講演「過去・現在、そして未来」・2007年5月14日
真の友とは
先ず始めに、私の韓国語が未熟である事をお詫びします。恥ずかしい事ですが、私が民族教育を受けていない為です。
私は1939年、日本の大阪で生まれました。この年は第2次世界大戦が勃発し、創氏改名が法制化され、徴用(強制連行)が法的に強制施行された年です。戦争と植民地政策の苦痛の中で、祖国の運命に翻弄され、解放後は日本の学校で勉強して卒業した為です。
私の年代は、その時代の在日の宿命、運命と言うべきか不幸な時代を生きたと言えます。私の哲学には負の歴史的背景が、深層心理に刻まれている事を理解して下さい。
私は幼少期から成人に至るまで、教師になる事を夢見ました。しかし、その夢は在日韓国人では当時、法的な制限があり叶える事が出来ませんでした。
仕方ないので、幼少期から好きな絵を描いてきましたので、画家になる夢を抱くようになりました。しかし、その夢も父母の反対で挫折しました。
社会人になって事業の成功で、在日の美術を中心にコレクションを始めました。20世紀の不幸な歴史の為、在日で亡くなられた我が同胞の御霊を慰霊する為に、祈りの美術館を建てようと夢見ました。
政治的な事柄で、その美術館の夢は日本で叶えることが出来ませんでしたが、そのコレクションの全てを1993年光州市立美術館に寄贈し収蔵する形で叶う事となりました。
光州とは1982年の盲人福祉協会の建立から始まり、美術館、そして朝鮮大学校とのご縁を深めながら、本日に至っております。
私は夢を見て、祈り願い、その夢を叶える為に行動し人生を送って来ました。朝鮮大学校の博士号も頂き、客員教授にもなり皆さんに、こうして講義する事も出来ました。
私は画家になれませんでしたが、光州市立美術館ではコレクション展を開き、朝鮮大学校でもコレクション展を開く事が出来ました。
私のコレクションは私が描いた祈りと願いのアートと言えます。今日、お話しする事は、その私が描いた1枚、人生のアートと思いながら、お話を聞いて下さい。
今日の講義内容は「過去・現在そして未来ー真の友とは」です。
内容については戦前・戦後を在日韓国人が、韓日の狭間の中で68年間生きた歴史と人生の哲学が背景にあります。国の狭間に翻弄され生きると言う感覚を、すぐに理解する事は難しいかもしれませんが、皆さんの学識と教養のセンスで私のメッセージを汲み取ってください。
歴史の流れの中で生きると言う事は、過去を省察し学ぶ事で現在をより良く生きる礎として、個の哲学を育むものです。私のメッセージはそうした先人からの未来に向けたメッセージであると思って聴いて下さい。
時間が限られていますので、影響を受け尊敬し、在日を生きる精神的シンボルである3人の賢人、王仁博士、浅川巧、ポール・ラッシュを紹介しながら学んだ事を話して行きたいと思います。
王仁博士について話しましょう。王仁博士は私の父母の故郷である霊岩の賢人です。
霊岩の王仁廟は1976年、地方記念物第20号に指定された百済時代の遺跡であるが、何故か王仁博士は韓国国民の関心は薄く、広く知られていない。日本では戦前、教科書にも載っていたので崇拝され、広く知られた人物であったのだが、戦後になって忘れ去られた人物となりました。それは王仁博士の渡航年代、歴史的記録が明確でないからです。
しかし、霊岩の人々は「百済時代には王仁博士、新羅時代には道詵国師を生んだ地」と誇らしげに語ります。私もその1人です。
712年の「古事記」によれば、日本に王仁博士が渡来したのは15代応神天皇16年、即ち285年となっている。720年の「日本書紀」によると時代のずれがあり、約20年の食い違いがあります。
韓国側では、王仁博士は4世紀末頃、百済より日本に初めて渡来、帰化したといわれ、その子孫は河内(大阪)で栄え、西の文首と言われ、文筆を持って朝廷に仕え大陸文化を伝導したとあります。
