浅川巧生誕130周年に寄せ顕彰する

―究極の芸術(Art)―

現代美術は難解であると良く聞く。抽象的、前衛的な表現、絵画や彫刻、映像作品、そして設置美術など説明を受けても理解出来ない。多様な価値観を求める作品は表現が多彩且つ奔放である。作家に説明を求めると自身も説明する事が出来ないと言われる事も多く、好きな様に見て、好きな様に解釈して欲しいと言われるので作品の持つ本来の意味を理解しきれない事も多いのが実情だ。

現代作家はその時代が要求する空気を感覚的に捉え、先鋭的、実験的に表現する。「理解出来なくても良い。理解出来る人間が理解出来れば良いのだ。時間が経てば理解されるだろう」と時間の経過で付随する多様な価値観の中で、作品の意味を定着させれば良いと言っているかの様だ。

作品の良し悪しは自分が「好きか、嫌いか」という感性で感じ取れば良いという主観的且つ単純明快な直感的な論理が命題となろう。

文は人なり、という格言がある。芸術(Art)もまた、作品が人を表すものである。過去、現在に於いて人間そのものが芸術(Art)であり、美の創造者であった。故に価値ある人間の生き方や人生の足跡そのものが芸術と言えるのではないだろうか。

ならば愛する事の出来る人格、尊敬に値する人格が織られた作品、浅川巧の「人間の価値」そのものが究極の芸術(Art)であると言える。

―以心伝心—

浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会が発足したのは1996年の事である。会長大柴恒雄高根町町長は「浅川兄弟は我が町で最初に国際交流を試みた国際親善の実践者である。先祖が実践し中断された韓国との交流を再び引き継いでいきたい。町に浅川兄弟を顕彰する記念館を5年後を目標に建てたい。」と述べた。

浅川兄弟が「韓国を愛した」話と功績を後世に伝え、韓国文化を紹介し、兄弟に縁りのある韓国の自治体との友好関係締結の準備を進め、交流する事を明らかにした。

偲ぶ会は発足と同時に、兄弟に関する資料蒐集委員会が構成され資料蒐集が始まった。1997年11月27日には、ソウルにて浅川巧没後66年韓日合同追慕祭を開き、そして墓域の整備事業を始めた。遅きに逸したが高根町では1999年8月1日「町政要覧」にて、公式に兄弟を初めて紹介した。十月十四日には浅川巧縁りの韓国京畿道李進鎬抱川郡守らが、2000年6月27日には韓国側の浅川巧先生記念事業委員会趙在明幹事長が、高根町を訪問し交流された。

2000年8月18日には木造建築の図書館、郷土資料館と併設する浅川兄弟資料館が入る高根町生涯学習センターの起工式が行われた。事業にあたり日本林野庁の木材流通合理化整備特別対策事業の適用を受けたのは韓国の緑化と、環境保全など林業における浅川巧の功績を認めての事ではないだろうか。

2001年3月30日には抱川郡を高根町町長が表敬訪問され、31日には韓日合同70周忌追慕祭が忘憂里の浅川巧の墓前で挙行された。6月27日には朝鮮日報が景福宮内にあった朝鮮民族美術館を取り上げ、設立した浅川兄弟と柳宗悦を追悼した。そして八月には韓国国立中央博物館所蔵品「今月の美展」において「膳」を取り上げ、「朝鮮の膳」(1929)の研究著作者浅川巧を「純粋な個人の努力と業績は、歳月を超えて我々に静かな感動として押し寄せてくる。」と紹介している。日を追って韓国内での評価は高まり尊敬を受けていることがわかる。

こうした浅川兄弟を敬慕する韓日間の弛まぬ努力が実り、2001年8月25日第六回偲ぶ会が開かれ、完成した浅川伯教・巧兄弟資料館が披露された。

大柴町長は「高根町民憲章の理念に基づき、町民が広く交流の場として気軽に利用し、地域づくりの推進を図るため、生涯学習センターを建設しました。高根町出身で朝鮮に渡って朝鮮陶磁器の研究に生涯を捧げた兄伯教と、林業技術者として朝鮮の山野の緑化に尽くした弟巧が、現在の日韓交流に多大なる功績を、残した業績を後世に語り継ぐ浅川伯教・巧兄弟資料館と、町が有する地域固有の、伝統文化や歴史的遺産をも幅広く展示・閲覧可能な郷土資料館、さらに、図書館、視聴覚室等を備えた、本町における生涯学習・文化活動の拠点とすることを目的としています。」と挨拶された。

そして韓日相互の尽力と善意が実ったことに謝意を述べられた。短時間に高根町を上げて資料館設立を成し遂げた町民の理解と情熱、その英知を賞賛し快挙を喜ぶものである。

私は偲ぶ会の司会者から祝辞を述べるように指名を受けた。「昨日、親しくしている数人の高根町民とお会いしました。皆さん一様に浅川兄弟の事を知っておりました。

そして資料館が完成したことを、私達の誇りですと答えられました。思えば十数年前までは浅川兄弟のことを知っておられる町民はおりませんでした。誇らしく答えて下さった町民の方々の表情を見て、浅川兄弟が郷土の人々から理解され受け入れられたことで、私は嬉しくなった次第です。

