浅川伯教・巧兄弟資料館 元館長/学芸員 澤谷滋子

■ 浅川兄弟資料館と私の出会い

私が北杜市立の浅川伯教・巧兄弟資料館学芸員となったのは、2008年。町村合併直後である。北杜市郷土資料館学芸員および教育委員会学術課管理職との兼任であった。

資料館は、浅川兄弟の故郷高根町(2007年の合併で北杜市)が、2001年に設立したもので、浅川巧の日記14冊が韓国の方から寄贈されたことがきっかけだったらしい。当時の高根町長が音頭をとり、「浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会」が運営していた。

合併後、「兄弟を偲ぶ会」の要請で北杜市教育委員会の管轄となり、学芸員を置き、博物館としての運営をすることになったのだという。浅川兄弟の「顕彰」だけではなく、学芸員を置いて「研究・調査を行う資料館」にするという条件付きで資料を寄付した或る方が、「博物館法に則った資料館にしないのなら寄贈資料を全て引き揚げる」と北杜市長に直接申し入れたのだ、と後に聞いた。

博物館に熟知した人物、と見受けられ、北杜市の学芸員として私は非常に嬉しかった。

学生時代から近代日本の大陸進出の考察を専門と見据えて学んできた私にとって、山梨県に生まれ植民地時代の朝鮮に生きた浅川兄弟は、当初より気になる存在だった。当初とは、1991年。東京からこの地に転居してきた時、電信柱に貼られたA4の水色のチラシを見た時である。そこには、「講演会 日本統治時代、朝鮮人に愛された浅川巧 会場:五町田公民館」と書かれていた。

「えっ?、何をトンデモナイことを言っているの? あの植民地時代に、朝鮮人に愛された日本人がいたなんて平気で言うこの地域。植民地時代の人を、おらが村の偉人として扱うこの地域。とんでもないところに引っ越してきたものだ……」

しかし、高崎宗司氏の『朝鮮の土となった日本人~浅川巧の生涯』(1982年初版。草風館)を読み、浅川伯教・巧兄弟資料館を訪れ、「浅川巧という人物が生きていたことを私たちは覚えておきたい」という感動に襲われた。そして、資料館は、浅川兄弟を「顕彰」するのではなく、浅川兄弟とその時代と人を「検証」するべきだ、と切に思った。  そんな思いで浅川伯教・巧兄弟資料館を高根町のものとして眺めていた折の、学芸員兼任の辞令であった。

■河氏と浅川巧

着任早々、展示されていた「浅川巧の日記」14冊と「巧のデスマスク画」のレプリカを作成し、本物は中性紙箱に収めた。7年間の展示で劣化していたのが、今でも悔やまれる。次に、所蔵資料登録台帳の作成にかかった。

浅川巧が興味を持ち、敬意を払い愛でた「朝鮮の工芸品」に、多くの寄贈品があった。100点は下らない。同一者の寄贈である。更に、兄浅川伯教の陶磁片収集に同伴した、韓国京畿道の人間文化財沈順鐸氏の白磁や青磁のみごとな作品の寄贈もあった。どれも、この資料館になくてはならない貴重な資料である。その寄贈者名を見ると、すべて「埼玉県川口市 河正雄氏」とあった。

浅川兄弟の資料館設立に並々ならぬ期待を寄せて2001年の資料館開館に貢献していた人物が、河正雄氏であると知ったのは、この頃である。寄贈条件を守らないなら資料は引き揚げる、と故白倉市長に直接談判したのは、河氏だったのだ。

河氏。なにものであろう? 私を捉えた。

誘われて、「銀河塾」という清里の清泉寮で毎年開かれている勉強会のような催事に参加した。河氏が始めた私塾だそうだ。浅川巧に共鳴した氏が個人で続けている、巧を知るための会だという。日本人・韓国人・在日韓国朝鮮人、多くの分野の方が30~40人参加していた。これは、資料館が博物館活動として行うといい事業だな、とその時思った。