王仁博士によって古代は日本人は初めて文字というものを知り、今の日本の精神世界に深く根を下ろしている忠義、孝行、仁義、友愛、義理といった人間の生き方に関する体系的な思想に接しました。
また、王仁博士と同行した技術者達は土地、水田を開発し、馬の飼育を奨励、交通と運輸などの改革をもたらし、日本の古代産業を大いに発展させ、日本文化の基礎を作った偉大なる先賢であります。
私は1985年、金沃鉉霊岩郡守より王仁博士遺跡の浄化事業の金銭的支援を依頼された事で関与をしました。遺跡の文化財復元事業は民族文化の伝承発展と啓蒙、国民的観光開発に大きく寄与し、民族的な教示と自負を育む歴史的な大事業でした。
また大阪府枚方市には1938年代阪府の史跡として指定した伝王仁墓と碑石がある。私は1985年、むくげの花を、その史跡に植栽し千古に輝く王仁博士の遺徳を讃えています。
また東京の上野公園には「博士王仁」の碑石がある。その碑石には王仁の業績が燦然と記されている。韓国人王仁博士を日本人達が挙国的に敬仰、尊敬し崇拝している史実が、その碑には記されています。
私が住んでいる山梨の別荘に近くに韮崎という場所があります。日本アルプスの麓に八幡神社がある。その祭神は「応神(おおじん)天皇」である。日本では「王仁」は「オオジン」と呼ぶ事から、応神は間違いなく「王仁」の部族であると言えます。
その八幡神社の近くに王仁塚の桜が地元の名所となっている。私の身近には王仁の子孫達の営みが現存している史跡がある。韓国内では王仁博士の足跡を記す記録が無いのは歴史的にも残念な事で、日本国内には「王仁」の名前は地方に点在している。王仁博士が日本文化に浸透し、誇りとなっている事が、そこから裏付けられるのです。
私は父母の郷土が生んだ王仁博士を尊敬し、その遺徳に感謝している。在日で生きるものの精神的誇りのシンボルが王仁博士であり、父母の故郷・霊岩です。
浅川巧について紹介したい。浅川巧は1891年山梨県北杜市高根町五町田に生まれ、農林学校を出て1914年、兄伯教のいる植民地朝鮮に渡った。朝鮮総督府農工省部山林課の林業試験場に勤務しながら禿山の多い朝鮮の山を緑化する為に土壌に合った朝鮮松の発芽法を開発し樹木の研究・育成に努めます。
そして朝鮮の民間の工芸品(後に柳宗悦により民芸と称される)の価値を発掘し、柳と共に朝鮮民族美術館を設立します。
乏しい給料から朝鮮人の子弟に学士を人知れずに援助したり、民間の忘れられている工芸品の名称や地方の陶磁器の窯跡を探索する行為は、「清貧に安んじ、働く事を悦び、郷党を導くに温情を以ってし、村事に当たって公平無私」だった類稀な日本人でした。
哲学者であり、リベラリストであった安倍能成は「人間の価値」と言う一文で巧の死を「朝鮮の大なる損失である事は勿論であるが、私は更に大きく人類の損失だと言うに躊躇しない。」と言わしめました。
42歳(1931年)の短い生涯を閉じたが、墓地に埋葬する祭に村の多くの朝鮮人に担がれ運ばれました。
彼の日記には関東大震災のデマによる朝鮮人大虐殺への怒り、「日本人は朝鮮人を人間扱いしない。朝鮮人に対する理解が乏しい。朝鮮人が悪い者だと思い込んだ日本人も随分、根性が良くない。よくよく呪われた人間だ。」と痛烈に批判しています。
植民地下の朝鮮に生きて、朝鮮の文化と朝鮮人を愛し、また朝鮮人からも愛された稀有な人物である。墓はソウル郊外の九里市にある。「朝鮮の山と民芸を愛し、朝鮮の人の心の中に生きた日本人、ここに朝鮮の土となれり。」と朝鮮の人により建立された「功徳の碑」があります。
浅川巧は種を蒔いて山を蘇らせる仕事をした。1粒の種を蒔き、1本の木を植え立てた人、種を蒔く人であった。浅川巧は朝鮮人の固有の文化、美意識を高く評価し「他人の真似をするな、自分の持っているものを大切にせよ」と励まし、朝鮮民芸を愛し守った人です。彼が遺した著書「朝鮮陶磁名考」「朝鮮の膳」などにより、彼の美に対する業績は燦然と輝いています。