ところが今年は教科書問題の為、韓国の対日感情が極度に悪化し、韓日友好交流が冷え込んでしまいました。静かに参拝し慰霊しなければならない靖国では戦場のように血が流れ、とても神社とは思われません。靖国問題は、もはや国内問題ではなく国際問題となっているのです。終戦後五十数年にもなる今日、歴史歪曲で今なお不信と葛藤の現実があること、問題の発端は殆んどが日本側にある事に、在日同胞として心を痛めております。

現在七十万人もの韓国、朝鮮人が日本に住んでおりますが、韓日関係が悪化するといつも在日の私達が、苦しみ受難を受けるのであります。在日の私達は韓日友好親善の架け橋となるよう心を砕いており皆さんと近く親しく生きておるのです。力を合わせて共生社会を築かねばならないのです。

私達は今日、完成した浅川兄弟の資料館が、民間交流による相互理解のメッセージを発信する拠点が出来たことを何よりも喜んでおり、感謝しておるのです。しかし誤った歴史認識の上ではお互いの国の理解なしで友好など有り得ないのです。

今まで村山前首相や小泉首相など政治指導者らが話された言葉や文字には、建前だけで心がこもっておらず、どうも想いが伝わって来ないのです。過去に目をつぶらず未来を築く必要があります。

先程、町長さんの挨拶の中で開館にあたり、資料蒐集したところ思いがけぬほど集まり、この度展示が全て出来ない。追って企画展などを開いて紹介ご披露したいと申されました。短期日で資料館が出来上がった事も喜びですが当初、資料がこんなに集まるとは誰が信じたでしょうか。

これは奇跡ではないでしょうか。いや現実なのです。と申しますのは浅川兄弟が韓国の人々を愛し、韓国の人々から愛された足跡を見て、このような帰結になったことは浅川兄弟の遺徳のおかげなのです。

浅川兄弟は言葉や文字だけでは伝わらない事柄を、韓国人に『以心伝心』心を以て心を伝えたからです。その心が今日お集まりの皆様や、在日の韓国朝鮮人や祖国の人々にも通じたからこそ、このような偉業を成し遂げることが出来たのだと思います。

私は今日、浅川兄弟から新たに『心を以て心を伝える』ことの大切さを学び、人生の糧と致します。『心を以て心を伝える』対話と交流を進め、未来の平和に貢献いたしましょう。本日、資料館の開館を祝し、浅川巧没後七十周年を追悼供養できましたことを幸いに思います。」

町の広報による資料館の案内を記す。

「高根町出身の浅川伯教は1913年に、弟巧は、1914年に朝鮮へ渡りました。

兄伯教は既にその伝統や技術が受け継がれず廃絶していた朝鮮陶磁に魅せられ、地道な実地調査を踏まえ、その歴史的な流れと価値を見出し、保存と伝承に力を尽くした人物です。

弟巧は、朝鮮での植林技術の研究で数々の成果をあげ、その仕事に生涯を捧げました。日常では朝鮮の暮らしに溶け込み、朝鮮の人と共に生き、朝鮮の民芸品の美を探求するなど、朝鮮の人の立場で朝鮮を捉えることの出来た数少ない日本人でした。

資料館では、二人の業績を紹介すると共に、二人の心の軌跡を辿りながら彼らの功績の本質部分を探っていきます。」

浅川兄弟に寄せる韓日両国の想いと善意が結晶した資料館を紹介する。浅川兄弟の親族、そして遺族、関係者から寄せられた、いまでは入手する事が難しくなった伯教の著書「李朝の陶磁」と「釜山窯と対州窯」、巧の「朝鮮の膳」と「朝鮮陶磁名考」等、浅川兄弟についての文献資料もほぼ全て収集し、展示している。

遺品では伯教が愛用していた「朝鮮の膳」の他、伯教作の茶碗、皿、書画などが並ぶ。先にソウル在住の金成鎮氏が永年守り、高根町に里帰りさせてくれた、浅川巧の貴重な日記も展示された。研究成果を生かし育てた苗の植え替えを行う姿、古陶磁窯跡を調査する浅川兄弟の姿がジオラマで再現され「朝鮮の美を愛し、朝鮮の緑化に努めた」二人の業績を知ることが出来る。

そして池順鐸を「父」と、巧を祖父と慕うソウルの鄭好蓮氏が寄付した七十三種、百十八点の陶磁器がある。祭礼器、食器、茶器、文房具、化粧容器、室内用具など、多種多様な陶磁器のコレクションは、韓国でもなかなか一度に見ることは出来ないものだ。

もう一つは、巧のかつての職場、現在の韓国林業研究員のOBたち(幹事長・趙在明氏)が寄贈してくれた朝鮮民族美術館旧蔵品の写真数十点である。これらは韓国でも紹介されていないものだ。私は伯教と交流があり韓国の古陶磁復元に大きな業績を挙げた池順鐸、柳海剛両氏の作品(『白磁の人』と呼ぶに相応しいシンボリテックな『白磁無地壺』と葡萄を名産とする山梨をイメージする『青磁陽刻葡萄文瓶』など)71点を寄贈した。180平方メートルの資料館であるが内容と質において全国に誇れる「朝鮮民族博物館」が出来上がった。

私は寄贈にあたり「条件といいますか、これら伝統工芸品を展示して、ただ観ていただくのではなく、浅川兄弟が残した功績を学び、日本と韓国の友好親善、交流に寄与貢献できますよう、情報発信の拠点であって欲しいと存じます。又、来館する人々に感動を与えることの出来る展示を心がけて欲しい存じます。」と申し入れた。

