第19回私塾・清里銀河塾
第40回日韓記者・市民セミナー講演「浅川伯教・巧兄弟への敬愛と感謝」

講師:河正雄 2022年11月4日 水道橋・YMCAにて

第40回日韓記者・市民セミナー「浅川伯教・巧兄弟への敬愛と感謝」

―故郷の意味―

ある有名なふるさと論です。

「生まれたところで生き、死ぬる人は幸せな人である。

生まれたところで生きられず、移り住んだところをふるさとに生きる人は、その地を愛する幸せな人である。

移り住んだところで生きられず、渡り歩いて生きる人は、その全てをふるさとにする幸せな人である。」という言葉です。

小林秀雄(文芸評論家)の文に、東京生まれである為に故郷がない、というような表現がある。

小林が言うふるさとは、生誕地という意味だけではない。そこでの情緒や自然、人間関係、風俗や文化、家族や先祖達が眠る土地などを含めているようだ。

高齢期を迎えた私にふるさとはあるのだろうか、としばしば思うことがある。20歳まで青春期を暮らした秋田、そこで出会った友人達との交流を通じて過ごした時間は確かであるが、それだけでふるさとと言えるのだろうかと自問する。

秋田に帰って友と歓談し、その一瞬が過ぎれば、どこか余所余所しい風貌を見せ、友が遠くにいるような感覚を覚える。

子供時代、会いたいと思えば会いに行くといった時代が奇跡的なように思える。時間の経過が恐ろしい程の距離を感じさせる。

思えば、それは表面的な関係であり、親友と呼べるような関係ではなかったのだとも言える。

列車から降り、故郷の駅の改札口を通る時、懐かしさより見知らぬ場所に来たような戸惑いと不安に駆られる。

ふるさとというのは生まれ故郷でなくとも折々に出掛け、知人友人、恩師、山河に触れ、魂の交流を積み重ねていかなければ、見知らぬ場所になってしまうようだ。

そこに定着し、そこに家族を形成し、地域の人々と繋がるような人間関係を新たに築き上げ、共に生きて喜びと悲しみを分かち合うこと、それこそがふるさとの意味ではないかと痛切に思う最近である。。

―故郷はありがたきもの―

私が生きた在日83年間には日中戦争、第2次世界大戦、終戦による朝鮮解放後の朝鮮半島に於ける南北戦争、オイルショック、バブル崩壊、東日本大震災、新型コロナウイルス禍、ウクライナ軍事侵攻等々、暇ない社会変事と自然災禍があった。

人生とはこういうものだと平常心を保ち、これらの変事を潜り抜け生きることが出来たのは、幸いである。

私を育み血と肉を作った故郷は、生誕地の布施森河内(現東大阪市)より、生後移住した秋田県の生保内(現仙北市)。2歳から4歳まで一時住んだ、父母の故郷である韓国全羅南道霊岩。秋田工業高校卒業後に、埼玉県川口市を故郷にして63年になる。

もう一つ大事な故郷がある。21歳の時にふらりと降り立った、浅川巧のふるさと清里(山梨県北杜市)である。

カント学者でリベラリストであった安倍能成著「青丘雑記」(1932年、岩波書店)の中に「浅川巧さんを惜しむ」の文がある。浅川巧さんは「露堂堂」と生きた人であると書かれていた。1934年、中等学校教科書「国語 六」に『人間の価値』と題して収録され、世の人々に知られる人物である。

私は秋田工業高校3年(1958年)の時秋田県立図書館で「青丘雑記」を読み記憶に止めたことが、浅川巧との出会いであり、その後の清里ライフの基になった。

植民地支配下にあった、朝鮮に生きて朝鮮の人々から愛された稀有の日本人である。巧の生涯は「人間の価値」が実に人間にあり、それより多くでも少なくでもないことを、その生が示した国際人である。

在日で生きる哲学を教えられたのが、浅川巧の生き方である。それは 「人間の価値」の一文からである。浅川巧の業績は多くあるが、私の感銘は、その生きる姿、考え方であり、日々の行い、営みである。

浅川巧は、韓国の山河や歴史と文化を、大きく深いところで見つめていた。国や民族を乗り越えた「共生」を考えていた人であった。

私の在日生活は83年になる。その間、時代は物質文明のみ目覚ましく進み格差社会となった。人々の心の病は深く荒んで嘆かわしい。私達は不幸であった時代を乗り越え、21世紀に甦り誠心を込めて友好親善を培い、兄弟であることを忘れてはならないと、浅川巧は語りかけているようだ。