浅川巧については2003年、高校の韓国近代史の教科書に、また日本でも2006年教育出版の中学の教科書に掲載されるようになり韓日が共有する学科を学ぶ事で理解を深めています。
浅川巧没後66年忌、初めて韓日合同追慕祭を1997年11月27日、ソウルのロッテホテルで開催しました。私は在日を代表して追悼の辞を読みました。
「本日、浅川巧の追慕の言葉を述べるにあたり、感慨深いものがあります。私は在日2世であります。日本での戦前戦後の生活は、父母は無論のこと多くの在日同胞は言葉では言い尽くせぬ辛苦の歴史でありました。その歴史は、日本と韓国そして北韓との狭間の中で現在も同じであります。
私は、在日で生きる為の哲学を教えられましたのが、浅川巧の生き方でありました。今から40年前のこと、秋田での高校時代に浅川巧を知ったからであります。
それは『人間の価値』の一文でありました。浅川巧の業績は多くありますが、私にとっての感銘は、その生きる姿、考え方であり、日々の行い、営みであります。
浅川巧は韓国の山河や歴史と文化を大きく深いところで見つめていたと思います。国や民族を乗り越えた『共生』を考えていた人でありました。
私の在日生活は59年に入りました。その間、時代は物質文明のみ目覚しく進みましたが、心の病は深く荒んで嘆かわしい世相です。私達は不幸であった時代を乗り越え、21世紀に向けて誠心を込めて友好親善を培い、兄弟である事を忘れてはならないと浅川巧は語りかけております。
私達は、浅川巧の偉大さと心の深さを学び継承する為、今日集い、追慕致しました。『人間の価値』即ち人格こそ普遍の価値あるものと教えられました。私は韓国と日本、二つの祖国、故郷を愛し寄与して、共に生きる事を誓い追慕の言葉と致します。」
浅川巧の生地山梨県北杜市では、彼の偉業を顕彰する為に資料館を建立しました。私は、2006年より彼の精神を学ぶ私塾・清里銀河塾を開いて啓蒙活動を行い、共に学んでいます。
日本を愛し、清里を愛し日本の青少年を育成したポール・ラッシュ(1987年-1979年)との出会いを語ります。
忘れもせぬ1960年5月5日のこと。ちょうど私が20歳だったときの話であります。初夏の新宿御苑で楽しんだ後、新宿駅から中央線に乗りました。小淵沢駅でSLを見つけ、急に乗りたくなってホームを降りました。小梅線で小諸まで行く列車だと言います。
シュッシュッポッポ、シュッシュッポッポと端ぐ様に山麓を進んで行く。後にした南アルプスの山塊、前に現れる八ヶ岳の山容、実に見事な風格を備えた3000メートル急の峰々に、私の胸は高鳴りました。
「清里」という駅に到着しました。「清き里」、なんとロマンチックな駅名であろうか。私は急いで列車から降りました。降りた途端、身を刺す様な冷気に震え上がった。そこは標高1275メートルの高原の駅。目の前に黒々とした山岳が迫っていた。八ケ岳の主峰赤岳であった。私は何のあてもなく清里駅に降り立ったのでした。
牛小屋のような駅舎。降りたったのは私一人。何ともいえぬ寂寥感の漂う旅情を噛み締めた。山のタ暮れは早い。タ日に染まった八ヶ岳の凛々しさ。遠く南に富士山が望め、雄大な山岳美に息を呑みました。
駅近くの旅館に泊まって、翌朝駅前を散歩し、ここが山梨県清里村である事が判った。歩いていると、いやに「浅川」「あさかわ」という看板や標札が目に入る。もしかしたらここは浅川巧の故郷ではなかろうかと私の胸は踊りました。
私は「浅川巧を知りませんか」と一軒一軒尋ね歩きました。だが、誰一人答えてくれる人はいません。「さあ、そんな人の事は聞いた事もありません。」というつれない返事が返ってくるばかりでした。
これは私の記憶違いであったのだと早合点した事が、浅川巧と清里との接点を見出す事が遅れた理由になりますが、その時の私には気づくべきもありませんでした。