さらに私は開館された資料館の運営面について具申した。資料館は器(建物)や展示物の見せ物ではない。資料を基に開館に至るまでの歴史的背景、浅川兄弟のヒューマニズム、博愛の精神を広め、追慕する善意の韓日の人々の心と心の触れ合いを学芸研究し、その成果を世界に発信して欲しい。資料館を町内の小中高校や国内の学生達の、現場教室としての教育の場であって欲しい。

願わくば在日の学生や韓国の学生達との、交流の場となれば相互理解は一層、進むことであろう。一度資料館に入ると自虐的史観など芽生えない。心が安らぎ郷愁が甦る。優しくなっていく自己を取り戻すことだろう。生涯学習センターの名に相応しく、平和と信頼を築く学びの資料館であって欲しいと祈念している。敬愛する浅川兄弟は希望を与え永遠に私の心に生き続ける。

―種蒔く人—

第16回2011年度浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会が、兄弟の故郷である山梨県北杜市の高根ふれあい交流ホールで開催された。山梨県英和大学准教授李尚珍氏が「人と人をつなぐマウメダリ(心の橋)~浅川伯教・巧兄弟」という記念講演、続いて北杜市立甲稜(こうりょう)中学校2年生による「種蒔く人・浅川巧」の演劇公演が行われた。

公演にあたり脚本を渡された。―夏ありて夏を楽しみ、冬来れば冬を味わう―という副題の付いた本格的な脚本であった。

賛美歌「山路こえて・しずけき祈りの」のBGMが流れる中、「2011年3月、東北地方で大震災が起きました。その時いち早く救援隊を派遣してくれたのはお隣の国、韓国でした。続いて義援金や救援物資等、多くの温かい心をいただきました…」というナレーションで幕が開いた。

第一場「巧と市井の人々」、第二場「家庭にて」、第三場「姉の栄と兄伯教の回想」、第四場「京城の町」と演じられた。

「巧さんの仕事は種を蒔いて山を青くする仕事で、一粒の種を蒔き一本の木を生い立てた方がどんなに有益な仕事か知れない。巧さんは『種蒔く人』であった。巧さんの生涯は、カントが言った様に、人間の価値が実に人間にあり、それより多くでも少なくでもない事を実証した。」安倍能成の言葉に「しずけき祈りの」の賛美歌が重なって幕となった。地元中学生が韓国語を交えて演じる清新純たる演技に感動の涙が止まらなかった。

私の母校・秋田工業高校の先輩に関東大震災の時、デマによる朝鮮人大虐殺を痛烈に批判抗議した金子洋文というプロレタリア文学・劇作家がいた。金子は1921年雑誌「種蒔く人」第一号を発刊している。

以後その雑誌で特集主義を行ったエネルギーは、大正自由主義期の急進的な大衆実践運動として評価、更に関東大震災の真相報告、取締法反対、組合運動、プロレタリア文芸誌全盛への布石を先駆的になした人物である。

数年前に見た山梨県立美術館が所蔵しているミレーの「種蒔く人」は岩波書店の社標でもある。

山梨県のミレー作品購入時は物議を醸したが、その先見性は称賛される。これらの先駆性をおもいだしながら、この演劇を見ていた。この子等はきっと未来の韓日友好と親善を紡ぐ「種蒔く人」であり、浅川巧の精神を継ぎ託すべき若人達であると確信した。韓国でも青少年達が意識を共有し、先駆的な「種蒔く人」となり育って欲しいと思った。

―人は何の為に学び生きるのか―

北杜市の浅川伯教・巧兄弟資料館にて「浅川巧生誕120周年記念朝鮮の土になった日本人浅川巧からのメッセージ~自然法に帰せ~講座『祖父小宮山清三を語る』」があった。講師は浅川兄弟に朝鮮美術、柳宗悦に「木喰」を伝えた小宮山清三(1880~1933年)の孫にあたる小宮山要氏であった。

「小宮山清三と浅川兄弟は甲府メゾジスト協会の同じ会員であり彫刻に興味のあった伯教と絵画を学んだ清三は気が通じ合った仲であった。小宮山家にあった高麗青磁や李朝白磁との出逢いが浅川兄弟の朝鮮行に影響し、清三が手助けしたと考えられる。

清三の業績は木喰『微笑仏』を世に出した事であろう。浅川巧が柳宗悦を誘って小宮山家を訪ね、清三が所蔵する朝鮮の青磁、白磁や木喰に魅せられた柳宗悦や式場隆三郎の学会での後の活躍に物心両面の力となった。

大正2(1913)年、巧22歳、朝鮮への旅立ちの年である。その時、清三33歳、伯教29歳、宗悦24歳、大正の青年群像は凛として香らんばかりの青春譜。それぞれの人生の出発の年であった。それから100年、今尚、彼らの生き様や業績が光り輝いて私達に感動を与え、私達を揺り動かしているのは何故か。

