事の良し悪しを語る事は慎まなければならないが、どちらにも傾かず「正しさを見抜く心」を大事にしたいと思う。

 2020年4月24日、俳優の岡江久美子さんがコロナに感染し、遺骨となって自宅に帰宅された。黒衣の担当官が白木の箱に入った骨壺を夫である俳優の大和田獏氏に玄関先で手渡されるテレビ映像が流れた。

遺族ですら感染を避け別れの為に火葬場に行く事さえ許されず、無言の帰宅を悲痛な思いで待っていたのだ。無情の帰宅は痛々し過ぎ、不条理の極みそのものであった。

その時、先の大戦で散った兵士の遺骨が帰宅する場面を連想した。コロナは生死を懸けた戦争そのものなのだ。過去に横たわる暗黒の時代が甦り、行先の見えない霧の中に取り残されたような不安と、暗澹たる思いを抱いた。

その時、2019年9月1日に墨田区横綱町公園で開かれた関東大震災96周年朝鮮人犠牲者追悼式典の記憶が蘇った。

会式の辞、僧侶の読経、鎮魂の舞、続く追悼辞を右翼の大音量街宣スピーカーの妨害で悉く掻き消され、暗澹たる式典となった。毎年繰り返される暴挙は「不条理」の極致であった。

日本では潜在的に在日韓国・朝鮮人に向け繰り返されるヘイトスピーチ。人を貶め、侮蔑する言動を憚らず確信的差別を楽しむ一定数の言動が日常攻撃をして来る。

差別や偏見はネットや雑誌、テレビ、SNSに広がり、言いたい放題の風潮である。憎悪の言動が

広がっている日常に身が縮む思いである。

普通の人々の正義感に訴え「不当な要求をする連中(在日韓国・朝鮮人の事)」と誰が発言しているのか見えぬ世論の作為を以てイメージを造成した影が迫って来る。

作為された世論は容易に敵味方の彼我を変え、「敵」という認定に転ずる事がままある。1%にも満たぬ、極端な意見でも、その極端さ故に存在感があるから無視出来ない。

極端な主張、スキャンダル、ゴシップの記事を以てセンセーションを巻き起こし、一時的な熱狂を以て差別し恣意的排外主義を煽る。それらが大数を占める様に見えてしまうのは恐ろしい。

正確な歴史的認識に基づかないヘイトスピーチで憎悪の言動を広げ、差別に加担する極一部の情緒には失望を禁じ得ない。

それでは韓国にはヘイトスピーチが存在しないのかと言えば、形や情緒は違えども存在している。他山の石として学習せねばならない。

ペスト菌は終息したが多くの方が亡くなったという事実が人類史には刻まれている。

コロナウイルスが沈静化しても、かなりの時間その爪痕は残り我々を苦しめるであろう。その認識と記憶が死者達を忘れない事に繋がると考える。ペストやコロナの中で戦い、生きるのみの人生は面白くない。生きて明日を臨む為にも、今ある命を無駄にしてはいけない

滄浪之水清兮 (滄浪の水が清らかに澄んだ時は)
可以濯吾纓 (自分の冠の紐を洗えば良い)
滄浪之水濁兮 (もし滄浪の水が濁った時は)
可以濯吾足 (自分の足を洗えば良い)

大河の水は、ときに澄み、ときに濁る。いや、濁っていることのほうがふつうかもしれない。そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るのは、はたしてどうなのか。なにか少しでもできることをするしかないのではあるまいか。私はひそかに自分の汚れた足をさすりながら、そう考えたりするのである。

(五木寛之著 大河の一滴 「屈原の怒りと漁師の歌声」より抜粋」

コロナ禍の在日を生きる

光州市立美術館名誉館長 河正雄

(民団新聞掲載用 ※上記記事抜粋)

―不条理―

新型コロナウイルスが猛威を振るっている。2020年1月31日、WHOが緊急事態宣言を布告したコロナ禍は、社会、政治、経済に多大な影響を与え、世界中が漠然とした不安と恐怖の刃を喉元に突き付けられた。いつ終わるとも判らぬままに生きる事を余儀なくされ、穏やかならぬ日々が続いている。

病はただ「存在するだけ」であるというのに、人類はその「存在するだけ」のコロナウイルスに一方的に脅かされ、試される形になっている。

コロナは人間の尊厳とは、人生とは、と災禍の中に生きる人類に警鐘を鳴らし、三省(自省、内省、反省)を促し、何かを学ばせようとしているのだろうか。台本のないウイルスの不条理と戦う人生とも言える。

2020年4月3日、在外国民として韓国第21代国会議員の選挙権を行使し、投票した。その選挙結果は与党「共に民主党」の圧勝であった。

 勝因は新型コロナウイルス封じ込め対策が良かったとの分析である。コロナが時の味方をしたのかと「不条理」を思うと歯痒い評価である。

韓国がMERS(マーズ)との戦いから学び、不意のコロナ「攻撃」に対処し、医療崩壊を迎える事も無く成果を上げ一時安堵した。被覆による知性の成果であり、正に「備えあれば憂いなし」である。

