経緯
1994年 | 長崎の樹木医・海老沼正幸氏が被爆した柿の木から2世を生み出し世界の子供達に配り、ヴェニスビエンナーレ大賞現代美術家・宮島達男氏が平和を祈念するアートプログラムとして発展させた。 |
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2000年4月5日 | 2000光州ビエンナーレ企画長崎被爆柿の木植樹・光州市長 ・ビエンナーレ理事長らと共に |
2001年4月19日 | 「長崎被爆柿の木」再植樹・秋田県仙北市田沢湖町の訪問団 13名と共に |
2002年2月19日 | 「長崎被爆柿の木」再々植樹 |
2014年10月22日 | 柿の木が生った事を確認する |
2014年11月29日 | 時の蘇生・柿木プロジェクト20周年記念感謝の会 清澄庭園大正記念館 |
2015年10月25日 | 光州市立美術館主催「時の蘇生」柿の木プロジェクト フォーラムパネラーとなる |
2020年9月19日~12月13日 | 宮島達夫展・柿の木プロジェクトの展示(千葉市美術館) |
公式サイト:https://kakitreeproject.com/
※上記プレート日本語訳
“時の蘇生”柿の木プロジェクト
被爆柿の木2世(長崎)
1945年第2次世界大戦当時、日本長崎への原爆投下の為に全ての生物が死滅したが、柿の木1本が生き残った。
1994年、樹木医海老沼正幸氏が被爆した柿の木から2世を誕生させ子供達に配る運動を始め、1996年現代美術家である宮島達夫氏がこの運動を芸術として拡張するプログラムを考案した。
こうして世界の子供達に“被爆柿の木2世”を体験する為に植樹木運動を推進する非営利の“時の蘇生”柿の木プロジェクト実行委員会を発足し、それは変化し続け関係と永続概念を持つ芸術プロジェクトとして発展、展開している。
そして1999年ヴェニスビエンナーレ、第3回光州ビエンナーレでもその精神を共にする記念植樹を行った。
2000年4月4日
主催:時の蘇生柿の木プロジェクト実行委員会
柿の苗木の育て親 海老沼正幸
後援:光州広域市光州市民団体協議会
5月財団 財団法人光州ビエンナーレ
※石碑のプレートは片づけられてしまい、現在は所在不明となっている
2000年4月4日 第1回植樹 第3回光州ビエンナーレ記念
光州市市長 高在維/ビエンナーレ財団理事長/5.18財団理事長/市民協議会会長/秩父屋台囃子公演一行/宮島達男/海老沼正幸 出席(敬称略)
2001年4月19日 第2回植樹
光州市立美術館館長 呉建鐸/秋田県仙北市田沢湖町文化芸術協会員一行
第2回植樹後 切断され防犯の為に柵設置
第2回植樹後 切断され防犯の為に再柵設置
第2回植樹後 切断され防犯の為に柵再々設置
2002年2月19日 第3回植樹
2014年10月10日 植樹後、初めて柿の実が生る
朴哲氏撮影 朴哲氏撮影
新聞記事
長崎の原爆でも生きのびた柿の木の苗を光州に植える
韓国植樹7年 抜かれ切られ・・・(2007年)
反核と日韓友好を願って植えられたものの、相次いでだれかに引き抜かれたり、切られたりした。
背景 には根強い反日感情があるとみられ、管理する光州市立美術館は3本目を人目につかない場所に植樹。
約2mの高さまで成長したため、来春、元の場所 に植え替え、平和への思いを市民に改めて訴える。
2014年
長崎被爆柿の木と私(2015年)
時の蘇生・柿の木プロジェクト インタビュー
仲外公園
韓国 光州広域市(2000)
日韓の友好と平和を願って推選された。