体制に屈せず、正義感と勇気を持ち青年としての『真実』を求める気概が彼らにあったからだ。これは青磁、白磁が結んだ人間力なのだろう。」と小宮山要氏は結んだ。

講話中、関心を引いた話があった。私の郷里である秋田県大曲の仙北劇場での近代消防組織の為の講演会の様子である。

超満員の劇場、舞台上まで聴衆が円座になって囲み近代「消防の父」である清三の講演を聞き入っている熱気は、今では見られぬ情景である。全国的に政治、経済、文化の面でリーダーシップを発揮している大正デモクラシーを彷彿させる清三、大正2(1913)年の写真である。

人は何の為に生まれ生きるのか。人は何の為に学ぶのか。この命題を持って語られた現代的な意味と意義を問いかける講座であった。

―「人」を作るのが第一の道理―

韓国、日本の中学校教科書に唯一紹介されている日本人・浅川巧。何故か両国民に広く知られていない人物である。日韓両国での功績に反して、知名度が低く残念であると常々思っている。

しかし浅川兄弟の生き様を通して、その功績を学ぶ事が出来る。今日を生きる普遍的な教えがあり、韓日の人々が共に学ぶべきものがあると常々、思って来た。

2015年10月17日、かねてより念願していた韓国での「清里銀河塾世界市民学校」が財団法人秀林文化財団の事業の一つとして開校される事となった。

先ずは財団法人秀林文化財団創立者の故・金煕秀先生の人となりを語らなければならない。

金先生は無知により国を失った歴史から亡国の恨、貧困の恨、無学の恨を抱いたという。虐げられ、差別され、人権侵害を受けた国と民の行く末を憂い、学んで生きるのだという志を抱いた人物である。

金先生は「この世の中を照らす輝かしい灯りになれなくとも、暗い片隅を照らす人になれ。最善を尽くして努力すれば、その様な火種が集まり我ら民族の輝きになる」教育には平和が必要であり、平和な社会を作り出すことの大切さと教育の重要さを説いた。

金先生は「ノーベル賞を受賞する人材を輩出したい」という夢を見て、教育にこそ未来があると教育事業への道を歩まれた。意図的な目的の無い魂を持って事業を展開した。私の生き方とも共鳴する至論を残された。

家族にも多くを語る人ではなく、時には無言の怖さを感じる事もあった。だが厳しさだけが、金先生の本質ではない。権威を振りかざすのを嫌った方だ。

身も心も傷つき何度も心折られた事もあったという。様々な障壁があったが圧力に屈せず、己の衿持と向かい合い、茨の道を進んだ。その過程において敵が出来る事も当然で、疲れると語られた事もあった。

柔和な人柄と辛抱強さが際立つ。「世界は広く大きい。子供らを育てる中で子供からも学ぶのだ。子供達を楽しませよう。一緒に良い夢を見よう」と仰られた。

「人」を作るのが第一の道理である。楽しむ心を持って教育の力により韓国の再生を期した夢を描いた。未来を背負う若者達の役に立てばという、その意志はどこまでも自分の為ではなく誰かの為にといった想いで貫かれている。

未来を見定め前を向いて、時代を先取りして進むべき大局を示す大志を持っていた。それを嘯くような人ではなかった。

―無償の心―

闘争と忽耐の人であったが、融和の精神はネルソン・マンデラにも通じるものがあった。「困難により挫折することもあれば、困難により成長する人もいる。挑戦を続け、最後の瞬間まで希望という武器を振りかざして差別と闘う魂は、どんな鋭い刀でも切り裂く事は出来ない。

正義とは格好良い物ではない。正義は自分が傷つく事を覚悟しなければ貫く事は出来ない」と仰った。

また正木ひろしの言葉も心に置いていた。「分かち合う事によって物惜しみに打ち勝て。善い事によって悪い事に打ち勝て。怒らない事によって怒りに打ち勝て」小柄な体で私利私欲のない無償の心で、教育の地平を切り拓き人生を捧げた人としての器は、とてつもなく大きい。

取り巻く状況や現実は厳しく、混乱の歴史の中で虐げられては来たが、贅沢の世界には生きられない愛や誠実さを実践した。自主性を重んじ、自由を求める正しい知識と知恵を伸ばす事で、子供達の未来に将来がある。人として生きる知恵を学び、教育を受ける事で幸せになるのだという教育者としての信念が脈打っている。

金先生が眠る多磨霊園の墓石が証明する。個人は自分の為には一銭も残さない。死後に広い墓の土地を求める事も贅沢であると言った。

名誉を求める事も自己顕示欲も持たず、ノブレス・ブリージュ(品高ければ徳高かるべし)の精神に基づく孤高の墓石である。

―浅川学への信念―

開校にあたり、2006年に初めて清里で塾が開催され、2015年の第12回目開催に至った経緯の一端を述べる。

1991年山梨県北杜市に浅川伯教・巧兄弟資料館が建立されるにあたり1990年、市(旧高根町)から作品や資料の寄贈要請があった。

私のコレクションであった韓国人間国宝である、柳海剛や池順鐸の青磁・白磁を含む、韓国民芸品など67点を寄贈した。

その折、資料館は寄贈作品を展示するだけで終わらぬ事業にしてほしい。寄贈品を活用して博物館的な役目を果たす研究機関でなければならない。様々な分野の先駆者を育ててきた山梨の風土や歴史、文化を学ぶ「浅川学」の学術研究成果を社会に還元して欲しい。