私は在日の生を巧のように「露堂堂」と生きたいと念じた。巧のふるさと清里にも住まいを持って生きた60余年、故郷はありがたきものである。

―清里紀行― 

忘れもせぬ1961年5月5日のこと。ちょうど私が21歳だったときの話である。初夏の新宿御苑で楽しんだ後、新宿駅から中央線に乗った。小淵沢駅でSLを見つけ、急に乗りたくなってホームを降りた。小梅線で小諸まで行く列車だと言う。 

シュッシュッポッポ・シュッシュッポッポと喘ぐ様に山麓を進んで行く。後にした南アルプスの山塊、前に現れる八ヶ岳の山容、実に見事な風格を備えた3000メートル級の峰々に、私の胸は高鳴った。 

「清里」という駅に到着した。「清き里」、なんとロマンチックな駅名であろう。私は急いで列車から降りた。降りた途端、身を刺す様な冷気に震え上がった。そこは標高1275メートルの高原の駅。目の前に黒々とした山岳が迫っていた。八ヶ岳の主峰赤岳であった。私は何のあてもなく清里駅に降り立ったのだった。 

牛小屋のような駅舎に、降りたったのは私一人。何ともいえぬ寂蓼感の漂う旅情を噛み締めた。 

山の夕暮れは早い。夕日に染まった八ヶ岳の凛々しさ。遠く南に富士山が望め、雄大な山岳美に息を呑んだ。 

駅近くの旅館に泊り、翌朝駅前を散歩した。ここが山梨県の清里村である事が判った。歩いていると、いやに「浅川」「あさかわ」という看板や標札が目に入る。もしかしたらここは浅川巧の故郷ではなかろうかと私の胸は踊った。 

私は「浅川巧を知りませんか」と一軒一軒尋ね歩いた。だが、誰一人答えてくれる人はいなかった。「さあ、そんな人の事は聞いた事もありません。」というつれない返事が返ってくるばかりであった。 

これは私の記憶違いであったのだと早合点した事が、浅川巧と清里との接点を見出す事が遅れた理由になるのだが、その時の私には気づくべきもなかった。 

―ポール・ラッシュ博士との出会い―

「清里でどこか遊びに行く所はありますか」と宿の主人に尋ねたところ、「清泉寮に行ってみたら」と教えられた。

そこで私は思いがけず偉大な人物と出会った。ポール・ラッシュ(1897年~1979年)博士である。1923年の関東大震災で破壊された東京と横浜のYMCAの再建の為に来日(1925年28歳)したインディアナ州生まれケンタッキー州育ちの宣教師であった。

「イエスは病める人々を慰め癒したではないか。飢えている人々に食を与えたではないか。イエスはしばしば人を集め、有益な話し合いの時を持ったではないか。幼子を集めて祝福し、働く希望を与えたではないか。」とポール・ラッシュは1948年、農村伝導及び農村への奉仕を実践的キリスト教の思想で、清里での教育実験計画、そして戦後日本の民主的農山村復興モデルを作り、実践的青少年教育を目的とする「キープ」を創設した。

病院・農場・農業学校・保育園・清泉寮を建設し、食糧.保健.信仰・青年への希望の4つの理想を掲げ、清里を民主主義に基づく戦後日本再生の拠点とした。

清里の発展の基礎を築いたのがポール・ラッシュであり、「清里の父」「フットボールの父」として敬愛されている。彼のフロンティアスピリット(開拓精神)抜きにして、清里を語る事は出来ない。

崇高なボランティア精神と果敢なフロンティア精神。「日本とアメリカは良い友人になれる。」と、国境と民族を超えた無私の奉仕と博愛・人道主義思想。異郷人が、ましていわんや、日本の敵国であるアメリカ人が戦前・戦後を通して日本での奉仕を実践している遠大な人類愛のロマン。

彼の「最善を尽くせ、しかも一流であれ」という言葉と共に、キリスト教の教えに対して関心と感化を受けた。私は清里に降り立った事を至福と思った。

翌5月6日、私は一人清泉寮を訪ねた。そして応接室のようなホールに入ると、マントルピース前に置かれたソファーで、小柄な白人が一人物思いに耽っていた。頬や鼻がほんのりとピンク色に染まって艶っぽく輝いていた。

私が入って来た事に気づき立ち上がると「どうぞお座り下さい」と声を掛けてくれた。この人こそポール・ラッシュ博士その人であった。日本語はそれほど流暢ではなかったが私は片言の英語を交えての会話は進んだ。

