【01】先人の教えのかずかず
《01-01》過ぎたるは、なお及ばざるが如し
何をするにも、いき過ぎになっていると、それがどんなに良いことでも、むしろ不足ぎみや不満足な状態と変わらないのです。過度になってしまうようであれば、むしろ控え目にしている方がよろしいようです。
{出典}先人の知恵を拝借 故事百選より
《01-02》人生は手遅れの繰り返し {出典}河正雄のエッセーとして
ことばは命である。「悪心はうつがごとく 消えにくく 善心は水に描くがごとく 消えやすし」無限にも思えた寛容の心も無限などではなく限界である事を知る。辛抱強く明日という希望を持ったが、その希望が日々潰えつつある。いつ暴発へと裏返っても不思議はない。だが貧しい言葉で豊かな明日を、希望を語りたくないものだ。
怒りを覚えるのは未来があると信じているからである。このまま怒りも表さず、生涯を終えれば良いのだろうか。強い憤りを感じるのは、それでも希望を繋げたいと未知の可能性を必死に探し、もがいているからだ。
推測と想像だけで世論操作が行われ正義とする。政権が入れ替わったら慣行が犯罪となり、慣行で行われた全ての業務が犯罪に転じてしまう。力を貸した者が犯罪者となる不条理。楽観主義ではもう未来を拓けない世相に限界を感じる。
「損得打算しなくては韓国では生きて行けない」という脱北女性の言葉が世知辛い現実を生々しく伝えている。
私は祖国で、父母の故郷で心の中まで土足で踏まれ、裏切られ、心の繋がりが切れて行く断絶を幾度となく味わった。
大きく価値観が変動し、一つの時代が終わったジェネレーションギャップに震え、慄いている。在日の古い人間は、お払い箱か姥捨て山へ送られるのだろうか。
日本では最近、とある高校体育教師が生徒に暴力をふるう場面がクローズアップされ報道が行われた。暴力は犯罪、その場面だけを観た私は教師にあるまじき行為だと批判した。
ところが翌日、暴力を以て教師を罵り侮辱して食ってかかる生徒の行為が映された「編集前」の画像がSNS等で明るみに出て世論は一気に反転した。悪意を以て人を陥れようとする若者の後先を考えない行為であった。暴力事件だけに収まらない深い社会の病理を浮き彫りにしている様に思えた。
報道やSNSに潜む個対個ではなく、個対多となって襲って来る剥き出しの悪意に、恐怖の心理で萎縮する。
人間は芸術家の様には、もう生きられなくなった。天辺に立つと風当たりが強く寒いだけだ。出る杭は打たれ、抜かれ、屈辱に耐えられず、受けた痛みはいつまでも残り忘れる事は出来ない。
内面と外見の結びつきの箍(たが)が外れている人間社会は味気なく、小賢しく立ち回る者だけが出世する世の中は惨い。
良い面ばかり、悪い面ばかりの人間はいないが、どんな人間も己の性にもがき、心を病んでいるようだ。
いつか自分の知識や信念が間違って育ち肥大すると、崖っぷちに立っている誰かを論破し突き落そうとする。そういう人間の顔付きは自分の正しさに酔っている様で卑しい感じがする。
世界には秩序がある。相手を思いやって敬意を持ち、絶えず自己に疑念を持ち自問自答しなければならない。行動の先に何が起きるかという限界の認識を磨かねばならない。
自己認識とは大なり小なり自分を騙す事なのだと教わった。人間は言語を持つ事で物事を解釈する術(すべ)を得たが、閉じた個人の解釈であるからには真実と、自身に都合良い認識と騙しの区別は難しいものだ。
自己を知る。自己を律する。自己に打ち勝つ。試練に耐える。人間の弛まぬ努力と成長を尊ぶ言葉から、教訓を学び、どう生きれば良いのか、朝日新聞の「折々のことば」「天声人語」などから日々の糧を得ている。
《01-03》折々の言葉・天声人語
(01-03-01)ある僧侶のことば
あの時はわからなかったけど、今だったらわかるということが人生にはよくある。自分のしたことが、他人に思いも寄らぬ仕方で受けとめられ戸惑う。他人の人生に意図せぬ屈折や傷を与えてしまい、そのことも後になってようやっと知る。気付いた時はもう取り返しがつかない。経験というのは大抵そんなふうに起こる。人生は手遅れのくり返しです。
(01-03-02)良寛(1758年ー1831年)のことば
君看双眼色、不語似無憂 あなたは私の二つの眼の底にある深い悲しみの色を感じないか。語らねば哀しみが無いように見えるが、心の底には深い哀しみがある。
(01-03-03)月読寺・正現寺住職・小池龍之介のことば
私は全世界を、すみずみまで探し回った。『自分よりもより愛しいものが見つかるだろうか』と。そして、自分より愛しいものは、ついに見いだせなかった。(「自説経」)
人間の持つ底の底では自己中心的でしかあり得ない自己愛。仏教は人がみな自己愛者であるという荒涼たる真実を前提に出発する。
『誰もが自己愛者なのだから、自分の幸せを求めるのならば、他者の自己愛を傷つけてはならない』。他人の自己愛を傷つけると必ず仕返しがある。本当に自分が好きなら、他人の自己愛を尊重するのが賢明である。
(01-03-04)精神科医・岡田尊司のことば
人がマインドコントロールを受け易いのは情報が過剰に与えられている状態か、極度に不足している状態の時。情報が過多だと無秩序になる。情報が過少だと妄想を膨らませてしまう。誤作動し易くなる。
(01-03-05)韓国近代文学研究者・金哲のことば
世の中には『誤解をしたくてたまらない』という、きわめて独特な決意を持って生きている人々が意外にも多い。人は何故あえて曲解を押し通すのか。見たいものしか見ないという偏狭と、自国語への埋没は、世界の表情を歪(いびつ)にする。自分を相対的なものとして認めるのが怖いのだ。
(01-03-06)精神科医・名越康文のことば
人間には、冷たい冷たい芯があるね。それに気付いたら、あまり触れてはいけないよ、責めてはいけないよ。それは人自体の弱さなんだ。
『だからそれぞれ、独りになる時間が必要なんよ』と続く。人は自分さえよければという冷酷さを隠し持っている。それから目を背けてはならないが、そればかり見ていてもいけない。そういう負の面を他人や環境のせいにするのはさらにいけない。自分をむやみに冷たい存在にしてしまうから。
(01-03-07)ノーベル賞作家力ズオ・イシグロのことば
人間はただ嘘をつくんじゃない。何かを隠しながらつくんです。そして事実を直視しないようにする。事実を認識していながら虚偽の解釈を試みる。誰にでもありうる心の動きである。
(01-03-08)マタイによる福音書(新約聖書)のことば
戦争、争い事は全て自分が正義であるという人が起こす。思慮の浅い者達は灯りを持っていたが油を用意していなかった。
(01-03-09)歌手・俳優・杉良太郎のことば
私にとってボランティアとは特別なことではなく、自然体で取り組んできたことです。来年で福祉活動を始めて60年になります。『なぜそこまでするのですか』と聞かれることが多いですが、『ただ、自然にやってきた』というしかありません。
以前は『ボランティア』という言葉はなかったように思います。作家の川口松太郎先生が『杉さんはボランティアとか、チャリティーとか、そういうのは当て嵌まらない。献身だなあ』とおっしゃられたことがありました。
昔は『売名』と言われるのが嫌で、黙って活動をしていました。お金がある人はお金を、お金がない人は時間を寄付する。そしてお金も時間もない人は、福祉活動をしている人を理解してあげる。それだけでも立派な福祉の心です。
(01-03-10)朝日新聞「天声人語」のことば
世界的に有名な、外国の博物館を訪れた時の経験である。展示品を見ていると、だれそれの『寄贈』によると表示されたものがある。そうかと思うと、何年に購入したと書いてある品もある。だが、そういう説明が全くない品もある。それが大部分といってもよい。はてな。疑問が浮かぶ。何も、書いてない品物はどうしたのだろう。もらったのでも買ったのでもないとすると…。
初めから自分のものだったのでなければ、拾ったか、盗んだか、強奪したか、などと想像してしまう。
(01-03-11)ルネ・デカルトのことば
よい精神をもつというだけでは十分ではないのであって、大切なことは精神をよく用いることだ。
優れた知性は人を正しく導きもすれば、謀略や詐欺に役立ちもする。豊かな感情は人を鼓舞しもすれば、嫉妬で狂わせもする。
問題はそれらをいかに『よく』用いるかだ。が、その『よく』がどういうことか、誰にもすぐには見えない。むしろそれを問い続けるなかに人生の意味がある。
【02】河正雄コレクションの心情
《02-01》河正雄青年作家招待展の趣旨
河正雄のメセナ精神と彼の意志を称え、光州市立美術館の変革と新しさの突破口として青年作家の発掘と支援のための制度的運営を図るべく開催された河正雄青年作家招待展が第21回目を迎えた。
第21回 河正雄青年作家招待展の作家選定基準は、従来と同様に、韓国全国の30∼40代(45歳以下)の韓国現代美術作家を対象に旺盛に創作活動を行い、そのユニークな成果が際立っている者と定めている。
作家選定に専門性及び公正性を確保し、各作家の作品世界や活動現況に対する理解を助けるために各美術館の推薦委員らを招き、セミナを開催した。
{出典}河正雄アーカイブ〈A-3〉“光”河正雄青年作家招待展開催2021.07.24
《02-02》崔承喜写真展開催経緯 2011.4.26記述
〈自尊心と誇りの為に〉
―出逢い―