市民教育、特に次世代を育成する青少年教育プログラムを作成し、日韓の相互理解と友好親善交流を促進して、国際親善に寄与せねばならないと具申した。

日韓の相互不信を解くには、人と人との生身の触れ合いと心の交流に尽きるとの信念からである。

その後に私が出来る事と役立つ事は何かと考え続け、行き着いた想いは私塾清里銀河塾の創設であった。この10年間、暗中模索と紆余曲折して来た。

北杜市を始めとする多くの理解者の協力を頂いた事で、一歩一歩積み重ね継続して来た。私の想いがこの度、韓国に届いた事は幸いなる喜びである。

在日一世であった金先生が、一生を捧げられた青少年教育への情熱の灯を守り、人間の価値そして人格を高める「浅川学」を通して、学ぶ事の意味と意義を共有したい一念からの清里銀河塾世界市民学校の開校である。

―気の流れ―

初めて八ヶ岳山麓の清里の地に降りた私は、その雄大な大気から神秘を感じ身震いをした。それが清里との関わりの始まりであった。

私塾・清里銀河塾での挨拶はいつも、この偉大なる自然の気から学ぶものがあると語っている。その拘りは、清里に降り立った時の感動とインスピレーションが今も鮮烈に生きており、持続しているからだ。

私の号は「東江」である。ヒマラヤに降った雪や雨が川(水)になって流れ大きな河となる。その河が江となり海に流れ込む。その海流は東の国日本に流れ行き、その流れは気流となり空で浄化される。悠久に繰り返される自然の摂理は、ヒマラヤに再び降り注ぎ循環する。

高校卒業の時の寄せ書きに「大河の如く」生きると書き残した。宇宙の摂理に生きる私の哲学を表したものだ。日本東の国の大きな河=江になろうという在日の気概からである。

私は父母の故郷である霊岩の王仁博士の祠堂(王仁博士遺跡趾は全羅南道記念物第20号)に立って、西に広がる雄大な空を仰ぐ。ある時はゆったりと、またある時は大陸から寄せ流れて来る雄大な雲の動きに見とれる。この大気の流れの先に私が生まれ生きる日本列島がある事に感慨を催す。

桜の季節は、私が住む川口市にある氏神様の境内に桜がほころぶ時期と、王仁廟の桜並木と同時期である事から、春は日本と韓国という距離を忘れ一衣帯水である事をしみじみ確認する。

また霊岩の国立公園月出山は気の山と呼ばれている。ヒマラヤからの気流がゴビ砂漠、朝鮮半島を南下して月出山に流れ込むという。霊岩の人は、その気を強く受けているとよく言われる。私にも、その気が流れているのだと思うのが自然ではないかと思っている。

―果敢なフロンティア精神―

「清里でどこか遊びに行く所はありますか」と宿の主人に尋ねたところ、「清泉寮に行ってみたら」と教えられた。

そこで私は思いがけず偉大な人物を知る事となった。ポール・ラッシュ(1897年~1979年)。1923年の関東大震災で破壊された東京と横浜のYMCAの再建の為に来日(1925年28歳)したインディアナ州生まれケンタッキー州育ちの宣教師であった。

「イエスは病める人々を慰め癒したではないか。飢えている人々に食を与えたではないか。イエスはしばしば人を集め、有益な話し合いの時を持ったではないか。幼子を集めて祝福し、働く希望を与えたではないか。」と、1948年ポール・ラッシュは、農村伝導及び農村への奉仕の実践的キリスト教の思想で、清里の教育実験計画、そして戦後日本の民主的な農山村復興頬デルを作る事と、実践的な青少年教育を目的とする「キープ」を創設した。

病院・農場・農業学校・保育園・清泉寮を建設し、食糧.保健.信仰・青年への希望の4つの理想を掲げ、清里を民主主義に基づく日本再生の拠点とした。

清里の発展の基礎を築いたのがポール・ラッシュである。「清里の父」「フットボールの父」として敬愛されている彼のフロンティアスピリット(開拓精神)抜きにして、清里を語る事は出来ない。

崇高なボランティア精神と果敢なフロンティア精神。「日本とアメリカは良い友人になれる。」と、国境と民族を超えた無私の奉仕と博愛・人道主義思想。日本の敵国であった異郷人が戦前・戦後を通して日本で奉仕を実践している遠大な人類愛のロマン。彼の「最善を尽くせ、しかも一流であれ」という言葉と共に、キリスト教の教えに対して関心と感化を受けた。

―ポール・ラッシュとの出会い―

私は一人清泉寮を訪ねた。そして応接室があるホールに入るとマントルピースのソファーで、小柄な白人が一人物思いに耽っていた。頬や鼻が赤く染まってテカテカと輝いていた。私が入って来た事に気づき立ち上がると「どうぞお座り下さい」と声を掛けてくれた。この人こそポール・ラッシュ博士その人であった。日本語はそれほど流暢ではなかったが会話は進んだ。

「どうしてここへ。どこからおいでになりましたか。」

「マントルピースの上に掲げてある絵に惹かれて入りました。」

「須田寿(1906年~2005年・立軌会創立会員)の作品名「牛を売る人」の絵です。私が日本に初めてジャージ種をアメリカから持ってきて、この清里で実験的に飼育した牛をモチーフにした絵です。この絵は2年前、清泉寮完成祝いに作家から贈られたものです。」