「どうしてここへ。どこからおいでになりましたか。」

「マントルピースの上に掲げてある絵に惹かれて入りました。」

「須田寿(1906年~2005年・立軌会創立会員)の「牛を売る人」の絵です。私が日本に初めてジャージ種をアメリカから持ってきて、この清里で実験的に飼育した牛をモチーフにした絵です。この絵は清泉寮完成祝いに作家から贈られたものです。」

「私は須田寿のザクロの絵がとても好きで画集を持っています。」

「その画集を、一度見たいものですね。」

絵が取り持つ縁で、二人きりで1時間は会話を交わしたろうか。

「ここまで来るには大変なご苦労があったでしょう。」と問いかけた私の言葉に、ポール・ラッシュの顔が瞬間曇った。

「自分の理想とロマンとのギャップに苦しみました。地元の人々から理解が得られなかった事でも悩みました。実は今も、その事で考え込んでいたところでした。」

異郷の地で、異邦人として奉仕する事が容易い事とは思わないが、ポール・ラッシュの孤独と寂しさを見つめた在日韓国人の私の心に響いた。その時の私自身が孤独の心境、境涯であったからだ。

1979年、2度の再会はあったがポール・ラッシュは清里に大きな光を残して、多くの人々に惜しまれながら旅立った。須田寿の画集を見せる事が出来なかったことが今でも悔やまれる。

―韓国の土となる―

巧は42歳の若さで急性肺炎のために亡くなった。その死は韓国人からも惜しまれた。ソウルの郊外の忘憂里に「功徳之墓」と刻んだ兄伯教がデザインした白磁の供養塔が建立されている。傍らの顕彰碑には「韓国を愛し、韓国の山と民芸に身を捧げた日本人、ここに韓国の土になれり」と刻まれている。

ソウル特別市が管理する、京畿道九里市忘憂里公園市民墓地には、南北分断による不遇の画家大郷・李仲燮(1916年生〜1956年没 享年40歳)が眠っている。

李仲燮は韓国美術史で評価の高い現代洋画家である。墓地には張徳秀、韓龍雲、文一平、呉世昌等、独立韓国近現代史を証す愛国人士の墓がある。その近隣には韓国人に愛慕され守られている日本人•浅川巧の墓がある。

浅川巧(1891年-1931年)は、山梨県北杜市高根町に生まれた。山梨県立秋田農林学校卒業後、4年余り秋田県大館営林署で農林技手として務めたが、兄伯教と前後して朝鮮に渡る。

農林技手として植林緑化の普及に努める傍ら、失われようとする朝鮮の美の発掘に貢献した。植民地下にあった朝鮮に生き愛された日本人であるが、30数年前までは生誕地山梨県北杜市ですら浅川巧の事は知られていなかった。

『青丘雑記』の「浅川巧さんを惜しむ」という文を読んで、浅川巧に憧れと感謝の念を抱いた。

人間誰でも自分だけの隠し田を持ちたがるものだが、朝鮮人と向き合った浅川巧は隠し田など一切持たなかった。

自分のルーツが高句麗人だと思っていたらしい浅川巧は、高句麗人の血が故郷の朝鮮へと、私を呼んでいると告白した事でも、朝鮮への愛の深さがわかる。

植民地下の難しい時代に、両国の故郷でも受ける苦難を、自分の生涯と代わる愛の対象とした。時代は違えどもディアスポラである在日二世の私には、共感する人であった。

巧が生きた時代の植民地朝鮮を考える時、優位にあった日本人が朝鮮人に愛されるという事は、稀である。孤独とわびしさの中で植民朝鮮人のためにヒューマニズムに生き、道義と正義に生きた証がこの墓にはある。巧の慎み深く、朝鮮に優しかった宗教心をも超越した心情がうかがえる基である。

ポール・ラッシュや浅川巧の境涯について思う時、時代と環境は違えども在日という異郷にいるものとして、私は共感し学ぶ事が多い。

―浅川巧の業績―

浅川巧の名著『朝鮮陶磁器名考』 (1931年刊)の末尾にある「民衆が目覚めて、自ら生み、自ら育ててゆくところに全ての幸福があると信じる」の文は、その愛の証である。

朝鮮松の露天埋蔵法による種子の発芽、養苗開発など、その業績は光る。朝鮮民族美術館建設の推進、朝鮮陶磁器や工芸の研究、朝鮮の膳などの工芸美を考察した著書を遺した。韓民族の美意識と魂を、民芸と植林の領域で、我々の自尊心を髙めてくれた。