1997年12月4日在日韓国人文化芸術協会(会長・河正雄〉主催で第4回文芸協講座を開いた。崔承喜研究者である鄭昞浩先生をソウルからお招きし「崔承喜の芸術と生涯」の講演をして頂いた。その講演会で白洪天氏と始めて出逢った。
―名誉回復―
2003年9月朝鮮中央通信が「祖国の光復と富強繁栄の為の聖なる偉業を尽くした22人の烈士の遺骸が、愛国烈士陵へ新たに安置された」として生死不明であった崔承喜の名前を伝えた。それまで粛清説が流れていたが舞踊家同盟中央委員会委員長、そして人民俳優の肩書きと共に「1911年11月4日生・1969年8月8日逝去」と愛国烈士陵の崔承喜墓碑に刻まれていると報じた。
―収集品―
1967年迄の崔承喜創作舞踊音楽の原曲をリールテープに録音し30曲所持している。評論文筆家・久保覚(くぼさとる・1938年~1998年・在日二世・韓国名鄭京黙)から貰った「ヌードの踊り」「巫女の舞」「菩薩の舞」「明妃姫の舞」各1分ずつ、4分程のニューヨークでのフィルムを所持している。
千田是也監督、映画「半島の舞姫」の主題歌「郷愁の舞」、コロンビアから出したレコード原本からCD化した物を所持している。2005年、北朝鮮で1956年映画製作「扇の舞」の全曲5分の物と、「長鼓の舞」のフィルム5分の物を買い所持している。
また崔承喜の愛弟子:李石芸(イ・ソゲ)創作主演・群舞「バラの花」約5分、鳳山仮面舞基本動作等も所持している。1946年7月越北後、1968年度までの崔承喜関連の記録、証言文、北朝鮮の有力新聞「労働新聞」「文学新聞」「民主朝鮮」「平壌新聞」「朝鮮芸術」等の雑誌、画報等に掲載された記事、写真、音声、論文等の資料を20年分収集しており、それらが段ボール箱に整理出来ずに入っている。
―守らなければならないもの―
「私は日本に於いて崔承喜を研究し、基本舞踊の第一人者と自認し、自尊心と誇りを持って生きて来た。1997年に河先生と初めてお会いした時から芸術、学術に深い造詣のある人であると尊敬の念を持って遠くから見つめていた。
寄贈にあたり国がお金を出してくれるならば受け取るが、基本的にお金は必要ない。生意気ではあるかもしれないが、私は人を見る目は慎重であり、物事に献身性があるか忠実であるかで判断し、自らもそういう哲学を持って行動し生きてきた。
人間とは底が見えないから、崔承喜に対する評価本質がこれまで埋もれて来たのだと思う。今まで私が収集した資料を世の前面に出す事は傲慢に当たるのではないかと思ってきた。だが河先生の考えならば出来るだろう。崔承喜の研究に対しての心意気と情熱は一致している。利害、損得関係を超越して100年先を見て、埋もれている歴史を掘り起こし、真実を守り創造する河先生の考えに共感した。全面的にお任せします。」と白洪天氏は応えた。
{出典}河正雄アーカイブ〈A-4〉崔承喜写真展・シンポジウム
《02-03》埼玉セマウル美術会
1980年より開催される、幼稚園児から高齢者まで世代を結ぶ絵画教室の発表会
―第3回発表会を終えての御感想を聞かせて下さいー
埼玉セマウル美術会の第3回発表会は11月10日から15日まで、浦和コルソ「アルナセントラルギャラリー」にて開催されました。
会期中、約千名を迎える事が出来、友情と親善の花が咲きました。お見えになったお客様から「今年の絵は昨年と比べ洗練され、進歩の跡が著しい」との評を受けて、密かに喜んでいる次第です。
このように上手く出来たことは、会員の熱意も然る事ながら、周囲の民団組織及び同胞達の物心両面の協力と支援があったからこそと思い、感謝している次第です。
―どんな絵が展示されましたか?―
美術会が発足してから4年目になります。最初は、ただ絵を描きたいと同胞達が集まりました。数人から始まった会員が、今では74名もの大所帯となったのです。美術会は民団川口支部の韓国会館のホールをアトリエとして、月一回の例会を開き写生会を行っております。発表会はその成果を披露する、楽しいふれあいの場となっています。
現在、会員の構成は幼稚園生から76歳までと幅広く、日本人14名も入会しています。親子連れもあれば孫と共に描いている、おばあちゃんもおります。主婦、学生、会社員、自営業、民団幹部と皆、絵が好きで堪らないという人達が集っているのです。
展示されている絵を見て「家族的で温かく、爽やかである」との感想を聞く由縁は、ここにあるのではないかと思います。今年の出品数は39点で、他には林間学校で描いた児童達の絵20点を加え、総数59点の展示となりました。
―会の目的は?―
絵を通じて地域の同胞や子弟が集まって親睦を深めたい。そして日本の人々との交流を通して親善が出来れば素晴らしいことです。絵は、思想信条は元より国境もなく、ただ素直に純真に表現出来る最良のものと思っています。
{出典}河正雄アーカイブ〈B-1〉埼玉セマウル美術会
《02-04》「日本の友よ、さようなら」画家・曺良奎(1928~没年不詳)
―日韓近代美術家のまなざし―
2015年は光復(終戦)70周年、そして日韓修交50周年という節目の年である。
しかし独島(竹島)や歴史認識、そして戦後補償(特に慰安婦問題)等が未解決の為、日韓の国民感情がギクシャクしたままである。
この節目の年に「日韓近代美術家のまなざし―『朝鮮』で描く」展が企画された。本展は2016年2月2日まで神奈川県立近代美術館、新潟県立万代島美術館、岐阜県美術館、北海道立美術館、都城市立美術館、福岡アジア美術館を巡回開催される。
この展示会に在日の作家、全和凰、曺良奎の作品が展示される意味は何か。河正雄コレクションの持つ意味は何であるのかを問う意義深い展覧会でもある。
韓国で近代美術史学会が創立されたのは1993年、北に渡った美術家達が解禁されたのは1988年からである。不幸な過去を乗り越え、近代美術を見直そうと省察の時を迎えたのであるが分断の為、法的に今だ全面解決している訳でもない様だ。
戦後、在日コリアンの美術が韓日の美術史の中で評価されず、研究も殆どされてこなかった。無関心の中忘れられ失われ、顧みられなかった。政治的、歴史的な事で制約を受け南北の分断そのものが理由であったのは不幸としか言いようがない。
「70年代以降の日本の美術は社会的主題を喪失(例外もあるが)してしまったが、曺良奎の作品を除くと日本の戦後美術史は重要な一角を欠くこととなる。社会への矛盾と軋轢を、絵画を通し自分の主張として表していったのが曺良奎であった」と針生一郎は曺良奎をそう評価している。
{出典}河正雄コレクション〈B-11〉美術家・美術展より曺良奎を抽出
【03】光州KBSにて連日、私:河正雄に関する批判的、不名誉な放送がなされている様だ。
《03-01》青天の霹靂 2018.09.27記述
中秋の2018年9月27日、私を見守り育んでくれた人士に書面にて御挨拶状を出した。
『厳しかった夏が過ぎ秋夕(旧暦8月15日・中秋の名月・韓国の名節であるお盆)を迎える事が出来ました事をお喜び申し上げます。皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。平素の御厚情に心より御礼申し上げます。
私は2017年に、積年の不摂生により大病をしてから1年が経過しました。大変御心配をかけ、慰問頂いた事を感謝申し上げます。
2018年の今年は傘寿(数え年80歳)の年を迎え、これまでの歩みを回顧、これからの余生をどう生きるかを記した文集「傘寿を迎え・露堂堂と生きる」を刊行致しました。この様に元気になりましたという感謝の報告であります。
歩みを回顧すると実績の評価として、これまで沢山の賞を受けました。賞の裏には毀誉褒貶、語れぬ苦労がありました。
栄誉の裏には希望と失望が同居し、苦しみ、悲しみがありました。理不尽が絶えない世界で抵抗し、不屈に信じる人道を守って、生きた証しの記録です。
要するに賞の中に罰も(更なる精進と努力をして期待に添えという荷と嫉妬にも)あるという意味も込め「賞罰」として纏めた訳です。余生には罰の無い賞を受けられます様、心新たにしております。
2018年9月5日以降のことです。良識と品位、高い倫理性を保っていると信じていた光州KBSにて連日、私に関する件で数々の批判的、不名誉な放送がなされている様で憂慮しております。「光州市は市民の血税を使って河正雄を神や英雄の様に美化している。河正雄は光州市と強制的協約を結び、加重に栄誉を得ている。『表裏の顔を使い分ける二面二重の仮面を持つ河正雄』という内容などである」という光州からの知らせでした。
他者の痛みに無関心や傍観も加害者であるからといって、放送後に光州や霊岩、ソウルなど国内外から連日「何事ですか」と心配の問い合わせをいただいた。
「説得力のない、ありとあらゆることを盛り付け、言いがかりのような常軌を逸している内容だ。理由にも理屈にもならず道理がない報道だ」「抗議のデモをする」「放送倫理調停委員会に告発する」「名誉棄損で訴えよ」「記者会見を開き反論せよ」などの過激な御意見でありました。また「在日潰しではないか。潜在的な差別意識の表れではないか」という慰労と激励を越えた穏やかならぬ飛躍した話までありました。放送内容については日本で暮らしておりますので観ておらず、全く唐突な話であります。
そして異口同音、「全く恥ずかしい話だ。河さんに申し訳ない、許して欲しい」と優しさの同情と気休めの謝罪の言葉を数々かけられ、逆に戸惑っております。親の恥は子の恥、韓国の恥は国民の恥なのです。同情され、謝罪し慰められる理由を捜してみましたが、心当たりはなく、全てに合点がいきません。