「私は須田寿のザクロの絵がとても好きで画集を持っています。」

「その画集を、一度見たいものですね。」

絵が取り持つ縁で、二人きりで1時間は会話を交わしたろうか。

「ここまで来るには大変なご苦労があったでしょう。」と問いかけた私の言葉にポール・ラッシュの顔が瞬間曇った。

「自分の理想とロマンとのギャップに苦しみました。地元の人々から理解が得られなかった事でも悩みました。実は今も、その事で考え込んでいたところでした。」

異郷の地で、異邦人として奉仕する事が容易い事とは思わない。ポール・ラッシュの孤独と寂しさを見つめる姿に、在日韓国人の私には共感として響いた。

1979年、ポール・ラッシュは清里に大きな光を残して、日本の人々に惜しまれながら旅立って行った。3度の出会いはあったが、須田寿の画集を見せる事もついに出来なかったことが惜しまれる。

―浅川兄弟の足跡―

浅川巧の生地、旧甲村(現北杜市)は南は富士山、東に秩父、西に南アルプス、北に八ヶ岳連峰を臨む標高724メートルの山村である。

父・小尾如作(後に浅川家の養子となる)は巧が生まれる半年前に亡くなった。祖父小尾伝右衛門(俳名・蕪庵四友)より芭蕉の伝統をくむ俳譜や漢字、陶器作りを教えられ育てられた。

兄・伯教は地元の小学校を経て山梨師範学校に進み、卒業後に同師範学校付属小学校で教鞭を執る。巧は山梨県立農林学校に入学し、卒業後1909年秋田県大館営林署に赴任。国有林の伐採や植林に従事していた。兄弟は学生時代にメジスト教会に入信し、終生熱心なキリスト教徒として過ごした。

伯教は1913年朝鮮の美術に惹かれて清里の家屋敷、田畑を整理して朝鮮に渡り、ソウルの南大門公立小学校の訓導として勤める。

巧は兄を慕って1914年朝鮮に渡る。朝鮮総督府の雇員となり、養苗実験や造林の仕事に就き「朝鮮から松」の養苗に成功する。巧は朝鮮語を学び、好んで朝鮮人の生活に溶け込み、1916年には韮崎出身のみつえと結婚、長女園絵を設けるが、みつえは1921年に亡くなる。

伯教は李王家の美術館に足繁く通い李朝陶磁器の美と出会う。1915年我孫子の柳宗悦を兄弟で訪ねた事が柳の朝鮮行きに繋がり、巧と柳は終生の友となる。

巧の朝鮮美術の開眼により、柳は民藝だけでなく、巧と、朝鮮人の関係の在り様から、日本人と朝鮮人との在り様にも開眼したと言える。二人は朝鮮民族美術館の設立計画の具現化と同時に、朝鮮の窯跡をつぶさに調査して採集した陶片を美術館に収蔵し、伯教は「李朝陶磁窯跡一覧表」を表した。

巧は1922年農林技手に昇進し、住まいを清涼里に構えた。養苗の講習、林木種子の採集で各地を歩き、朝鮮の禿山の植栽には萩が適していると緑化に貢献する。

巧は朝鮮の美術、工芸、林業に関する多くの論文を遺した。収集した「朝鮮の膳」は朝鮮民族美術館に収蔵され、その著書は価値あるもので、また朝鮮の棚とタンス類、茶碗、漬物などの多岐に渡る韓国での論文は今も色槌せぬ貴重なものだ。

―韓国の土となる―

巧は42歳の若さで急性肺炎のために亡くなった。その死は韓国の人からも惜しまれた。ソウルの郊外九里市の忘憂里に「功徳之墓」と兄伯教がデザインした白磁の供養塔が建立されている。傍らの顕彰碑には「韓国を愛し、韓国の山と民芸に身を捧げた日本人、ここに韓国の土になれり」と刻まれている。

巧が生きた時代の植民地朝鮮を考える時、優位にあった日本人が朝鮮人に愛されるという事は、稀である。孤独とわびしさの中で植民朝鮮人のためにヒューマニズムに生き、道義と正義に生きた証がこの墓にある。巧の慎み深く、朝鮮に優しかった宗教心をも超越した人間性豊かな心情がうかがえる。

時代と環境は違えども、ポール・ラッシュや浅川巧の境涯について思う時、在日という異郷にいるものとして共感し、私は学ぶ事が多い。

―「人間の価値」―

カント学者でリベラリストであった安倍能成は、その著「青丘雑記」(1932年 岩波書店)の中に「浅川巧さんを惜しむ」を書いたが、これが1934年、中等学校教科書に「国語六」そして槿域抄(1947年)に「人間の価値」と題して収録され、世の人々に知られる事となった。

高校時代に秋田で読んだ、その一文が浅川巧との出会いとなり、清里ライフの基になった。

「巧さんのやうな正しい、義務を重んずる、人を畏れずして神のみを畏れた独立自由な、官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間だけの力によって露堂堂(禅語、何一つかくすことなく堂々とあらわれるさま)と生きぬいていった。かういう人はよい人といふばかりでなくえらい人である。人間の生活を頼もしくする。人類にとって人間の道を正しく勇敢に踏んだ人の損失ぐらい、本当の損失はない。」安倍能成をしてかく言わしめた浅川巧は、私の心に普遍の価値として生きている。