「どこか遊びに行く所はありますか」と宿の主人に尋ねたところ、「清泉寮にいってみたら」と教えられました。そこで私は思いがけず偉大な人物を知る事となります。それがアメリ力人ポール・ラッシュ(1897年-1979年)である。1923年の関東大震災で破壊されたYMCAの再建のために来日したインディアナ州生まれの宣教師です。
「イエスは病める人々を慰め癒したではないか。飢えている人々に食を与えたではないか。イエスはしばしば人を集め、有益な話し合いの時を持ったではないか。幼子を集めて祝福し、働く希望を与えたではないか。」と、ポール・ラッシュは農村伝導及び農村への奉仕の実践的キリスト教の普及、清里での教育実験計画・戦後日本の民主的な農山村復興モデルを作る実践的な青少年教育を目的とする「キープ」を1948年に創設します。
病院・農場・農業学校・保育園・清泉寮を建設し、食料・保険・信仰・青年への希望の理想を掲げ清里を民主主義に基づく日本再生の拠点としました。
清里の発展の基礎を築いたのがポール・ラッシュであり、かれのフロンティアスピリット(開拓精神)抜きにして、清里を語る事は出来ません。
崇高なボランティア精神と果敢なフロンティア精神。「日本とアメリ力は良い友人になれる。」と、国境と民族を超えた無私の奉仕と博愛・人道主義思想。異郷人が、ましていわんや、日本の敵国であったアメリ力人が戦前・戦後を通して日本にとどまって実践している遠大な人類愛のロマン。彼の「最善を尽くせ、しかも一流であれ」という言葉と共に、キリスト教の教えに関心と感化を受け、清里に降り立った事を至福と考えました。
数年経って清里の念場ケ原に敷地を購入し、小さな山小屋「銀河荘」を建てました。この一帯は、柏前ノ牧として、古来名馬の産地として名高く、「甲斐の黒駒」として名声を博した事が「日本書紀」など諸書に伝えられています。この地方を巨摩郡というが、昔は高麗郡と呼んだ。この一帯は高句麗から来た渡来騎馬人の住み着いたところだったと考えました。
埼玉県日高市の高麗神社の由来について、「『続日本記』巻三によれば、716年、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七カ国在住の高句麗人1779人をこの地に集めて開かれた。」と書いてあります。私は、この念場ケ原にいた高句麗人が日高地方の高麗の郷に移ったものと思うようになりました。
韮崎市には、日本に先進文化の千字文と論語を伝達した王仁博士に由来する「王仁塚」というの桜の名所があり、津軽の山中には海岸寺がある。王仁博士の後裔である行基菩薩によって、717年に開創されたと伝えられ、人が生きていく道を静かに考えるところです。
また須玉の町には甲斐源氏の新羅三郎義光の菩提寺、正覚寺があり、この地方には古からの高句麗・百済・新羅人の歴史があります。私は、この「銀河荘」で家族と共に余暇を過ごし、心を育み、時には疲れ果てた心と身体を癒した。満点の星と歴史に思いを寄せ、遠い昔のロマンを偲びました。
1973年のことです。私は一人清泉寮を訪ねました。応接室があるホールに入るとマントルピースのソファーで小柄な人物が思いに耽っていました。頬や鼻が赤く染まってテカテ力と輝いていました。私が入ってきた事に気づいて、立ち上がると「どうぞお座り下さい」と声を掛けてくれました。この人こそポール・ラッシュでした。
日本語はそれほど流暢ではなかったので英語を交えて会話は進みました。「どうしてここへ。どこからおいでになりましたか。」
「マントルピースの上に掲げてある絵に惹かれて入りました。」
「この絵は須田寿(1906年-2005年立軌会創立会員)の『牛を売る人』の絵です。日本に初めてジャージ種をアメリ力から持ってきて、この清里で実験的に飼育した牛をモチーフにして描いたもので、この絵は清泉寮完成祝いに贈られたのです。」