韓国発の植樹プロジェクト。在日韓国人2世の河正雄さんは、水戸芸術館の展示で被爆柿の木2世の存在を知り、「ぜひ、韓国光州市に植えたい」と、その場で植樹を申し込んだ。河さんは在日韓国人アーティストの作品2603点を光州市立美術館へ寄贈したコレクターでもあったため、第3回光州ビエンナーレ記念植樹としてプロジェクトを光州へ招聘した。こうして、光州市立美術館が植樹の受入先となり、「秩父屋台ばやし」の和太鼓演奏の中、韓国初、アジア初の植樹が実現した。ところが、反日感情は根深く、まもなく柿の木は何者かによって引き抜かれた。そして、翌年に再植樹するも、再び出てきたばかりの芽を切り取られる事件が起きてしまう。それでも河さんは「我々がここであきらめてしまっては、未来に希望を与えられない」と再々植樹を強く希望し、3回目の植樹は非公開で行った。2014年、柿の木は見事な実を付けるまでに成長したが、未だにその場所は公にされない。近い将来、両国の友好と平和のシンボルとして一般に公開されることが期待される。
日本国内で起きた同様の事件
朝日新聞 2005年4月26日 朝日新聞 2005年5月11日 民団新聞 2014年5月14日
長崎で鳴らす「平和の鐘」
在日コリアン2世で韓日文化交流に尽力する河正雄・光州市立美術館名誉館長の寄稿「旅の途中」を紹介する。
4月27日、板門店の平和の家で世界注視の南北首脳会談が開催された。解放後 (終戦後) から3回目、10年6カ月ぶりの会談であった。 北朝鮮の金正恩委員長が38度線の分離線を簡単に越えられたとの所感を述べた。
会う事がこんなにハードルが高く、統一の夢を遠ざけて来た歳月の虚しさが胸を掠めるが、希望ある再会である。
―平昌オリンピック―
きっかけは平昌オリンピック南北合同チームによる参加だった。これこそ本来のオリンピックの意義と役割が果たされたスポーツの祭典になったと喜んだ。
平昌オリンピックは平和の祭典となった。誇らしさと未来への自信と希望が湧き上がって来るのを抑える事が出来なかった。
その後に開催された平昌パラリンピック代表選手38人の中、私の母校秋田県仙北市立生保内中学校の後輩であるバイアスロン選手高村和人君 (35歳)がただ一人の視覚障害者として出場した。
2017年12月11日の母校創立70周年記念識演の際、佐川校長より高村君は私の教え子で母校の誇りであると知らされた。平昌パラリンピックの期間中は彼の出る競技のテレビ中継を全て観戦し熱い声授を送った。そして激励の書簡を送った。
パラリンピックが終わり、4月2日に高村君と会った。「今日は盛岡大学で講義をして来た」と話されたので、「スポーツの選手生活は短いけれど、教師は聖職で息が長い仕事だ。君が体験し、身体で覚えたものは貴重である。惜しみなく後輩達に教え伝え、勇気と希望を与えるメッセンジャーになれ」と話し、「今の社会は、健常者が障害者よりモラルや生き方の精神力が劣るような気がする。君が模範的なモデルになって健常者をもスポーツマンシップをもって教育力を発揮してリーダーになるよう」と励ました。
―長崎平和の木―
私は長崎という地名を見る、聞くだけで心が潤み感情が揺さぶられる。6歳の時に終戦を大阪で迎えたが、解放の喜びも戦争の理不尽さと犠牲者の事を思うと喜ぶ事が出来ない。因果な生である。小学生の頃、永井隆博士の「この子を残して」の著作を映画化した「長崎の鐘」を観て感動した事が根になり心に残っているからであろう。藤山一郎の「長崎の鐘」は切々たる名唱で、私は反戦の意を込め追悼の心を歌い続けて来た。
2000年2月、水戸芸術館へ学芸員に会う用事があって訪問した時の事である。『時の蘇生』柿の木プロジェクトと称するアートプログラムで子供と父兄が折り紙を折ったり、メッセージを書いたりワークショップを楽しんでいた。
1945年8月6日長崎に原爆が落とされ、あらゆる生物が死滅したが、1本の柿の木が生き残っていた。
1994年、長崎の樹木医である海老沼正幸氏が被爆したその柿の木から二世を生み出し、子供達に配る活動を開始した。
1996年、現代美術家である宮島達男はその二世の柿の木に出会い、その活動をアートとして応援していくプログラムを考えた。そして世界中の子供達に「被爆柿の木二世」を体感し、育てて貰う植樹活動を推進するノンプロフィットのユニット、『時の蘇生』柿の木プロジェクト実行委員会を立ち上げ活動開始した。