「“俺は神様に金はためませんと誓った。”と言はれたそうである。一種の宗教的安心を得て其自身の為になされてその他の目的の為に、報酬の為になされることを極度に忌まれた様に思ふ。道徳的純潔から来たものであろう。」

弱者を見過ごせない清貧の人、右手で行った善行を左手に知らしめない行事は常に朝鮮の人々の心にとけこもうとする彼の人格がさせたことだ。

「好悪な者、無能な者、怠惰な者、下劣な者の多くははるかに高禄を食み、長を享楽しているが、巧さんのごときは微禄でも卑官でもその人によってその職を尊くする力ある人である。巧さんがこの位置にあってその人間力の尊さと強さとを存分に発揮し得たといふことは、人間の価値の商品化される当世に於て、如何に心強いことであろう。私は巧さんの為にも世の為にも寧ろこの事を喜びたい。」

「巧さんの仕事が、種を蒔いて朝鮮の山を青くする仕事で、一粒の種を蒔き一本の木を生ひ立てた方がどんなに有益な仕事か知れない。巧さんは「種蒔く人」であった。」 

「朝鮮人の生活に親しみ、文化を研究し、大正十二年来、柳宗悦君や伯教(のりたか)君と協力して朝鮮民芸美術館を設けた巧さんの態度は実に無私であった。内地人が朝鮮人を愛することは、内地人を愛するより一層困難である。感傷的な人道主義者も抽象的な自由主義者も、この実際問題の前には直ぐに落第してしまふ。」

「巧さんの生涯はカントのいった様に、人間の価値が実に人間にあり、それより多くでも少なくでもないことを実証した。私は心から人間浅川巧の前に頭を下げる。」

私は人を惜しむ文でこれほど痛切に真情を吐露した言葉を他に知らない。この文章が、戦後になってなぜ教科書から消えてしまったのか。政治や経済が変われば、「人間の価値」そのものまで変わっていくとでもいうのだろうか。価値は変わらないのだが人間が変わり、世の中の都合で変わっただけではないかと思われるがどうであろうか。

私は、どんな時代でも「人間の価値」は変わるものではないと思い、今日まで浅川巧を慕い続けて在日を生きてきた。

―何を学ぶのか―

私は20代から清里の地で余暇を過ごすようになり、この地域、風土に育まれ人生を送ってきた。この大地に私が憧れ、尊敬する学ぶべき偉人との出会いがが関係していたからだ。

植民地下、韓国に渡り、韓国人の敬愛を受けた淺川伯教.巧兄弟。戦前、戦後の日米間の激動期を変わらぬ友愛と青少年教育に一身を捧げたポール・ラッシュ。そして在日一世金熙秀の歩みから激励の韓国と日本の狭間の中で在日のアイデンティティの学びを得たからだ。

この世に人間愛の教えを施された、この先賢達は在日として生きる憧れの師であり、指標であり、シンボルであった。社会奉仕の道を切り拓き歩まれた先賢の足跡は、日本の風土に息づき輝いているからだ。日本の風土、韓国の風土、アメリカの風土を重ねて見えてくるものが、在日にはあると思われる。

人を形成するものは「人の真実」であると思う。「人の真実」が誇り高く、求道的であれば風土、人も準じる。しかし人心乱れ、荒廃に任せれば風土、人も堕するのではないだろうか。八ヶ岳の山麓、清里の地域風土の中から生まれた精神、浅川兄弟、ポール・ラッシュ、金熙秀の生き方から学ぶ事の意義と意味を私は見つけたいと思うようになったのだ。

私塾・清里銀河塾で何を学ぶのか。学ぶ意味、学ぶ楽しみは生きることそのものであるから、その基本となる「生涯学習」について考えてみたい。

一般人(住民)は自分の為、地域発展貢献のための勉強をしていこう。職業人は職業意識のレベル向上の為に勉強していこう。生涯健康を保ち、元気に生きていく為に、世代を越え、心と体を養うための勉強をしていこう。好奇心を持って自分を磨きたい、生涯成長していきたい、頑張る自分でありたいという学びの本能と好奇心は誰にでもあると思う。

学び成熟する事で本物の自分を確認し、自分の尊厳を見つける事に繋げよう。自分自身を慈しみ大切して、そこから相手を認める人間関係を作り、人を愛する。そんな人たちが創る成熟した聡明な社会を創っていこう。

学びあい、助け合い、共に生き、互いを高め合い自己研鎖を積んでいきたい。多様な価値観の中で、自ら学び共に学ぶということは、自己が決定することであり、生涯学習はつまり自己教育なのである。学びを楽しむ文化を創造していきたい。

―年輪を重ねた感慨―

20世紀の過半を生き抜いた者としては、2021年の年頭にあたり年輪を重ねた感慨を抱く。20世紀の我々の民族史、韓日史は苦痛と挫折、我々の希願と、理想に程遠いものであったからだ。

去りし歴史と時代に深い哀惜の念もあるが、歩む21世紀の未来に新たなる希望を抱く喜びは形容し難いものがある。いつも多事多難であったが、いつも希望を失わなかった。希望を抱いて理想社会の具現の為に生きてきたという矜持を失わなかった。20世紀の歴史をしみじみと振り返り過去の不幸を乗り超える為には必須の条件である。

我々は日本に永住する市民である。日本社会で尊敬される模範的市民となり「共栄、共存」の姿勢で参与し、寄与貢献する。日韓、日朝間の友好親善に務め、世の為、人の為に尽くしてこそ在日の存在意義がある。