「私は須田寿のザクロの絵がとても好きで画集を持っています。」
「その画集を、一度見たいものですね。」
絵が取り持つ縁で、二人きりで会話を交わしました。
「ここまで来るには大変なご苦労があったでしょう。」と問いかけたところ、私の顔にポール・ラッシュの顔が瞬間曇った。先程までとは違い全身から疲れが惨み出て来る様な表情でした。
「自分の理想とロマンとのギャップに苦しみました。地元の人々から理解が得られなかった事でも悩みました。実は今も、その事で考え込んでいたところでした。」
異郷の地で、異邦人として奉仕する事が容易い事とは思わないが、ポール・ラッシュが感じている孤独とわびしさは、在日韓国人の私には共感として伝わりました。
それから数年後、ポール・ラッシュは清里に大きな光を残して、人々に惜しまれながら旅立って行きました。二度の再会はあったが、須田寿の画集を見せる事もついに出来なかったことが惜しまれます。
ポール・ラッシュは立教大学、早稲田大学で教鞭をとり、日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)を設立。日本聖路加国際病院建立の為、米国で募金活動。日本にアメリカンフットボールを紹介、フットボールの父と呼ばれる。立教大学の教会には聖人として壁面のプレートにて顕彰されています。
ポール・ラッシュが来日したきっかけが在日朝鮮人の受難史である関東大震災である。先ず関東大震災について説明したいと思います。
- 1923年9月1日9時58分関東南部を襲った震災
- 震源は相模湾中央、相模トラフ沿いの断層、マグニチュード7・9
- 京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。
消失家屋44万7128人
死者9万9331人
行方不明1万3000人 - 負傷5万2000人
罹災人ロ340万人
東京被服廠跡では3万2000人が焼死
被災総額は55億1100億円余 - 山本権兵衛内閣は東京・神奈川に戒厳令を布告、非常徴発令、暴利取締令、支払猶予令を発し、震災手形を発行したが震災恐慌が発生
- 震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生
関東大震災の地震と火災の混乱に乗じて「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」「火災は朝鮮人が国を乗っ取る為に放火した」などのデマが流れ、青年団や軍人などが中心となり朝鮮人を虐殺する事件が起きた。虐殺された人数は約6000人とも言われているが定かではありません。
私が住んでいる埼玉県には関東大震災による朝鮮人犠牲者の慰霊碑、供養塔、墓などが数多く残されています。熊谷市の熊谷寺に約70名、本荘市長峰墓地88名、上里町神保原の安盛寺に42名の慰霊碑があり、小玉町浄眠寺に無縁の供養塔、寄居町正樹院に具学永の墓、さいたま市大宮の常泉寺には姜大興の墓などがあります。
1999年9月7日、本荘市にある長峰無縁墓地で心無い事件が起こりました。朝鮮人犠牲者慰霊碑を囲む石柱23本の内、7本が倒されたのです。また碑の西側にある無縁の墓34基の内、27基が倒され、内7基がハンマーで割られてしまいました。
目撃者の証言によると30代から40代の男が犯行に及んでいたらしいが、犯人を逮捕する事が出来なかった為に、この事件は3年後に時効を迎え、有耶無耶になってしまいました。
2000年埼玉県日高市の高麗山聖天院勝楽寺に在日韓民族無縁の霊碑を建立されました。私は毎年9月5日には慰霊式を挙行し、在日同胞や日本人らと共に慰霊事業を行っています。
犠牲者の霊を慰め、二度とこのような不幸な事件を起こさぬ様記憶を新たにし、風化せぬよう努めなければなりません。