私は霊岩郡の広報大使、光州市立美術館名誉館長、光州市名誉市民、光州市視覚障碍人連合会名誉会長という公的な立場から、放送の内容は何の意向と目的があるのか何が間違っていたのか理解出来ません。青天白日の人生を送って来た私にとっては、正に青天の霹靂です。
我々は良く他人に対して無責任な事をいとも簡単に言うが、それはその人の極一部分の事で、一人の人間を全て判るなどという事は無いのです。「明頭來明頭打」(めいとうらい めいとうだ:明頭来明頭打、暗頭来暗頭打と対句で用いる)相手がある態度 (明頭)で出てくれば、同じような態度で相手をおさえ(否定)、また他の態度(暗頭)で出てくれば、またそのような態度で相手をおさえてしまう、の意。普化がこのように唱えた《臨済録》の愚は犯したくないのです。
「雉も鳴かずば撃たれまい」今は災いの元にならぬよう余計なことは言わぬが良い。「意味のあること」は、なるべく言わない方が良い、面倒なことになるから。
不都合な真実を隠し、その場しのぎを繰り返すうちに、私達は互いを信じ合うことも敬うことも出来なくなるからです。淀んだ空気が社会全体に広がっているからです。
《03-02》私を理解して下さる皆様に 2018.09.27記述
皆様におかれましては世を騒がす事無く、事態の動向を見守り冷静に対処して頂きたい。何らかのきっかけが出来た時に真相をまとめ、私は答えます。
その時は百の論説に匹敵する、この謀(たくたみ)を企てた首謀者らの事情を明らかにします。謀(はか)られた風評を乗り越えることは至難の業です。このような時、自分を説明しようとしても、言葉では真の自分を説明し尽くす事は出来ず、自分から離れてしまうからです。
説明しても判らない人には理解させることは難しく、本当の自分とは何なのかを知り、説明するには心を窮(きわ)めていかねばならないのです。風評を払拭し、正しい事を他者に理解してもらうということは命懸けの行為なのです。
これまで韓国で「余りの複雑さと訳の判らなさ」に翻弄された時が幾度もあり精神を病んだ。防衛本能から自説に確執すると泥沼の罠に嵌る。我慢を重ねると小さな不幸が起き、怒れば大きな不幸へと育ってしまう。辛抱の木に花が咲くまではと忍の一心で耐えて来ました。文化の違い、歴史の違い、価値観の違いを乗り越えてです。
いつも世の中は正しさよりも判り易さを優先し、作為的な世論操作により正義が捏造される不条理なる現実をも見て来ました。虚構を信じ間違っていても多くの人が共感すれば、それが真実になってしまう大衆心理の恐ろしさがあるのです。
世論は情緒、気分であるがゆえに、瞬間的には人々を画一化するかに見えても、蜃気楼のようにすぐ消えてしまう。正反対の内容に急変することさえあるのです。
何故そうなるのか。いくら気分で一色に塗り込めても必ず一定数の少数派がいるから世の中は捨てたものではないのです。
善人は人から重んぜられ
正義は人から尊ばれる筈である
しかし 善人なればこそ悪人に嫌われ
正義なればこそ 不正の輩(やから)にしりぞけられる
善人必ずしも重んぜられず
正義必ずしも尊ばれない
だが悪人にして栄えたためしなく
不正にして誉れ(ほまれ)を得たものはない
重んぜられずともよい
私は善人でありたい
尊ばれなくともよい
私は正義であることを欲する
日蓮宗総本山身延山久遠寺第九十世日勇上人のお言葉が私の哲学である。
- 物事には必ずや正しい道に戻るという「事必帰正」という言葉。
- そして善い心でした事は善い心で表れ、悪い心でした事は悪い結果となって明らかに表れるという「明歴歴露堂堂」という禅の教え。
- 人生で災いが福の因になるか判らず、また福が災いの因になるか判らない。吉凶福禍の転変は計り知れず、禍も悲しむにあたらず、福も喜ぶに足りないという「人間万事塞翁が馬」という故事。
これらの故事や格言を以て学び、突き詰める事に人道がある。物事を肯定的に取るか否定的に取るか、このあたりの違いが私の人生を左右する。心身を引き締め、明日を生きる意味を捜している。
トルストイの警句にこういうものがある。
どんなに愚鈍な相手でも、頭の中が白紙なら、難しい問題でも説明することはできる。しかし、どんな聡明な相手でも、頭の中に『自分はその問題を疑う余地なく完全に知り尽くしている』という固定観念が宿っている場合、素朴な事柄すら伝えることは出来ない(「神の国は汝等の胸にあり 第3章」)
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」という田中正造の言葉で締め括りたい。
2018年10月4日 光州市立美術館名誉館長 河正雄
《03-03》99点 2018.10.21記述
2018年10月10日、日本と韓国を架け橋とする在日の若い新聞発行人が会いたいとのことで、上野公園で会った。
「貴方は多くの人達から売名と名誉欲が強いと思われている。これまで貴方の作品寄贈については条件なしの寄贈でメセナ天使であると思っていた。これまで貴方は寄贈条件を付けて強制的協約を結び加重に栄誉を得ているのは欲張り過ぎる。
この度の光州KBSの放送で光州市民も寄贈協約の公開で内容を知り、がっかりしている。我が社には、河さんを批判する記事を書きたいから載せてくれと10数名もの記者から申し出がある」と言われた。
脅迫感を感じると共に、心外にも程があると思った。
賞や名誉は欲して貰えるものではない。不埒(ふらち)に金を積み、忖度をして賞や 名誉を貰う人は、日本にも韓国にもいるとは聞いてはいる。しかし私に対する名誉や賞を授けた団体や組織への名誉棄損に当たることで言語道断で許せない無礼な話である。
また、欲得や損得で強制的条約を結び加重の栄誉を得ていると言うが、公的な行政機関が根拠も無く個人の欲求を満たす為に協約し加重に栄誉を与えるだろうか。法的に何の問題があり、何を以て強制的協約と言うのか。法令に違反があるならば根拠を挙げ答えて欲しい。この20数年間何の問題も無く数回に渡って協約は締結されており、藪から棒に言いがかりを付ける事自体、協約当事者への名誉棄損である。
一般の視聴者は公共放送光州KBSが1ヶ月に渡り延べ20回以上(7編の内容を朝晩繰り返し)も放送するからには国家的、社会的一大犯罪事件だと思う事だろう。貴方はその報道に洗脳されて先入観のみで私を見ている。しかし、この報道は国家的国民的な放送価値を有しているとは思えない。光州KBSはブランド価値を自ら下げ、公正公明の権威を地に落としたと私は見ている。光州KBSの正義は周り回って自分の首を絞めて行く。この国は果たして良くなるのだろうかと不安になる。残念至極である。
この報道で名誉棄損を受け善良なる人々を悲しませてしまったが、私には何ら同情や慰めは要らない。特別なる願いや要望も無い。光州には多数のテレビ放送局と新聞社がある。これまで私に対する批判記事の報道は無い。寧ろ良識ある見解と市民意識の健全なる論調が出ている。事の本質を知ることにより、光州人の良識ある見識がこれから多く示されるだろう。
貴方と私には現状認識と意見の相違がある。見解の相違はお互いに十分話し合った。理解し認め合えば済む事であると答え、別れた。
あれこれ言う人が私を手伝ってくれる訳ではない。言う通りにしても更に上を求められるだけできりが無い。
2018年10月18日、ソウルで活躍しているという書の大家イ・ジンギョン氏から「側に置いて下さい」と額装された書が贈られて来た。「あなたが来ると春が来る」という言葉が韓国語でしたためられていた。嬉しい言葉が心を繋ぎ自分を変えてくれる。
見ず知らずの方である。たった一言で関係を切り裂き人が傷つく。たった一言が人の心を暖め癒す。
「悲しい自分が見る風景は悲しい。わずかの事が我々を悲しませるので、わずかの事が我々を慰める。」(フランスの思想家 パスカル)
人は子犬や子猫のいたいけな仕草に慰められる。すると爆発寸前だった怒りや不満も些細な事に思えてくる。
2018年10月21日には光州広域市在住のジョン・ホンギ(Jeong Heonki)氏という全く面識ない方からメールを戴いた。
「厳しい夏が過ぎ美しい紅葉の季節となりました。あなたは99点です。99%の光州市民は河さんを応援しております。私の中学校時代、全教科が100点でしたが、何故か美術だけは99点でした。美術芸術の世界では100点満点はないのだと先生から教わりました」同じ志を持ち、同じ苦難を越えて来た同志の心の人である。
光州で誹謗中傷を受け人格と心を傷つけられている私の身の上を案じ励ましの評価であった。最高点を付け勇気づけてくれる方の存在を知り、「露堂々と生きる」己の信念に従い確信を持って邁進して行こうという気持ちを新たにした。命までは失っていないので、これまでの苦労を笑って済ませようと思うのである。
【04】河正雄コレクションに対する嫉妬誤解。風聞のいくつか。
《04-01》一部の否定的な人々と某放送局は光州広域市との協約を間違えていた、過度な待遇をしている、偶像化しているなど、先生の高貴なメセナ精神を称賛して広く伝えるどころか、魔女狩りのごとく先生を傷つけることに熱を上げています。
{出典}金甲柱光州広域市視覚障碍人連合会会長の指摘。
《04-02》強制協約を結び、分不相応に名誉を受けているというが、どこの行政がなんの根拠も無しに過分な名誉を与えるのか?