日本民芸館の創立者柳宗悦(1889年-1961年)は『朝鮮陶磁器名考』の序文に「どんな著書も多かれ少なかれ先人の著書に負うものである。だが此著書ぐらい、自分に於いて企てられ、又成された物は少ない」と記した。

「柳宗悦や民芸運動は朝鮮の日常雑器によって開かれた眼を、日本に転じる所から生まれた。日本の民芸運動の誕生の機縁となった結びつきを作った人に柳の友人としての浅川伯教、巧兄弟があった」と哲学者鶴見俊輔が述べている。

山梨県北杜市出身の江宫隆之著『白磁の人』(1994年刊)の映画化がなされ、2011年に完成し全国で上映会が催されている。

制作過程では両国で紆余曲折はあったが、浅川巧生誕120周年・没後80周年を記念する映画が上映出来て喜んだ。

それまで韓日両国の若人達や、浅川巧が勤務していたソウルの林業研究院の職員等も関心が薄く、知られていない存在を憂える人々がいた。

この映画上映を通して、両国の青少年達に韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人・浅川巧の時代を振り返り、その業績を顕彰し、今こそ学び合って我々の未来に福音をもたらす果実を収穫せねばならない。

日韓両国の中学校教科書に唯一、浅川巧の人となりが紹介されている。そして2015年には韓国の発展に寄与した世界の70人の1人に浅川巧が選出され「浅川巧の心」が両国国民の心に確かに生きていることは幸いである。

―浅川学への信念―

2001年山梨県北杜市に浅川伯教・巧兄弟資料館が建立された。その前年、市(旧高根町)から作品や資料の寄贈要請があった。

私のコレクションであった人間国宝である、柳海剛や池順鐸の青磁・白磁を含む、韓国民芸品など67点を寄贈した。

その折、「寄贈作品を展示するだけに終わらぬ事業に、それらを活用して欲しい。資料館は公的博物館としての役目を果たす研究機関でなければならない。様々な分野の先駆者を育てた山梨の風土や歴史、文化を学ぶ「浅川学」の学術研究の場、その成果を社会に還元して欲しい。

市民教育、特に次世代の青少年教育のプログラムを作り日韓の相互理解と友好親善交流を促進し、国際親善に寄与せねばならない。」と具申した。

日韓の相互不信を解くには、人と人との生身の触れ合いと心の交流に尽きるとの信念からである。

その後、私が出来る事、役立つ事は何かと考え続けた。行き着いた想いは私塾清里銀河塾の創設であった。それから16年間、暗中模索と紆余曲折して来た。北杜市を始めとする多くの理解者の協力を頂いた事で、一歩一歩積み重ね継続して来た歩みが、こうして日韓の皆さんの心に届いた事は幸いである。

人間の価値そして人格を高める「浅川学」を通して、学ぶ事の意味と意義を共有したい。

―「人」を作るのが第一の道理―

韓国、日本の中学校教科書に唯一紹介されている日本人・浅川巧。しかし両国民には広く知られていない人物である。私は浅川兄弟には今日を生きる普遍的な教えがあり、韓日の人々が共に学ぶべきものがあると常々、思って来た。韓国での功績に反して、今だに知名度が低く残念である。

20代から清里の地で過ごすようになり、この地域の風土に育まれた人生を送ってきた。それはこの地に私が憧れ、尊敬する偉人のいる事が関係している。

植民地下、韓国に渡り、韓国人の敬愛を受けた浅川伯教・巧兄弟と、戦前戦後の日米間の激動期を変わらぬ友愛と青少年教育に一身を捧げたポール・ラッシュとの出会いから、韓日の狭間の中で、在日のアイデンティティの学びを得た。

この世に人間愛を教え施された、この先賢は在日を生きる私の師であり、目標であり、シンボルであった。人間として真実の道を切り拓き歩まれた先賢の足跡には、日本の風土に息づき現代を生きる人の心の根に、日本の風土、韓国の風土とアメリカの風土が重ねて見えてくるものが、在日にはあると思われる。

人を形成するものは「人の真実」であると思う。「人の真実」が誇り高く、求道的であれば風土や人にも準じる。しかし人心が乱れ、荒廃に任せれば風土、人も堕するのではないだろうか。八ヶ岳の山麓、清里の地域風土の中から生まれた精神、浅川兄弟やポール・ラッシュの生き方から学ぶ事の意義と意味を私は見つけたいと思うようになっていった。