河氏と浅川巧との出会いは、御著書『日々一歩一歩』(2016年刊)p143に詳しい。氏は21歳のとき、迷いの頂点に在ったという。差別が蔓延する日本社会で生き残る自信を失っていたという。失意のなか、目的地もなく旅に出、蒸気機関車は山梨県高根町の清里駅に止まった。そこで再会したのが、秋田県の高校時代、安倍能成(哲学者、教育者。浅川兄弟の友人)の著書で読んでいた「植民地時代の浅川巧」だった。

「官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく」「その人間の力だけで」「露堂々と生き抜いていった」人、と安倍能成が紹介していた浅川巧の故郷であることを、偶然そのとき知ったという。

浅川巧(1891-1931)とは、日帝強占期、兄伯教の影響で山梨県の今の高根町から朝鮮半島に渡り、朝鮮の緑化に尽力した林業技術者(植林・造林技術者)である。かつ、兄伯教の影響で、朝鮮の工芸品の魅力にとりつかれ、日本の進出によってその美が破壊され、消えゆくことを憂い、集め、記録し、その作り手である朝鮮の人・自然・文化に敬意と愛情を限りなく抱いた人物。40歳で京城で亡くなった時、多くの朝鮮の人がその死を嘆き悲しみ、葬列に臨んだと言われる人物。

「浅川巧を知れば知るほど、日韓両国が必ず知っておくべき人物だと思った」「国、民族、宗教等、人間を区切る壁に拘らなかった人、ひたすら一人の人間として他人を抱え、異文化を愛した人、彼は心から国際親善を実践したヒューマニストであった」と御著書『日々一歩一歩』で河氏は述べている。

浅川巧と出会った河氏の資料館設立への思い、そして私塾「銀河塾」への思いは、上記にみるように計り知れぬものがある。美術を愛好する河氏は日韓の多くの美術館・博物館と接してこられ、美術館名誉館長等を歴任されている。氏は、美術館・博物館の在り方、運営に対して確かな眼をもち、熟知しておられた。その眼が浅川兄弟資料館への大きな期待となっていたのだろう。

私が任用内示を受ける2~3か月前、勤務先の郷土資料館に、私に会いたいと来館なさった河氏のことが思い出される。今考えると、それは、「面接」だったのだろうか。

■資料館の展示活動

かくして、2008年から2019年まで、私は資料館で仕事をさせていただいた。

対面にあった「高根町郷土資料室」を閉じて浅川資料館の企画展示室に替え、「浅川巧からのメッセージ~自然法に帰せ~」、「浅川伯教をよむ~朝鮮古陶磁の神さま、その源流~」などの企画展を行なった(活動しはじめた時、「よそ者に何が分かるか」とかつての運営者に言葉を投げつけられたときは、かなり面食らった)。

浅川兄弟と柳宗悦(宗教哲学者、民芸運動創始者)が、柳の発案で朝鮮に開館した「朝鮮民族美術館」の設立理由は、日韓に伝え続けるべき考え方だと思い、「朝鮮民族美術館の再現」コーナーを常設展示に加えた。

映画「白磁の人」が2011年に公開されたときは、映画制作が日韓合同の共同作業であることを伝えるための、映画公開記念展「メイキング~白磁の人~」を開いた。

浅川巧の映画「白磁の人」製作においても、資料館は大きく関わったと思う。映画試写会直前のフィルム編集途中で、植民地政策に関する或る重要な時代考証が必要になったことがある。2日以内に調べ韓国に知らせなければ試写に間に合わない。知る限りの朝鮮史家に教えを乞うたが、そこの分野は専門じゃないと言う。そんな中、千葉大学の趙景達教授が出張先に向かう飛行機の内外から考証してくださった。この考証の件で、後日、映画監督高橋伴明氏は、私に深々と頭を下げられた。それほど重要だったのだ。趙景達教授の御貢献を、この紙面をお借りして公にしておきたい。

ところで、兄伯教は朝鮮半島700ヶ所余の窯跡を調査して陶片を収集した。その陶片、およそ100年前に収集した伯教の指紋がついているに違いない(!)陶片500余片を、ある方から購入させていただいた。京都の陶芸家で、若かりし頃、自分の勉強のために戦後の古道具店で買い求めたものだという。伯教や巧の陶片収集の理由の一つは、朝鮮窯業が日本の進出によって消されていくのを目のあたりにし、将来、朝鮮の若い人たちが新しい工芸を興すのに、陶片が役立つことに着目したことにもあった。