{出典}文化情報誌「文化通」の主幹で発行人でもある池炯源氏の指摘。
《04-03》2018年9月19日、光州KBSニュースでは、光州市立美術館河正雄寄贈関連契約、寄贈者優遇などを問題視する内容を報道した。同じ時間帯のニュースでは、連日まるで意図的であるかのように河正雄氏を非難している最中であった。
{出典}張錫源(チャンソグォン 美術評論家)の指摘
【05】河正雄コレクションを支持してくれる方々の言葉 2021.05.21受信。
《05-01》光州MBCコラム「称賛する社会を作りましょう」
{出典}金甲柱光州広域市視覚障碍人連合会会長(任期2013年~2017年)の2018年10月17日に放送した光州文化放送(MBC)ラジオコラムでの 原稿が送られて来た。
イソップ寓話で旅人の服を脱がせたのは冷たい風ではなく暖かい光でした。称賛は鯨をも踊らせると言います。皆さんは日常の中でどれだけ褒めることを探し,褒めることを実行していますか?
周辺では称賛に値することが絶え間なく起きているのに、日に一度でも褒めることをしなければ、「知れば知るほど物事をよく見ることができる」ということわざのように、生活の中にある良い点を見つけることができないということになります。
残念なことに、間違えたことを先に見てしまう否定的な心が先行してしまい、良いことが見えなくなってしまったのです。
アレクサンダー大王の肖像画を描くために大王の元を訪れた当代の有名な画家は、大王の顔にある大きな切り傷を見てどうしたらいいのか苦心した末に、大王を机の上に腰掛けさせて頬杖をつかせてその傷を隠した後、名作を完成させたと言われています。
私は35年前に在日韓国人である河正雄先生にお会いしました。絵の収集で光州にいらっしゃった際に身体の調子が悪くなり、視覚障害者の黄英雄氏から按摩の施術を受けることになりました。そして、初対面だった黄英雄氏と施術中に話をしたことをきっかけに、光州の視覚障害者たちの宿願であった会館の敷地を用意して下さいました。
そのようにして始まった縁で毎年お会いすることになり、先生の精神を知ることになりました。先生は何事もまず自らやらなければならないこと、健康な精神と正しい歴史認識、そして共に協力し合う社会を作らなければならない、と常におっしゃっていました。
先生は画家になることが夢でしたが叶えることができず、勉強がよくできましたが韓国人の名前を変えなかったという理由で就職もできなかったそうです。それで、日雇い労働者から始め、いろいろな仕事を通してお金を貯めて夢であった画家になる代わりに絵の収集を始めたそうです。絵の中には歴史と精神、そして人生が詰まっていて、絵を通じて世の中の幸せを作っていくことができると考えていらっしゃいました。
そのようにしてお金を貯め、絵を収集して、恋しい故国に1万2千余点もの絵を寄贈し、その中の2,600余点を光州市立美術館に寄贈して下さいました。1992年の開館初期の光州市立美術館は所蔵品がなく、一部の展示室を閉鎖しているという空虚な状況でしたが、先生から25年間で7回続いた寄贈のおかげで今では全国の市立美術館の中でもっとも水準の高い美術館になりました。
それだけではなく、先生は日本による占領期に日本に徴用されて名もなく死んでいった5000人余りの韓国人の名簿を探し、毎年慰霊祭を行っていて、本来であれば国がしなければならないことを奇跡のように行ってきたのです。
しかし、一部の否定的な人々と某放送局は、光州広域市との協約を間違えていた、過度な待遇をしている、偶像化しているなど、先生の高貴なメセナ精神を称賛して広く伝えるどころか、魔女狩りのごとく先生を傷つけることに熱を上げています。本当に情けない限りです。
光州ができてから今まで、河正雄先生ほど多くの寄付を行った人を私は見たことも聞いたこともありません。視覚障害者たちの活動基盤を作って下さり、名もなく死んでいった魂を慰霊し、青年画家たちを支援し、1万余点の絵を寄贈する方を、どのようにより優遇して称賛する社会を、互いに協力し合う共同体を作っていくのかを考えなければならない時です。
桁違いに寛大な寄付者の名誉をこのように毀損し、その胸に釘を打ち付けるのであれば、一体誰が寄付などをしようとするでしょうか。
水原にはパク・チソンの命名道路が、大邱には歌手のキム・グァンソクの命名道路があります。彼らはそれぞれの特技を通して世の中に貢献した、それによって優遇されたのです。光州の金大中コンベンションセンターについても同様です。
社会に対して記念すべき業績があるなら、誰であれ相応の処遇を受け、後世の手本となるようにするべきです。憎しみは憎しみしか生み出しません。善行を絶えず見つけ、好循環による温かいコミュニティを作らなくてはなりません。今日もまた、称賛することが見つけられる1日になりますことを願っております。
《05-02》そう言うあなた方は?