1999年ベネチア・ビエンナーレに参加し、現代美術の旗手として日本を代表する柿の木プロジェクトの主宰者、宮島達男は第3回2000年光州ビエンナーレの出品作家でもあった。
私は第3回2000年光州ビエンナーレの展示企画委員であった事から、記念として柿の木プロジェクトを光州に招請したいと、宮島違男に申し入れたが「柿の木を植える時期と時間がないので来年以降にしましょう」と断られた。
しかし私は20世紀の美術の“かたち“である宮島達男の表現、『時の蘇生』柿の木プロジェクトは韓国も考えるべき問題である。「苗を巡る人々の全てがアートだというあなたの作品として光州ビエンナーレ開催中に植え表現しましょう」と説得した。
こうして2000年4月4日、光州ビエンナーレメイン会場正門近い仲外公園の一角に柿の木の苗木は植樹された。
しかし、その苗木の運命は儚いものであった。ビエンナーレ会期後、何者かに引き抜かれてしまったのである。理由は「枯れてしまった」「国民感情から」というが私はその時、苗木を植える時期が悪かった事、イベントを急いだことが原因であると反省した。その時点に於いて既に韓日間の教科普問題が燻り始めていたのであった。
2002年に再々植樹した柿の木は守られ、喜寿を迎えた2015年秋になって赤い実が生った。それは光のように見えた。私はその喜びを長崎で噛み締めた。現実が厳しいからこそ、政治の壁を乗り越え、感情を克服して平和の祈りを受け継ぎ、生かし続けていく事が柿の木プロジェクトの本義なのだと新たにした。
原爆の現実の中で生き延びた強靭な柿の木の生命から、今我々に課せられた試練を生き続ける柿の木から激励を受け、その尊い姿を見る事で学ぶ事は多い。
―潜伏キリシタン―
折しも2018年5月5日、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産がユネスコの世界文化遺産登録と勧告され、6月24日には最終決定されるというニュースが報じられた。江戸時代の弾圧を乗り越えて明治時代まで密かに信仰を守った。もう真なる意味で陰に隠れる事も潜伏する事も必要ない、世界にその行いを認められた事は私の心の喜びである。
天界の父母の一生の願いと夢、その二世もその願いと夢を追って一生を生きて来た。今年は傘寿の歳を迎え心は早や長崎に旅立っていた。
到着した長崎は雨であった。長崎の雨には哀切の情感が色濃い。1990年、右翼に銃撃され奇跡的に命を取り留めて、瀬死の重体でありながらも「犯人を敵す」と述べた本島等・長崎市長 (任期1992年~2014年) の記事を読んで感動し、慰問の手紙を出した思い出がある。
戦前の日本が行った非人道的行為の反省から、原爆は落とされるべきだとの本島市長の加害認識と、謝罪からの原爆論感は共感を覚えた。日本敗戦から解放を得た韓国人には良心を感じ、共感出来る日本人であったからだ。すぐに市長から著作と共に礼状が届いたのには恐縮し、感動を新たにした。
翌日の5月9日は原爆投下の月命日であった。平和公園内の「長崎の鐘」の前に多くの人々が集まっていた。原爆殉難者の碑には動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民と刻まれていた。
「一緒に平和の鐘を鳴らしましょう」と井原東洋一・長崎県被爆者手帳友の会会長に誘われた。投下時刻午前11時2分、友の会会員と韓国や中国、西欧からの観光客ら数十人と共に、核も戦争もない平和な地球を子供達に、という祈りの心を共にして綱を引いた。
こよなく晴れた皐月の空に、鳴り響き渡る鐘の音は誓いを新たにした。いつまでも鼓膜に残り、心中で鳴り響いた。
長崎は連日、豪華客船が入港する世界に開かれた港である。世界に名だたるキリスト教国韓国からの観光客を多く見かけられた。特に若者らが熱心に異国を探訪し、信仰を支える拠り所としているように思えた。世界を身近く共感している所に好感を持った長崎の旅であった。
井原東洋一会長と 井原東洋一会長と 井原東洋一会長と