ポール・ラッシュと浅川巧のスタンスは違うが、生きた時代を共有し、人道と博愛の精神が共通している。在日である私の精神にも、この2人の歴史観に共感し、関心を同じくしている事がわかるでしょう。
真の友とは、激励し導く先輩や同輩を言います。人間性や人格は友を見れば判ります。形式や外見ではなく共に歩もう、前進しようという連帯こそが真の友情なのです。
新しい歴史を我々は創造する使命と義務がある。韓国も日本もアジアに位置し、共にアジアとの共生と発展に寄与する使命があります。
歴史が作り出した様々な感情が今も残っているが、改めて歴史的を考え直しアジアとの新しい関係を始めていく為にも、私達の身の回りにある、アジア的価値観を創造していかなければなりません。
何よりも心を開き、アジアの人々が同じ目線の高さで向かい合い、共に歩もうとする事です。民族や国を超え、国際親善の先駆者であった王仁博士、浅川巧、ポール・ラッシュの精神や、生きた実践は良き模範であると言えます。
私のコレクション、私の描こうとしている絵は人道主義の讃歌であります。民族や国で計るのではなく、人格が人間の価値であるという事を理解し、心の中心に据えて欲しい。
私の人生は祈りを描いた絵画であったと思います。祈りと願い、夢を描き続けた事で、人生の晩年に来て形となり、目に見えるようになりました。
皆さんにも大志を抱き、大きな夢を人生に描く事を人生の先達としてお薦めしたい。今をより良く生きる事に念願の祈りと努力を怠らないで欲しい。
最後にポール・ラッシュの言葉「最善を尽くせ、一流の人物になるよう努めよ」で講義を締め括りたい。
皆さんがこれから描く事になる「人生の絵画」に期待します。浅川巧の生誕地、ポール・ラッシュ博士が一生を尽くし愛した奉仕の地、古の韓日の歴史を残す史跡がある山梨県北杜市清里を訪ねて欲しい。
地質と海流、そして気流の流れは一帯であります。宇宙の神秘と我々が生きる世界はーつの帯で結ばれている事を自然が教え、感じさせてくれる事と思います。
朝鮮大学校創立100周年を祝す神仙桜
美しい桜の花が咲く春を待ちわびる心には人それぞれの感慨があろう。青春時代の境涯の切なさとほろ苦さ。故郷の恋しさを忍びながら待ち焦がれた桜は、私を生かし、育み、癒してくれた存在であった。
韓国で大ヒットした李柄浩主演のテレビドラマ「アイリス」のロケ現場で有名になった北東北の秋田県仙北市田沢湖は生誕まもなく移り住み、20歳まで過ごした壊かしい故郷である。植民地時代に鉱山や水力発電所工事の為に、多くの同胞が徴用による強制労働を強いられ、犠牲となった痛恨の歴史がある場所でもある。
みちのくの小京都と言われる仙北市角館町には黒板塀に囲まれた武家屋敷通りがある。その重厚な屋敷構えは国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている。
江戸時代(410年前)から守り継がれてきた巨木の木立が連なる町並みは見事なものである。特に有名なのは国指定の天然記念物である樹齢350年の枝垂桜群である。京都の公家である姫が持って来た3本の苗が始まりという由緒ある景観は、歴史を今に語りかける神仙ともいえる存在である。
私は2006年春、第16回王仁文化祭を記念して王仁廟公園内に角館枝垂桜植樹並びに神仙太極庭苑造成を企画推進し、父母の故郷である霊岩に王仁博士の恩徳に感謝し献樹した。
「幸せな木花は人をも幸せにする」という訓がある。春には生けるもの全てが生命力に溢れ、復活する季節である。桜は、その復活を彩り祝う喜びの象徴でもある。
2007年11月27日には、私は朝鮮大学校の発展を祈念し、創立100周年記念を展望し祝う為に、角館の枝垂桜25本を朝鮮大学校に寄贈した。朝鮮大学校は学徒在日二世河正雄に対する温かい心情を示してくれたからだ。