 しかし、再び集団感染が発生し、第2、第3波の感染拡大への不安が広がり始めている。油断大敵。我々は今だ、かなり困難な状況にあることを再認識せねばならない。長期戦に備え、模範的試練を世界から求められている。

 2020年4月24日、俳優の岡江久美子さんがコロナに感染し、遺骨となって自宅に帰宅された。黒衣の担当官が白木の箱に入った骨壺を夫である俳優の大和田獏氏に玄関先で手渡されるテレビ映像が流れた。

遺族ですら感染を避け火葬場に行く事さえ許されず、無情の帰宅は痛々し過ぎ、不条理の極みそのものであった。

映像で先の大戦で散った兵士の遺骨が帰宅する場面を連想した。過去に横たわる戦時の時代が甦り、暗澹たる思いを抱いた。

その時、2019年9月1日に墨田区横綱町公園で開かれた関東大震災96周年朝鮮人犠牲者追悼式典の記憶が蘇った。

会式の辞、僧侶の読経、鎮魂の舞、続く追悼辞を右翼の大音量街宣スピーカーの妨害で悉く掻き消され、暗澹たる式典となった。毎年繰り返される暴挙は「不条理」の極致であった。

―ヘイトスピーチ―

日本では潜在的に在日韓国・朝鮮人に向け繰り返されるヘイトスピーチ。人を貶め、侮蔑する言動を憚らず確信的差別を楽しむ一定数の言動が日常攻撃をして来る。

差別や偏見はネットや雑誌、テレビ、SNSに広がり、言いたい放題の風潮である。憎悪の言動は広がっている日常に身が縮む思いである。

普通の人々の正義感に訴え「不当な要求をする連中(在日韓国・朝鮮人の事)」と誰が発言しているのか見えぬ世論の作為を以てイメージを造成した影が迫って来る。

作為された世論は容易に敵味方の彼我を変え、「敵」という認定に転ずる事がままある。1%にも満たぬ、極端な意見でも、その極端さ故に存在感があるから無視出来ない。

極端な主張、スキャンダル、ゴシップの記事を以てセンセーションを巻き起こし、一時的な熱狂を以て差別し恣意的排外主義を煽る。それらが大数を占める様に見えてしまうのは恐ろしい。

正確な歴史的認識に基づかないヘイトスピーチで憎悪の言動を広げ、差別に加担する極一部の情緒には失望を禁じ得ない。

それでは韓国にはヘイトスピーチが存在しないのかと言えば、形や情緒は違えども存在している。他山の石として学習せねばならない。

―デマ・魔女狩り―

関東大震災の有事、デマや流言飛語による朝鮮人犠牲者は数千名とも言われている。デマの性質について「社会という生体の健康が一番その抵抗力を失っている時に爆発する」とオルポート・ポストマン著「デマの心理学」で学んだ。

デマが広がる条件は、その事柄が人々にとって如何に重要であるか、そして世に出ている公式情報の根拠がない曖昧であるという2つの条件の掛け算で決まるという。情報が全くなかったり、あっても不完全あればフェイクニュースやデマ、流言飛語の燃料となる。

世界的なコロナ拡散によるパンデミック「都市封鎖」は完全にこの二つの条件を満たしている。パンデミックになっていかがわしい噂や奇妙で不確かな情報のフェイクニュースが流れて来る。

SNSによる一つの噂話が街角で火が点くと、本質が判らない人は、そのデマを信じた炎に転じる。炎に焙られ人は理性を失い、自嘲的被害者として加害者となっていく。

デマやフェイクニュースに騙される人が悪いと言われ、声や手も上げる事が出来なくなる分別ある中高年が如何に多い事か。強い者に巻かれ、踊らされ付け込まれる愚者になる事程、悲しい事は無い。

デマを拡散させる策略や目的にはウイルス=理不尽の意趣返しを受ける。ウイルスの鎮静後に、その罪は深刻な憎悪と嫌悪、分裂と差別となって恐ろしい社会現象となって表出する。

この世にそもそも魔女など存在はしない。理性を重要視すれば魔女狩りなど成立し得ない。

魔女狩りは理由などない理不尽な行いを匿名で隠れて行う仮面、仮想ゲームである。

人々は気に入らないと、自分の好みと勝手で批難、誹謗中傷し、社会的風評を増殖させて世論を煽り立て貶める。

ウイルスは老若男女、善人や悪人も等しく伝染し平等であると言える点、差別がないのは皮肉である。

歴史は繰り返されるという。今世のコロナ終息後には様々な形で、無意味で無慈悲な魔女狩りが行われるのではないかと危惧する。共生するしかないウイルスは形を変えて既に第2、第3波と襲って来るだろう。連帯し最善を尽くす試練に術あり、の日々である。