寄贈された伯教の陶片を展示し、閲覧可能にし、この資料が現代の・未来の工芸に役立つことを願っている。今では入手できない北朝鮮の窯の陶片は貴重である。実際、韓国の陶芸家や、李朝陶磁に影響を受けている陶芸家達は閲覧しに来館している。これからも活用されることを願う。

■資料館の出版・広報活動

浅川兄弟について書かれた論文・随筆など、国内外で発表されたものは、可能な限り収集し、年月日、タイトル、掲載誌名、著者名を表にして、ファイルに収めた。人は浅川の生き方から何を感じるのか、浅川兄弟の捉え方などをデータ化し、検索できるようにした。件数は、2019年で200件にはなっただろう。これからの研究に役立ってほしい。

出版事業の主なものとしては、『巧の日記』を韓国語に翻訳し、韓国語版『浅川巧の日記』を1,000冊を刊行し、600冊を韓国の関係機関に謹呈させていただいた。

日記といえば、思い出すことがある。資料館担当になって3年目くらいのこと。河氏は数名の方々を資料館にお連れになった。話していて、そのうちのおひとりの名前を知った時、突然、19歳の私に、時空が飛んだ。

学生のとき、べ平連解散後の小田実らが代々木で「アジア大学校」を開講。私はそこに一人で参加していた。その中から「アジア図書館をつくろう」という運動が始まった。そのリーダー、I氏だったのである。私は一人大学で署名を集めたり、正門前でチラシを配ったりしたのだが、そのとき以来のI氏であった。あれから40年。彼は同じ道を歩んでいたのだ。

その彼が、2020年今年の秋、韓国の出版社から『韓国語版 巧の日記』の刊行を頼まれ、北杜市から出版した『韓国語版 巧の日記』について問い合わせてきた。道は拡がっていく。

署名で思い出したが、大学での署名を許可してくれたゼミの教授に、ある日カレーライス屋さんに誘われた。ひとり行ってみると、二人の韓国人がやってきた。韓国の民主化運動に関わり、日本に逃れてきた人、と教授は言った。韓国の現状をその時初めて知った。大学では、池明観という先生が哲学の授業をもっていたが、その方が、匿名で雑誌『世界』に「韓国からの通信」を寄稿していたT・K生と知ったのは、25年もたってからである。1975年頃の話である。

韓国語訳日記のほか、浅川伯教作の短歌を集めた『短歌五十首抄』を出版したほか、伯教が80年間の人生で書き残した論考・随筆・書簡等々を集め、『浅川伯教 朝鮮古陶磁論集』全三巻を編むことができた。

定年退職の2ヶ月前、伯教が徳冨蘆花(小説家)に宛てて、朝鮮に渡る前後の心境を綴った書簡(10通)を徳冨蘆花恒春園で見つけたことは、大きな感動だった。なぜ朝鮮に敬意を払い愛したのか、河氏がおっしゃるところの「国、民族、宗教等、人間を区切る壁に拘らなかった人、ひたすら一人の人間として他人を抱え、異文化を愛した人、彼は心から国際親善を実践したヒューマニストであった」ことの、原点をみることができる書簡であった(『浅川伯教 朝鮮古陶磁論集3』所収)。

2012年からは6年間、河氏が始めた「銀河塾」を資料館の事業として北杜市で行わせていただいた。毎年、韓国の学生と日本の学生が集まって2泊3日生活を共にし、浅川巧について考える事業である。河氏が予算を工面してくださった。しかし、当方の企画力が足りず、日韓の学生参加者をうまく募ることができず、最後までやり通せず、退職と共に中断となった。半端な仕事をしてしまった。6号まで、報告書だけはつくった。