{出典}2018年12月10日、光州広域市で発行している「文化通」という文化情報誌の記事が送られてきた。
「文化通」の主幹で発行人でもある池炯源氏に2018年9月30日発行した私のエッセイ集「傘寿を迎えて・露堂堂と生きる」に書かれていた一文をメールで送った事で「文化通」に掲載された池氏の論評である。
―そう言うあなた方は?―
一か月程前、日本に居住している霊巌出身の在日2世:河正雄先生から「文化通」(문화동)に一通のメールが届いた。
いくつもの簡潔な文章でまとめられているメールは、彼が生涯心に抱いて生きてきた座右の銘である”明歴歴 露堂堂”についての事に始まり、10月30日に下された韓国最高裁判所の新日本製鉄住友金属に徴用された韓国人4名に対する損害賠償の判決に関する事まで、ご自身の考えを明らかにする内容であった。
“明歴歴 露堂堂”とは禅の教えで、ありのまま全ての事が真理であり、大きな志は一切隠すことなく露れる、という意味である。従って、正直にありのままを堂々と生きようと努力してきたと記されていた。
メールの最後の部分には、9月に光州地域放送局で企画取材として報道された、美術品の寄贈に関して御自身の立場も一言加えられていた。
『強制協約を結び、分不相応に名誉を受けているというが、どこの行政がなんの根拠も無しに過分な名誉を与えるのか?法的に何の問題があって何を持って強制と言うのか?実例を挙げて答えて頂きたい。』
在日韓国人河正雄先生は、生涯かけて集めた美術品と資料1万点余りを韓国の公共美術館に寄贈してきたメセナ運動家である。
光州市立美術館に2603点、霊巌郡立河正雄美術館に3690点を寄贈し、全国の国公立美術館や日本の京都市美術館など数多くのところに寄贈した。寄贈作品の中には、世界的巨匠の作品も相当数含まれている。
美術品の寄贈だけでなく、光州盲人福祉会館建立、5・18聖地に200本のケヤ キの木を植樹、そして長崎の原爆地から生き残った柿の木を仲外公園に植樹など、数多くの活動をしてきた。
彼は長年に渡る善行とメセナ運動で、光州市やソウル、釜山、日本の山梨県北杜市の名誉市民となる名誉を受け、韓国政府から国民勲章冬椿章や宝冠文化勲章を受章されたことがある。
河正雄先生がメセナ運動家であるという事実は広く知られているが、彼がどのような人物であり、何故長い間美術品を収集してきたかについてはよく知られていない。
そこには実に切ないエピソードが隠されていた。
彼は日本の国策労働者の息子として大阪府東大阪市に生まれ、秋田で育った。幼い頃から絵が好きで、美術の勉強がしたかった。
しかし、母親が闇米の仕事までしてやっと生計を立てた境遇にあり、工業 高校に進学して学んだが、栄養失調で失明の危機にも見舞われた。
高校を卒業し、中小企業の設計員として働きながら、幾度か自殺しようと考えたり、帰国船に乗って北朝鮮に渡ろうかと思ったこともあったという。
思いがけず電気屋を営むこととなり、東京オリンピックをチャンスに生かして、ようやく貧しさから抜け出すことができた。
彼が買った絵に「盲目の群れ」がある。盲人達が盲人を先導している絵なのであるが、彼自身が置かれている立場が感じられ、その絵を買って家に飾った。
そして、在日韓国人として全和凰・郭仁植・宋英玉など、在日朝鮮人画家達の絵に関心を持ち、後には日本のモノ派画家に大きく寄与した慶南出身の李禹煥の絵に魅了され、深い関係を築いた。李禹煥はその後世界的な作家に成長した。
1970年代初め、父母と共に故郷霊巌を訪れ、故国の厳しい状況を目の当たりにして、手当たり次第祖国の為に活動のイニシアチブを取った。
一番最初に始めた仕事は、光州に盲人福祉会館を建て、視覚障害者達が自立することが出来るように支援することであった。
これをきっかけに光州地域の画家達との縁を持ち、彼らの作品の収集にもかなりの 関心を持つようになった。
10年ほど前、霊巌郡立河正雄美術館の起工式が終わった後、三湖朝鮮ホテルで開かれた祝賀会で、彼は『私が寄贈しようという意思を持っていても、家族が反対すれば実現できませんでしたが、家族が賛成してくれてありがたく思います』と挨拶した。実に謙遜した姿であった。
そのような彼が故郷で波紋に巻き込まれた。例え波紋を起こした要素というものがあったとしても、40年間収集した高価な美術品を寄贈した人物が袋叩きにあったのである。
放送は情報提供をもとに綿密に取材報道されたのであろうか。”河正雄美術館”という名前をつけたことさえ良く言わない人々…そういう人達は世の中の為に何か一つでも見返りを期待せずに差し出したことがあるのだろうか。
光州市は数年前、博物館建立の為に、寄贈運動に力を入れたことがあったが、寄贈者を見つけることができずに事業は頓挫した。
個人で博物館を建てることが困難な所蔵者達が光州市に寄贈すれば、所蔵者の名前のついた部屋を設け永久展示するという計画であった。これで我々の地域から寄贈という言葉は消えてしまうような結末だ。
光州市が遅れて”美術作品寄贈ガイドライン”を発表したが、寄贈文化が再び花開く気配もなく寂しさを覚える。
《05-03》張錫源(チャンソグォン)の現代美術エッセイ・河正雄の寄贈関連の議論 2020.06.26受信
無知を打破し 真の価値を見出してこそ 芸術の都市
河正雄先生 膨大な重要作品 光州に寄贈
特別な意味持つ寄贈に値する礼遇を受けるべき
一般的なルールによって寄贈の価値や意味を評価するのは不可能
2018年9月19日、光州KBSニュースでは、光州市立美術館河正雄寄贈関連契約、寄贈者優遇などを問題視する内容を報道した。同じ時間帯のニュースでは、連日まるで意図的であるかのように河正雄氏を非難している最中であった。光州市立美術館のホームページにはこれに対応して、河正雄氏の他に類を見ない寄贈の価値を尊重する文章が掲載された。
何が問題なのか。河正雄氏は光州広域市庁の切実な要求に応じて寄贈を始め、それは寄贈という期待を超えるものだった。光州市立美術館のホームページには、河正雄氏の寄贈関連記事を以下のようにあげている。
特に光州市立美術館において、河正雄氏から1993年の美術作品212点の寄贈をはじめとして、1999年471点、2003年1182点、2010年357点、2012年80点、2014年221点の計2523点の寄贈がありました。光州市立美術館寄贈作品の中には、全和凰(チョンファファン)、李禹煥(イウファン)、郭徳俊(カクトクチュン)、郭仁植(カクインシク)、文承根(ムンスングン)、孫雅由(ソンアユ)等の主要な在日作家達の作品と、ピカソ、シャガール、ダリ、ルオー、アンディウォール、ジョアン・ミロ、ベンシャーン等海外の有名作家の作品及び、朴栖甫(パクソボ)、金昌烈(キムチャンヨル)、呉承潤(オスンユン)、洪性潭(ホンソンダム)等、韓国代表作家達の作品が網羅されています。
これらの寄贈の内容は、そのボリュームに驚くだけでなくその内容においても、在日作家の重要作品と国内外の作家のレベルの高い作品が網羅されているという点において画期的である。これにより光州市立美術館は、在日作家の最も優れた作品を収蔵するという特徴を持つようになっただけでなく、国内外の重要作品を備えた競争力のある美術館に成長した。
光州市立美術館はこれに対する感謝の印として、光州市立美術館分館として河正雄美術館を開設して、河正雄氏の要請で青年作家招待展「光」展を開催している。また、光州市立美術館名誉館長という称号と、美術館の近くの道路に「河正雄路」という名前を与えられている。
他の寄贈者との公平性や一般の寄贈関連契約に照らし合わせた時に、寄贈者:河正雄氏に対する待遇は特別なものと言える。しかし、特別な意味を持つ寄贈はそれにふさわしい契約・待遇をするのが当然である。正規放送のニュースを通じて複数回にわたり批判する問題について、河正雄氏本人は心を痛めながらも、対外的には毅然と対処したと伺っている。自分が命のように大事にしている作品の中でもとりわけ重要な作品を光州に捧げながら、その光州発のニュースで不公正契約・不公正待遇という名目で、数回にわたり批判された。どういうことだろうか。定義といっても一般的な定義は無意味なことを…。一般的なルールに合わせて寄贈の価値と意味を評価することは無理であるということが、なぜ理解できないのだろうか。
1995年の第1回光州ビエンナーレの準備期間中、私:張錫源は日本を訪れた。アジアの現代水墨作家との交渉・歴訪中だった。私:張錫源は事前に河正雄氏に協力を求めていた。お陰で東京での仕事を無事に終え京都に向かうことになったのだが、なんと彼:河正雄氏も喜んで同行してくれた。当時、私:張錫源はアジア圏をまわりながら、現代水墨関連資料を2つの大きな袋に入れて持ち運んでいた。
京都に向かう新幹線に乗るため、何度も階段を登って苦しんでいる私:張錫源を手助けしようと、カバンの1つを抱えながら、「張先生はもう教授しかできませんね。肉体労働は無理があると思いますよ」と河正雄氏は言った。
かろうじて新幹線に乗り、私:張錫源は彼:河正雄氏の口調を借りて、「東京に来てもう死にそうですよ」と言うと、彼:河正雄氏は、「その重い荷物をお金だと考えてみて下さい。そうしたら幸せじゃないですか?重いほど幸せじゃないですか?」と言った。