2003年7月21日、朝鮮大学校は私に美術名誉博士学位を授与された。その時、大学をあげて祝賀して下さった事が終生の記念日となった。
その返礼として同年9月29日朝鮮大学校57周年記念日に加藤昭男作「明日の太陽」ブロンズ像を建立寄贈した。次代の学徒が健やかに、世界にはばたく公益人になれ、世を照らす太陽になれと祈念し、私はその報恩の想いを角館枝垂桜と共に託す事にしたのだ。
「昔植えた苗木今大きく育つ今植える苗木後の大木」我々の弛まぬ精進と前進を見守り、励ましてくれるであろう。
寄贈した桜の品種を説明すると紅枝垂桜はヒガンザクラ系で八重咲き、名称は仙台枝垂桜である。
白枝垂桜はサトザクラ系で一重咲き、名称は吉野枝垂桜といい、その土地の名木に名前を付けて呼んでいるので角館枝垂桜という名称は無い。
2010年3月春冷えの中、朝鮮大学校キャンパスの山中に仮植されている苗木を確認した。苗木の樹膚は紅色に輝いて生気に満ち、ほんのりとピンクの蓄を膨らませていた。寒風の中で花芽が一輪咲いているのを確認した時、朝鮮大学校を新しい故郷として根付いて花咲かせてくれたのだと思うと、愛おしさから瞼が熱くなった。
「桜ばないのち一杯咲くからに生命をかけてわが眺めたり」(岡本かの子の短歌)
私が桜に想いを託するのは昔に生きた人の生き方や考え方、思いや教えを人間共通の記憶として次時代へのメッセージとしたいからだ。
桜は人生の深さ、広さを知っている。桜は歴史の激動と無常を見つめている。桜は故郷の懐かしさを包容し、我々を包んでくれる。桜は人間の喜びと幸せを守ってくれている。桜に神霊的、神聖感を覚えるのは信仰が源流にあるからだ。
朝鮮大学校に植えられた角館の枝垂桜はどの様な理由で植えられたのか後世の学徒は、その想いを語り継いでくれるだろうか。そして喜んでくれるだろうか。平和と幸福、豊かで安寧なる世界の具現を祈願するものである事を知るであろう。
創立100周年を迎える2046年迄に大学はどの様に発展し、どんな人材が輩出されているだろうか。思うだけでも桜の成長が楽しくなり、夢見る思いである。
禅の宝典、碧厳録第5則「頌」にある「百花春至為誰開」の教えによると花は唯、春が来たら花を咲かせ、時期がくれば散っていく。ただ、それでいいのだと人生や宇宙の哲理を説いている。中国宋代の禅の教えは寂(わび)の世界の極致でもある。
創立73周年(2019年)の春も、一夜の夢を見るように足早に去って行った。桜の季節になると、私はその言葉の深い意味を噛み締め、馬齢を重ね研鑽を積み学んでいる。
朝鮮大学校美術学博士号学位授与式にての感謝の言葉
本日は歴史と伝統のある韓国を代表とする名門の朝鮮大学校より美術学博士号、学位をいただき、身に余る光栄に感激しております。
名誉学位授与にあたりご尽力下さった梁亨一朝鮮大学校総長、朴聖珪大学院長、朴光泰光州広域市長、そして李炯錫光州市議会議長を始めとする光州市民の皆様、日本から見えられた日本の皆さんと在日同胞の皆さん、公私ご多忙の中を御参列下さいましたことを心より感謝申し上げます。
私は家庭(経済)の事情で大学に進学出来ませんでした。母は84歳の高齢になるが今も時折、「正雄、お前を大学に入れてやれなかったことが申し訳ない。許しておくれ」と涙を浮かべて言います。秋田で過ごした小中学時代、その当時クラス50人の同級生がいたが高校進学出来た者は10数人ほどしかいない貧しく苦しい時代でありました。小学校の門をくぐった事もなく、日雇い労働者として働きながら私は無論のこと、妹弟を高校まで進学させた偉大な父母は子等に大学教育を受けさせることが夢であったのです。
私は大学を断念し社会に出たその時から、社会から学び、生きながら学ぶことが「大学」であると考えました。卒業証書は死ぬ日に貰える物と思っていましたから、母の涙は時に負担に感じもしました。