我々は良き兄弟である。争わず信じ合う良きパートナーとして、人格と品格を備えた在日コリアン、世界人にならねばならない。

私達は自省して良い心、広い心、同じ心を通い合わせ心して未来の子らの為、世界の為に寄与貢献する世界の民とならなければならない。

私は初々しい心をもって自らを律し、幸せの予感に満ちている2021年を迎えた。

2020年は新型コロナウイルスによる大災禍で1年が過ぎて行った。明けた新年は、どんな1年になるか誰にも推し量ることが出来ない。

―浅川巧生誕130年没後90周年―

2021年は浅川巧(1891年-1931年)の生誕130年、没後90周年記念の年である。1997年11月27日没後66年忌浅川巧公韓日(日韓)合同追慕祭が初めてソウルで開催された。韓国京畿道九里市にあるソウル市立忘憂里墓地の参拝を終えた後、ソウルのロッテホテルにて追慕祭が催された。その席で私は在日同胞を代表して追悼の辞を述べたことが昨日のことのように思われる。

「本日、浅川巧の追慕の言葉を述べるにあたり、感慨深いものがあります。私は、在日二世であります。日本での戦前戦後の生活は、父母は無論のこと多くの在日同胞は言葉では言い尽せぬ辛苦の歴史でありました。その苦痛は日本と韓国、そして北韓との狭間の中で現在も同じであります。

私は、在日で生きる為の哲学を教えられましたのが、浅川巧の生き方でありました。今から40年前のこと、秋田での高校時代に浅川巧を知ったからであります。それは 「人間の価値」の一文でありました。浅川巧の業績は多くありますが、私にとっての感銘は、その生きる姿、考え方であり、日々の行い、営みであります。浅川巧は、韓国の山河や歴史と文化を大きく深いところで見つめていたと思います。国や民族を乗り越えた「共生」を考えていた人でありました。

縁あって、私の在日生活は59年に入りました。その間、時代は物質文明のみ目覚ましく進みましたが、心の病は深く荒んで嘆かわしい限りです。私達は不幸であった時代を乗り越え、21世紀に向けて誠心を込めて友好親善を培い、兄弟であることを忘れてはならないと浅川巧は語りかけておるのです。

私達は、浅川巧の偉大さと心の深さを学び、継承するため今日集い追慕いたしました。「人間の価値」すなわち人格こそ普遍の価値あるものと教えられました。私は、韓国と日本という二つの祖国故郷を愛し寄与して、共に生きることを誓って追慕の言葉と致します。」

追慕祭以来、韓日(日韓)の人々に浅川巧の生の存在が認識されたことは、大きな喜びであった。

浅川巧の生地山梨県北杜市では彼の偉業を顕彰する為に2001年、浅川兄弟資料館を建立した。そして2005年には映画「道・白磁の人」の製作委員会が設立され2012年完成上映に至った。

私は2006年より彼の精神を学ぶ私塾・清里銀河塾を開いて啓蒙活動を行い、共に学んできた。

―浅川伯教・巧兄弟顕彰碑建立―

私は2006年より私塾清里銀河塾を18回開催し、これまで学んだ塾生は1000人を超えている。

共に学んで善き追憶を辿り、先人の徳を慕い回顧する事は、相互理解が深まり国際親善の糧となる意義がある。

韓国では韓国人に墓は守られ、地元山梨県北杜市でも顕彰され、両国から愛されている人物でありながら、顕彰碑が建立されていない事を長年淋しく思っていた。2021年は私が敬愛する浅川巧の生誕130周年没後90周年記念の年に当たる。

ポール・ラッシュ博士は「清里の父」と呼ばれ、顕彰碑も建って敬われ、聖壇に祀られて久しい。

私は浅川兄弟もいつの日にか、聖壇に祀られる人物であると1997年の浅川兄弟を偲ぶ会総会で講演をした事がある。それ以来、いつの日にか石に刻みブロンズ像を配し北杜市に顕彰碑を贈ろうと20数年間、構想を温めていた。

私は2021年6月13日、浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会結成25周年を記念して、“捧ぐ 敬愛と感謝を込めて”私の座右である「露堂堂」の碑文を添え、兄弟のブロンズレリーフの顕彰碑を生誕地に建立するに至った。2019年11月、北杜市市民栄誉賞を受けた報恩と63年来の夢が叶うことになった良縁に感謝してである。

碑のデザインは五重塔をイメージする五層(五段)。碑石は上野公園の王仁博士碑に倣って下層四段は国産の稲田石を割り肌仕上げ。上層は韓国産谷城石を本磨きにして、彫刻家・張山裕史氏の作である浅川兄弟レリーフを配した。碑文は甲府市の書家・峡山植松永雄氏の揮毫による書「露堂堂」である。

安部能成著『青丘雑記』 「浅川巧さんを惜しむ」の文中にある「その人間の力だけで露堂堂と生き抜いて行った」から顕彰文に採用し、刻むこととなった。

私は、これまで馬齢を重ね歩んで来たが、情を以って浅川巧を偲び生きた。「露堂堂」と生きた浅川巧を敬愛し感謝を込めた顕彰碑を贈る。コロナウイルスの厄災を祓う意義ある記念の年にしたいと願っている。