河正雄氏は志を抱き、自分の身ひとつ、自力で成功し、貧困から這い上がって好きな絵を買い、1万点を超える作品を国内の複数の美術館に寄贈した。故国はあまり念頭になかったが、両親の希望で故郷を訪問し、それ以来メセナ運動や作品寄贈など故国と緊密な関係を結んでいるという。
私:張錫源が2015年全羅北道道立美術館在職時、アジアの現代美術を展開していた時、彼:河正雄氏は美術館を訪れ、「この美術館は張先生を待っていたようです。おめでとうございます」と言い、帰国後に文承根(ムンスングン)の版画6点を送ってきた。
また、作品の到着後電話でその意味を伝えてくれた。
河正雄先生の寄贈の背景には、芸術と祖国への愛、人生を歩みながら巡り合う様々な縁に対する格別の愛情、耐えがたい苦難を経験する人々に対する関心などがある。単純に物量的な寄贈よりも、その背景に込められた人間の温かさが感じられる。
子供の頃から絵に類稀な才能があった彼:河正雄氏は、高校時代に美術教師の関心と指導で才能を発揮することになるが、貧困のために画家になる夢を諦めなければならなかった。彼:河正雄氏の母親は彼の目の前で彼が描いた絵を破いてしまい、画具を清流に投げ捨ててしまったという。
一番好きだった画家ゴッホの東京展覧会を観るために、「体調不良のため旅行をすることができない」と言い訳をして高校3年生の卒業旅行をキャンセルし、返金されたお金で上野行き夜行列車に乗って嬉しかった少年:河正雄は、JR奥羽本線の蒸気機関車は彼:河正雄氏の青春の鼓動そのものだったと話した。
過去はもう戻ってこない。人生は一瞬の夢のようなものだ。河正雄氏はビジネスで成功し美術品の収集などで夢を叶えた。自分の夢を実現化させた芸術作品を故国に寄贈してきた。それは契約条件などという次元を超え、自分の最も重要なものを祖国に捧げた形だった。ポピュリズムが広がる韓国の政治状況や文化芸術界の在り方は芸術の真の価値やその意味について鈍感である。何でもかんでも平等という観点で均等化して見ようとする、融通性・柔軟性を欠く姿勢をとるのが常だ。
文化芸術の真の価値を見出せない人々の戯言(ざれごと)に対して、放送も世論もきちんと線引きができない。ただ洗練されていないという理由で無関心の中で自殺に追い込まれたゴッホの人生のように、それは大衆的な無知を顕(あらわ)にする。
いつの時代も類似している。しかしそのような無知を打破し、真の価値を掘り下げて、その力を高めることができる社会こそ、芸術の都市の名にふさわしいことを忘れてはならない。それはACCを10建てることよりも偉大な力になるだろう。
【06】河正雄の所信表明
《06-01》韓国国会聴聞会に寄せて 2019.09.30記述
私:河正雄は、この不条理に対して韓国文化体育観光委員会安敏錫委員長に対し、二度に渡り国会議員会館でお会いして、経緯の報告と問題提起をした。安委員長は国会で聴聞会を開き、互いの陳述を聞きたいと返事を下さった。
2019年9月30日付EMSを使って「要望書・韓国国会聴聞会に寄せて」の文書を当事者の安委員長、李庸燮光州広域市長、鄭恵升KBS光州総局長宛へ事前に送り、私の所信を述べた。
秋田県仙北市立生保内中学校時代(1953年~1956年)の担任である松本正典(まつもとしょうすけ1915年生~1979年没)先生が卒業式の時に話された言葉である。
『人を恨んだり、妬んだり、人の短所をあげつらい悪口、陰口で傷つけるような卑しい人間になるな』この言葉は私の哲学であり、処世の導きとなった。
本文は私個人の名誉の為に、私情の釈明や弁解をするものではない。国家や国民、いや人間として一市民の自尊心を守る為の教えと受け止めてほしい。
河正雄コレクション美術品寄贈契約書は当事者間の信頼関係を基本にして協議し協約された合法的なもので強制的に結ばれたものではない。協約書にある字句の意味を理解され共有することが大事である。
「寄贈」とは品物を他人に贈り与える贈呈、贈与の意味である。「協約」とは当事者同士が協議して約束をして、互いにそれを守る事である。
「無償契約」とは報酬の無い、対価を支払わない契約の事である。「契約」とは相互の利益の為に結ばれるもので公序良俗に反しない限り、自由に結ばれてよい社会的権利である。
《06-02》光州視覚障碍人連合会会館・ 光州市立美術館支援経過報告
私の光州広域市との縁は光州視覚障碍者連合会(旧名・光州盲人福祉協会)の支援活動から始まる。その経過は以下の通りである(省略)。
光州市立美術館との友誼と契りはこれまでこの報告書通り脈々と生きており、過去に紆余曲折はあったがその都度、修正して揺るぎなく経過し存続している。その経過は以下の通りである。(省略)
問題が発生したのは私:河正雄が光州広域市と交わした河正雄コレクション寄贈協約書を問題視して、強制条項「論乱(論争)」というタイトルから始まった2018年9月5日から30数回に渡る光州KBS放送による私個人へのバッシングであった。
河正雄個人の名誉を貶(おとし)め、人格と人間の尊厳を否定するが如き名誉棄損と人権 侵害は刑法にも抵触するものである。
その放送内容の映像データ全ては記録保存しているはずである。私に恥じることは何一つないので要請があれば公開していただきたい。裏打ちとすべき論証データを提出いたします。
光州KBSの報道趣旨の第一は行政側(光州広域市)と河正雄とが強制的協約を結び過度の優遇をしていると告発している。実際は強制的な協約の事実はなく、合法的なものである。
優遇の程度は行政側の判断であり、私の寄与した内容に対する評価であり、人道的な報恩の証である。
報道内容はゴシップ、スキャンダルのように編集、シナリオ化されておりパフォーマンスに満ちて品位がない。社会的に国家的見地から見て光州KBSの品性と品格を疑わざるを得ない。韓国のブランド価値を下げる光州KBSの報道は、信頼を寄せていただけに残念である。
また報道内容は当事者の私:河正雄を排除しておこなわれ悪意を持って作られたシナリオに沿って私個人を標的にしてまとめた一方通行の報道で世論の誘導操作を目的とした計略的なものである。悪意と毒気を感じさせる差別的で不平等なものである。
政治と権力が癒着して馴れ合う時代は過去にはあったが、今は許されない時代である。最近は世界的に政治よりも報道が持つ権力が強大となり、暴力的且つ脅迫めいた強引さを感じさせる時があり、その暴走に恐ろしさを感じている事件である。
社会正義と報道の良心を以って、公儀の為に公正公平なる見識で、韓国報道の権威と使命を守って欲しい。
光州KBSの2018年9月19日の放送で「数多くの寄贈をした河正雄氏。それに相応しい真なる優遇は、透明で公開的な議論を通じて寄贈の意味がより光り輝きます。」と結んでいるのは良識と見識の表れと希望を持ちたい。しかし偏見と悪意に満ちた報道はヘイトスピーチであり魔女狩りは許されない。光州KBSの意図と真意が判らないというのが一般的な世論であることを自覚して欲しい。
2018年9月5日の光州KBS報道後、2018年9月15日付で「下記内容に対し憂慮している。」という書簡(前述の「青天の霹靂」及び「私を理解して下さる皆様に」に記述)を李庸燮光州広域市長、全勝寶光州市立美術館館長、鄭恵升光州KBS総支局長、安明錫国会議員宛にEMS(国際郵便)にて、理解と抗議の意思を込めて送付した。
そして李庸燮市長との面談を要請したが海外出張との事で実現せず、再度の要請で2019年2月5日に光州市庁で李炳勲副市長との面談が行われた。
その席には全勝寶光州市立美術館館長、金姫娘河正雄美術館分館長、卞吉鉉学芸室長、他に市職員2名と私の妻:尹昌子も同席し、15分の面談時間を大幅に超えて45分となった。
李炳勲副市長発言「河先生、私は副市長に就任して、自分の人生でこんなに恥ずかしい思いをしたことがありません。市を代表して謝罪します」との謝意を開口一番に述べられた。
私:河正雄は副市長の真摯な人間性と実直さに感銘して謝罪を受け入れた。そして「光州広域市に対する意見書」を同席者に提出した。
《06-03》光州広域市に対する意見書 2018.02.05記述
原理原則、正義を無視した韓国社会の恥辱である。光州広域市で起きた私自身の受難と不条理を問いたい。
欲しく思う心、願い求める心。人間の本質について仏教では色欲・情欲・性欲・食欲・私欲・無欲・禁欲・強欲・貪欲など108の煩悩があると説いている。
大方の人間は心身に纏(まと)わり付き、心を搔き乱す一切の妄念(もうねん)・欲望の虜(とりこ)となり、煩悩の中でもがき苦しむという。
その欲から解放される為の教えが仏教である。私は人間であるから人並みに、この本質から離脱し得ていない人生を歩み学んで来た。
数え年81歳になる私は2018年9月5日より光州KBS放送による弾劾を受け続けている。河正雄は光州市立美術館分館河正雄美術館という名称の設定、光州広域市名誉市民称号の授与、光州市立美術館終身名誉館長就任等の立場を利用して、名誉館長アーカイブ室の設置、名誉道路の設定、河正雄青年作家招待展の開催等、光州広域市と美術作品寄贈に関する強制協約を結びながら、過重な名誉を要求し、また受けている。欲の塊、欲求の仮面を被った二重、二面性を持つ人物と言える。個人の名誉の為に光州広域市市民の税金を使って、個人を神のように崇め称える事を、光州広域市はすぐにでも止めるべきだという趣旨の指弾で、低劣且つ的外れな内容のものだ。