大学を出ていないから教育者、弁護士、新聞記者になれない時代を私は生きたのです。大学を出ていないからクラブ入会の資格がないと言われたこともありました。今、殆どの人が大学に入っているのに、どうして君は大学に入れなかったのかと蔑まれたこともあったが、それは時代を知らない人が言うことです。親の苦しい時代を共に生きて生きた者としては何の不満も不足もなかったというのが私の本音であります。
昨年「蛋白質の正体を探る質量解析法を開発した業績」でノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんに憧れる人は多いようです。大学の教授でもない、会社のいちサラリーマンの地道な研究成果が世界で認められたのです。博士号がなければ研究人ではないような、日本以上の学歴社会である韓国にも大きなショックを与えたと思います。人生は捨てたものではない、権威や地位が大事ではない、ことなどを教えてくれた快挙であります。
高卒で弁護士になり大統領にまでなった廬武鉉氏、そしてサラリーマン研究者でありながらノーベル賞を受賞した田中耕一さんのような存在は、これから学び生きる者にとって、努力次第で希望は果たせるということを改めて知り、人生を勇気づけるものになったはずです。
2003年2月24日、57年の歴史を持つ韓国光州市の朝鮮大学校を訪問しました。その日は卒業式の日でした。
この卒業式には、金泳鎮韓国国会議員の名誉博士学位の授与式があるというので出席しました。歴史教科書問題に抗議して日本の国会議事堂前でハンガーストライキをした金議員とは3年前東京で光州のキムチ祭開催計画をした折にお会いし、講演を聞いたことが縁になっています。彼はこの度、慮武鉱政権の農林水産部長官となった農林水産の政策マンです。
その授与式にてハンナラ党ファン・ウヨ議員が述べた祝辞に、私は大学の意義を教えられ、励まされました。
「世のため、人のために尽くし社会で活躍している大学とは無縁の人材を、大学は権威を外して登用し、生かして学ぶべきである。
学問だけの人材作りではなく、どの様に生きて、生きようとしているのか社会の中にいる人材に我々は注目しその存在と価値を認めることが今、大学に求められている。」と説かれました。
実は、1993年黄栄性副総長より、私に学位授与の打診がありました。その時、私は無知識と無教養、人格的な未熟さを恥じ、朝鮮大学校の名誉を汚すのではないかと思い、恐れ多いことと、お受けすることを躊躇いたしました。その後にお会いしたときも、ありがたい言葉をいただきながらも、ご返事が出来ませんでした。
今年になって朝鮮大学校卒業式の際に訪問したとき、再び推薦の言葉をいただきましたが決心がつきませんでした。理由は私が高卒であり、資格がないと思い込んでいたからです。
しかしファン・ウヨ議員の大学の意義をお聞きして、私にも資格があるのかとぼんやりとした思いを抱いたことと、母の愛情にも報い、孝行する事が出来ると思ったことでお受けすることとなりました。
何か勿体をつけているかのように思われるかもしれませんが、大学とは、博士学位とは私には無縁のものと諦め、脳の片隅にも入り込まない世界であったことを正直に告白します。今回の授与にあたり、黄栄性副総長が10年間、変わらぬ心で私を励まし、力づけて下さったことに改めて感謝を申し上げます。
大学・大学院は学府の頂点ではありますが、社会から超絶した存在ではない。生涯学習の時代にあっては1つの課程と位置づけられる存在でもあります。学ぶ側はもちろん、教え育む側も社会によって鍛えられるべきであると思います。
かつて「象牙の塔」とも言われた大学ですが、権威の垣根を低くして内外の人材を糾合し、学び合う場所になって欲しいと願っています。
私は朝鮮大学校の1学徒として名を汚さぬよう学習と研究に励みたいと思います。ご指導、ご鞭健のほど、お願いいたします。
最後に朝鮮大学校の無窮なる発展とご列席の皆様のご健康とご発展をお祈りします。