2009年からは冬を除く月1回の割合で、「浅川兄弟講座」と称して、さまざまな講座・講演を行った。

そのうちの一つは、「浅川巧をよむ」という2年にわたる連続講座で、日記を朗読しながら、時代背景や登場する事物、精神を詳細に読み解いていった。いつも10人ほどだが参加してくださった。この講座は、私にとって、巧と時代を知り深める、大きな手段になった。そのときに調べた資料は、分厚いファイルになって資料館にある。伯教についても、同様の講座を1年かけて行なった。この調査が、のちの『浅川伯教 朝鮮古陶磁論集』全3巻の編纂につながった。

市内外の小中高生・大学生の見学受け入れ、さまざまな団体への出張講座。さまざまな機関誌への寄稿。寄稿といえば、退職間際、漢陽大学校の知人を通して韓国のソウル歴史博物館から寄稿を頼まれたのは、兄弟調査研究の〆のように感じたものである。

他職との兼任であったため、退職するまで毎日が本当に忙しかったが、この仕事に就いて、私は浅川兄弟をどう捉えるのかを自問し続けた。

退職間際に行き着いたのは、「人間の傲(おご)りを恥じる心」という言葉だった。

これほど愚直なまでに、人間の傲りを恥じて生きた兄弟はいただろうか。森林を濫伐し自然を破壊する人間の傲り、朝鮮を侮蔑し差別する近代日本人の傲り。これらの傲りを恥じる意識が、伯教を朝鮮古陶磁の研究に向かわせ、巧を、山を緑にすること、朝鮮工芸を愛する事、人々と分け隔てなく交流することに向かわせたのだ、という自答に至った。

人間が人間を差別すること・傲り高ぶり接すること、そして自然を無視し超えようとすることを、人間の傲り(自分の傲り)として恥じる心が巧や伯教を形づくっていたといえる。巧の親友浅川政歳は巧を「なにごとも自然であることを喜び、物事をあるがままに味わい、あるがままに行い、魂と魂で語り、かつ結合せんことを念願としていた」と回想しているが、これは安倍能成のいう「露堂々と生きた人」にもつながる。

河氏の面接(?)は、10年間の資料館活動を私に与えてくれ、私を育ててくれた。感謝に堪えない。

精一杯やったつもりだが、河氏の「もっと、もっと」という声が聞こえてきて、私を不安にさせる。私が活動した多くのことは、立ち消えて未来に繋ぐことは難しいかもしれない。が、調べたこと、のこした文字・本・資料・展示は、資料館に残ることを期待する。資料館担当になった早々、「よそ者に何が分かるか」と面前で言われ、陰でkusobabaAと言われ、数々のいやがらせを受けた。退職のころ、思わず河氏にその話をしたら、「来てもらったばっかりに申し訳ないことをしたね。……でもね…」と、ゆったりとにっこりと微笑んで、「私に比べたら、、」とおっしゃった。あのときの、おおらかな、しかし諦念の口調が忘れられない。

私は岩手県の生まれである。奥羽山脈の向こうは、河氏が育った秋田県仙北。花岡事件や尾花沢事件を調べていた私にとって、河氏が発表した秋田時代の記録の数々は、読ませていただくのが有り難かった。

最後の仕事として、『14冊の日記~評伝浅川伯教・巧~』を「人間の傲りを恥じる心」に視点を置いて書かせていただいた。これを原作に、小中学生向けの浅川兄弟の評伝漫画が、2021年刊行される予定である。

付記1 

韓国の金成鎮氏が50年間守りつづけ高根町に寄贈なさった「巧の日記14冊」は、北杜市有形文化財の指定を申請し、2019年、指定された。寄贈者金氏の言うところの「人類の遺産」とすることができて、ようやく安堵した。

付記2

私が退職したあと、資料館の館長職は市役所の退職者の再就職先となり、学芸員も置かれず、2020年になると館長も学芸員も置かれない組織となった。理由が分からない。資料館の10年の活動は評価されなかったのだと思う。力不足だったのだ。失望感に襲われているとき、河氏からこの原稿を書く機会をいただいた。資料館はこの10年、何もしてこなかったのか? 自分を励ますために、この1ヶ月、色々なことを思い起こし、はじめて記録してみた。有り難い記録となった。

こういった市役所気質に、かつて2008年に風穴を開けた河氏の気概と情熱に改めて感動する。

                                    [了]