私:河正雄が行って来た行為は人間の本質である欲・煩悩から発した想いのもので、人間の本質を理解しようとしない、歪曲され逸脱した的外れな指弾である。
- 私:河正雄は光州広域市に加重なる要求をして強制的協約を結び法律違反した事実はない。光州広域市から与えられた名誉や報恩、感謝の証は光州広域市の誠意として有難く受けたのみで要求して得た事実はない。事実とかけ離れた虚偽の報道を行った光州KBSに名誉棄損の罪を問わねばならない。この一件には河正雄個人に対する悪意を持った作為が潜んでいるとしか思えない。差別と蔑視、偏見が裏に隠れており、私と光州広域市職員、そして光州広域市市民が協力し築き上げて来た成果に対する侮辱である。光州広域市に向けた指弾は私をダミーとしてカモフラージュしている案件である。
- 光州広域市は河正雄に名誉を授けた責任がある。光州広域市市民の感謝と報恩の心を光州広域市自身の名誉の為に守らなければならない。公正、公明、公平、公義の務めは光州広域市の責務である。他人事のように情報を提供協力し、抗議もせずに身内を守らず傍観している貴市の態度には誠意が感じられず、我慢の限度に至っている。
- この事件の発生は光州市立美術館の身から出た錆で自らが墓穴を掘った問題である。1993年から現在まで光州市立美術館の歴史と共に歩んで来た証言記録者は現職者の私唯一人である。その26年間に8名の市長、8人の美術館長の交代があった。その間、光州市が協約を破った事、私の名誉を傷つけて侮辱し、恥辱を与えた数々の事件がある。その度に光州の美術人達の意見とか、光州美術界の長老作家の意向であるとか、いつも光州の世論が武器であるかのように威圧し、私を抑制委縮させた。私は光州広域市の名誉の為に忍の一字で耐えて来た。敢えて、この悪しき経緯を今は公開せず、光州広域市の名誉を守りたい。だが、事と次第によっては公開する準備は出来ている。光州KBSは私の意見や事の経緯や事情を一切、取材する事もなく光州市立美術館に関係する極少数から入手した不満情報を基に、意図を以て世論作りに加担をした。人権、民主主義を守るのが光州KBSの務めである。スキャンダル、ゴシップ記事のような報道をした「質」の問題を問いたい。私:河正雄の名誉回復に対する擁護や抗議すらない現状は、この機会に便乗し、河正雄を光州市立美術館との関係を御破算にし排除する理由作りを目論み、その世論作りの為に光州KBSと結託した謀略、策略であると考えざるを得ない。故に光州広域市の責任が第一であると考えている。
- 第7次寄贈作品80点の寄贈については2017年に送付済みで貴市の作品収容稟議手続きも終わっている。よって第6次までの寄贈契約通りの慣行ならば寄贈とする。2019年に制定した貴市の一方的な寄贈ガイダンスの内容では寄贈は出来ない。余談ではあるが私が住んでいる川口市(人口60万余人・中核指定都市)が美術館建設する事となっている。(別紙朝日新聞記事参照)私は1973年に川口市展に受賞し、現在も美術会員として登録されている。第7次寄贈が貴市に受け入れられない場合、60年間お世話になった川口市に作品寄贈をしたいと思うので、2019年3月末日までに返却をお願いしたい。寄贈する為に20数年間送り続けた真心を無為にしないで頂きたいと願う。恩を仇で返し、積み重ねた互いの信用を土足で踏みにじる事は人道に背く事であると銘記する。
- 第2次より第6次までの寄贈協約締結は弁護士・金聖珠氏、元ロッテタイガース団長であり畏友・程己柱氏が私の法的代理人として任務遂行をしていただいた。改めて市との協約の全てに渡り法的委任をしている事を申し述べる。
2019年2月5日 旧歴元旦 光州市立美術館名誉館長 河 正雄
【07】嫉妬誤解に対する河正雄の見解
《07-01》過ぎたるはなお及ばざるが如し 2020.06.26記述
私:河正雄は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の故事に倣い本文を綴ったが、高等教育を受けておらぬ為に、言論者を容易く言い負かす程の知力に富む言葉を持っていない。
田沢湖の夕暮れの情景、清里の清涼さ、八ヶ岳の山脈が持つ幽玄なる美しさに声も出なくなる経験を積み重ねている。
父母や恩師、加護して下さった方々が亡くなられた際の、言葉に表すことが出来ない悲しみも胸に厚く抱いている。
私:河正雄はそれらがどのような感情であるかを良く知っているし、人として大切なものであるものとして、ひとときも忘れはしない。
私:河正雄はこれらを上手く言い表せない。しかし他力本願ではあるが、いつも慌てず堂々と一歩ずつ精進し霊験なる心で生きて来た事を矜持としている。母校生保内小学校の校是、「清く正しく美しく」の心である。
《07-02》韓国メディアは何故、信用を失ったか 2019.10.02記述
本文は2019年10月2日付の李民晧統一日報記者の「韓国メディアはなぜ信頼を失ったか?」の論文を読んで共感した箇所を引用し綴る。
トランプ米大統領がよく使われるフレーズ「フェイクニュース」。正義の使徒にでもなったかのように自分達の論説が正しいと抗弁している。
嘘を拡大し再生産する「太鼓持ち」の役割を担っている。その多くはパワーハラスメントと言えるものだ。
一般人がメディア報道を信頼している訳ではない。「記者と自称する人らによる嘘のレポート」との見方であり、正式な取材に則ったものでもないと疑っている。
何らかの下心による偏った扇動報道や、金を握らされて書いたゴマスリ記事という疑いだ。馴れ合いで癒着している世界であると思われている。
現在の韓国は、権力や企業に寄生するメディアが生み出すフェイクニュースに溢れている。彼らは反省することもなく扇動に加勢する機関のようだ。自由民主主義の法治ではない、国民世論が法の上で支配する国のように韓国を歪ませてしまった。
2021年8月成立を目指した文在寅政権を支える与党「共に民主党」が提出した「言論仲裁法」改正案は、悪意を込め事実を曲げた捏造報道や誤報による被害を防ぐ為と権力化したメディアへの根深い報道不信からだ。
メディア側は「報道の萎縮が進み言論の自由は消え、権力者の疑惑報道が難しくなる。」「言論統制」「民主党の独善」と批判する。
2000年代に入り、オンラインメディアの勃興でメディア間競争が苛烈となり、刺激的且つ攻撃的な報道を行う「生き残り戦略」の結果で、どちらも自業自得の権力闘争なのだと言える。
英国オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所の、約40ヶ国や地域を対象にしたニュースの信頼度調査によると、韓国の信頼度は2020年まで4年連続で最下位、2021年度は46ヶ国中38位である。空々しく、嘆かわしい。これで真の民主国家と言えるのだろうか。
恐ろしいのはインターネットの発達で、理念、地域、世代など互いの考えが同じ者同士でそれぞれ群れを成すという様相を呈しているから深刻なる世相になったと憂う。
メディアは社会の公器だ。法治に基づく自由民主主義国家では権力を監視・牽制し、社会の正義と公益を追求する。メディアは社会における公共機関としての役割を果たし、権威として尊重されてきた。しかし最近、韓国メディアは信頼も権威も失墜し残念である。
「メディアが生きてこそ国が生きる」という言葉がある。正義のペンを持つメディアが健全なる使命を全うする機関であることを願う。
モラルハラスメントの片棒担ぎや、社会的風潮に流されて本質を見失うことなく、韓国メディアの自尊心と意義を守って欲しいと祈るばかりである。
《07-03》キリストの受難
金甲柱:光州広域市視覚障碍人連合会会長との会話を思い出して
2011年12月16日に、ドイツ・フランクフルトの教会であるレリーフ画を見た。教会は第二次世界大戦の爆撃で破壊されたが、このレリーフ画は残り戦後復元された後に元の位置へ収められたという。
製作年代は判らないが数百年は経っているだろう。画の中心には十字架を背負ったキリストを為政者の命令に従いローマ軍の奴隷が無慈悲に引き廻している。
画の左上には知識階級の為政者と思われる人物が推移を無言で見ている。陰で操り、策略を巡らせているかのようにも見える。
画の中心には女性と思われる人物が十字架からキリストの解放を手助けしているようにも見える。この姿は人間的で、いつの時代にも市民の良心は不変であると考えられる。
このレリーフ画は示唆に富んで教訓となる作品である。2018年9月27日に起きた光州KBSのフェイクニュース事件は光州の世相や市民の心を映し、時代を越えたヒューマニズムの真理を教えていると思えてならない。
2013年、このレリーフ画の写真は金甲柱光州広域市視覚障碍人連合会会長就任を祝って表敬訪問した時に「障碍者も社会に寄与する人材にならなければならない。」と私:河正雄が金甲柱氏に記念としてあげた。
「このレリーフ画に描かれた権力者のような振る舞いや、ローマ軍奴隷のような無知なる振る舞いをしてはならない。キリストを手助けする女性の姿から人間性を学ばなければならない。」と私:河正雄が金甲柱氏に語ったことがあった。
彼:金甲柱氏はレリーフ画から鮮烈なるメッセージを受け留めたという。後日、その時学んだことを寄せてくれた文である。
金甲柱氏:談
世の中はさまざまなことがあります。イエス・キリストがガリラヤで捨てられたように、世の中は義理堅い恩人を裏切ることが多いのです。
私:金甲柱氏が視覚障害者連合会の会長としての任期を終え、光州広域市の障 害者総合支援センターの常任理事を務めていた2018年のあの日、KBS光州放送のニュースがあり河先生による絵画寄贈の光州広域市との協約は個人の私欲であるのに、光州広域市が過度な厚遇をしたことは間違いであり、原点から見直さなければならない、と報道しました。
崇高な先生:河正雄の意志に反するニュース報道が連日のように流されていました。悪意と作為を持った一部の人々の間違った判断と無知なる軽薄さ、そして記者たちの傲慢な英雄気取りの行為が善なる偉人を埋葬していたのです。恩人に対し光州がこんなことをしてもいいのだろうか? 怒りがこみあげてきました。美術関係者をはじめ、心ある人々が蜂の群れのように蜂起して戦うと思っていましたが、数人を除き、全員が沈黙を貫きました。これは先生:河正雄をもう一度殺す沈黙だと私は思い、辛く感じました。
私:金甲柱は視覚障害者たちと一緒にKBS光州放送局の前で抗議集会を行うつもりでした。しかし河先生の相手の策略にはまってはならないとの引き留めと、視覚障害者連合会の会員たちの同意を取りまとめることができなかったために実行には至りませんでした。
できたことは、李庸燮光州広域市長、田東平霊岩郡郡守、そして関係する方々に対して呼びかけを行い、光州MBCのコラムとKBSの視聴者ご意見箱に意見を投稿することだけでした。
正義と真実が潰された現場で、苦しんでいる河先生と凱旋将軍のように意気 揚々のKBS記者と加害者たちがオーバーラップし、私:金甲柱の姿は限りなく小さく見えました。もしかすると、先生:河正雄氏が何年か前に私:金甲柱に下さった写真の壁画、イエス・キリストがゴルゴダへ引きずられていくあの壁画の主人公に、私:金甲柱たちはなっていたのかもしれません。
【08】韓国美術における河正雄コレクションの位置づけ
《08-01》愛する光州
光州との縁
1988年、市や道から各々5000万ウォン、計1億ウォンの援助を受けて、光州盲人福祉会館を建てた。(中略)だが事業を始めた時には、市も道も100万ウォンを出すのが精一杯だったことを忘れてはいけない。
(私:河正雄にとって)光州との縁は1981年になる。(中略)光州事件の翌年のことで、市内の惨澹たる状況を眼にした。その時、市民の人心は荒廃しており、美術や芸術に関心が届かなかった。(中略)
金額のみで物事の評価をするのは、真実を知らない、価値のわからない人のいうことである。私:河正雄は会館完成までの七年間に50回も光州と日本を往来、指導し、募金を運んだ。そうした労苦を惜しまなかったのは、その社会的事業の価値には、金銭では計れない付加価値(社会的意義)があったからだ。多額の経費と時間とエネルギーを投資した。全てボランティア精神でやり遂げた。(中略)
しかし、日本人でない在日韓国人、韓国人でない在日韓国人が両国で生き、理解され認められるのは容易なことではない。お金だ、名誉だ、学歴だの毀誉褒貶にも捕われず、祖国や同胞のことを真剣に考えた奇特な人間が在日同胞にいたという事実、<嘘>でないことを、河正雄コレクションが語り証明するであろう。
コンセプトは祈り
2000年光州ビエンナーレを祈念して、ビエンナーレ展示本館に近い、中央公園の一角に私は柿の木を1本植えた。1945年長崎に原爆が落とされ、爆心地はあらゆる生命が死滅したが、唯一柿の木だけが生き残った。(中略)種を蒔き、木を植えることは容易だが、これを育み、花を咲かせ、実がなるまでには時間と弛まぬ努力と精神力が必要とされる。
特に文化芸術においては言を待つまでない。
私の美術コレクションのコンセプトは<祈り>だ。平和への祈り、心の平安への祈りである。犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的弱者、歴史の中で名もなく受難を受けた人々に向けられた人間の痛みへの祈りである。
{出典}河正雄・境界を越えて・日韓に虹の橋を架けよう・2017年12月リニューアル
《08-02》河正雄コレクションの作品構成
河正雄コレクションは、光州美術館に、1993年(212点)、1999年(471点)、2003年(1182点)、2010年(357点)、2012年(80点)、2014年(221点)、2018年(80点)7回の寄贈を経て、総計2603点で構成されています。(中略)
河正雄コレクションの性格と意味
河正雄コレクションは、個人所蔵家が収集したコレクションとしては世界的に類を見ないほど量的、質的な面において優れていると言えます。特に、特定の収集方向を持ち、コレクション固有の性格を形成するのは非常に難しいことです。この点を鑑みると、河正雄コレクションが社会的・政治的に恵まれず疎外された人々や歴史の渦の中で無念にも犠牲になった人々を悼む祈りと慰霊の意味を持った美術品を中心に構成されたという点は、他のコレクションと区別される注目すべき優れた特性だと言えます。
河正雄コレクション作品の核心は、韓日近現代史の激動の中で形成された在日作家の作品だと言えます。これらの作品は、在日同胞が経験した民族的な恨みや苦痛、絶望、死、そして彼らの切実な希望を切望する念願と彼らへの祈り、慰霊、鎮魂の意味を含まれ、またはこれを実践するテーマが主流を成します。従って、これらの作品は美術の社会的機能を実行することにより、在日韓国人の辛い歴史を理解するのに重要な資料となるだけでなく、韓国美術史においてきちんとスポットが当たらずにいた在日作家について知ってもらい、研究資料として活用できるという点において美術史的な意義を持っています。これと共に、河正雄コレクションの外国人作家や韓国人作家の作品も、抑圧的な現実への告発や抵抗、自由と平等への渇望に加え、そのような挫折と葛藤を克服しようとする希望のメッセージを内包しているということが、共通の特徴だと言えます。
光州市立美術館の所蔵品の半分以上を占める河正雄コレクションは、質と量的な面においてコレクションのレベルを向上させ、美術館の位置を高めるのに大きな役割を果たしました。しかし、光州市立美術館での河正雄コレクションは、このような外形的な意味以上の意味を持っています。即ち、「祈りのアート」という固有の性質を持つ河正雄コレクションと、1980年5月民衆抗争が起きた、痛みの韓国現代史を象徴する民主・人権の都市、光州との縁は必然だと言えます。時間と空間は異なりますが、1980年代に抑圧された政治的現実の中で、光州が受けた受難と異邦人として在日同胞が苦しまなければならなかった挫折、さらに恵まれず疎外された人々の苦痛は、一脈相通じる痛みとして理解できるでしょう。河正雄コレクションが持つ「祈り」の性格は、個人の救いを越えて戦争とすべての抑圧と貧困が消え、愛と平和が到来することを願う遠大な哲学的意味を指します。これは、在日韓国人の「人権」から始まり、朝鮮半島の「平和的統一」と、河正雄の二つの祖国である韓国と日本の「共生」を願うメッセージであり、「光州五月精神」とも通じる哲学を含んでいます。従って、河正雄コレクションは光州、在日同胞、恵まれない人々の痛みと悲哀に対する正しい理解と癒しを通じて、鬱憤を愛に昇華させること、世界人権の伸長、人類の平和と正義の実現を訴えるメッセージを送っているのです。
{出典}河正雄美術館 Copyright(C)2020Gwangju MUSEUM OF ART, All Rights Reservd
《08-03》韓国の民衆美術について
光州ビエンナーレをはじめとする光州地域の文化芸術インフラの発展を支えたのは、在日二世の河正雄であった。苦学しながらも事業をおこして成功した河正雄は、埋もれていた在日朝鮮人画家の作品を発掘収集し、地元秋田に、花岡事件で虐殺された中国人や、事故で犠牲なった韓国人への鎮魂の版画作品「花岡ものがたり」を寄贈、同時に「花岡事件版画展」を光州市立美術館で開催、更に演劇集団「わらび座」韓国公演を支援するなど、日韓両国の歴史の歪みを理解と友情へと導く活動をおこなっている。特に、光州市立美術館設立の際には、韓国では知られることもなかった在日朝鮮人の作品を寄贈した「河正雄コレクション室」を設け、青年作家招待「光」展を開催し、若手の育成にも力を注いでいる。
{出典}古川美佳著「韓国の民衆美術」―抵抗の美学と思想・岩波書店2018年発行
河正雄コレクションが未来に期待するものを、韓国美術における河正雄コレクションの位置づけとして、上述しました。
人に歴史あり、歴史を顕彰することにより、文化・芸術の歴史を反芻することができます。
素材の収集が河正雄コレクションに委ねられたにしても、美術作品を解説し付加価値を与えて、美術鑑賞に堪える場面を提供するのは第一義的には美術館学芸員の役割です。
貧困の美術家たちが一生懸命に表現の場を求めた韓国民族の足跡を、韓国市民が認識することにより、広義には韓国の文化水準を向上させるでしょう。芸術は生きる希望を与え、豊かな生活を享受する韓国市民を醸成します。
美術作品は韓国美術の足跡を韓国市民が鑑賞する機会が広まることによって、存在価値を見出します。美術作品が当初から価値を保有するものでなく、多くの韓国市民の支持によって有形無形の付加価値を与えます。惹いては、韓国美術が国際的な評価をも享受できるでしょう。今まさに、韓国美術は量から質に転嫁する時代にあります。(H.K追記)
以上