私塾・清里銀河塾で何を学ぶのか。学ぶ意味や学ぶ楽しみは生きることそのものである。その基本となるのは「生涯学習」ではないかと考えてみた。

一般人(住民)は自分の為、地域発展貢献のために学んでいこう。職業人は職業意識のレベル向上の為に学ぼう。生涯健康を保ち、元気に生きていく為には、世代を越え、心と体を養うために鍛えていこう。好奇心を持って自分を磨きたい、生涯成長していきたい、頑張る自分でありたいという学びの本能は誰にでもあると思う。

学び成熟する事で本物の自分を確認する。自分の尊厳を見つける事に繋がり、自分自身を慈しみ大切にする。そこから相手を認める人間関係を作り、人を愛する事が出来る、そのような人たちが創る成熟した聡明な社会を創っていきたい。

学びあい、助け合い、共に生きることにより、互いを高め合い自己研鎖を積んでいきたい。多様な価値観の中で自ら学び、共に学ぶということは自己が決定することで、生涯学習はつまり自己教育なのである。学びを楽しむ文化を創造していきたい。

具体的には浅川兄弟やポール・ラッシュが生きた時代から、その精神と哲学、その背景にある歴史を学び、故郷の誇りを高めていきたい。大自然の中で、彼らを育んだ風土の「気」を感じせしめ、次世代を担う青少年の健全なる育成により誇りと自信を与えたい。

清里から富士を仰ぎ日本を考え、愛するそれぞれの故郷を見直し、世界を望む。自然を楽しみ、我らが生きる環境を考える。その大気の中で五感を蘇生させ鍛え、教育のもつ意味と意義、人格や人間の価値を学び、地域貢献と国際交流を促進させる。私は、それらをサポートし、エールを送りたい。

私塾・清里銀河塾で出会い、共に学び生きる喜びや想い、更なる高みを目指したい。

国際理解と友好親善を目的に、韓日青少年交流を促進し健全なる青年活動家の養成である。清里銀河塾は、「ひびきあう心―浅川兄弟とポール・ラッシュの精神」をキャッチフレーズに、若者達とも生きる事を「楽しむ」「伝える」「深める」「創る」「演出する」をカテゴライズし、響きあう学びを進めていきたい。

―浅川伯教・巧兄弟顕彰碑―

私は2006年より私塾清里銀河塾を18回開催した。これまで学んだ塾生は1000人を超えている。

共に学び善き追憶を辿り、先人の徳を慕い回顧する事は、相互理解が深まり国際親善の糧となる。

韓国では韓国人に墓が守られ、生誕地山梨県北杜市でも顕彰されるようになった。両国から愛されている人物でありながら、地元の故郷に顕彰碑が建立されていない事を私は長年淋しく思っていた。

ポール・ラッシュ博士は「清里の父」と呼ばれ、顕彰碑も建って敬われ、聖壇にも祀られて久しい。

私は浅川兄弟もいつの日にか、聖壇に祀られる人物であると1997年の浅川兄弟を偲ぶ会総会で講演をした事がある。それ以来、いつの日にか石に刻みブロンズ像を配し北杜市に顕彰碑を贈ろうと20数年間、構想を温めてきた。

2021年は浅川巧の生誕130周年没後90周年記念の年に当たる。6月13日、浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会結成25周年を記念して、「捧ぐ 敬愛と感謝を込めて」私の座右である「露堂堂」の碑文を添え、兄弟のブロンズレリーフの顕彰碑を生誕地に建立し、叶うことになった。

碑のデザインは五重塔をイメージする五層(五段)。碑石は上野公園の王仁博士碑に倣って下層四段は国産の稲田石を割り肌仕上げ。上層は韓国産谷城石を本磨きにして、彫刻家・張山裕史氏作の浅川兄弟レリーフを配した。碑文は甲府市の書家・狭山植松永雄氏の揮毫による「露堂堂」である。

安部能成著『青丘雑記』 「浅川巧さんを惜しむ」の文中にある「その人間の力だけで露堂堂と生き抜いて行った」から顕彰文に採用し、刻むこととなった。

来る2023年には、北杜市は京畿道抱川郡姉妹都市締結20周年を記念し、資料館前広場をミニ庭園化することとなった。

名実共に聖壇の夢が正夢となった。浅川兄弟の偉徳の賜物である。韓日友好の絆を結ぶ交流の広場になることを祈念する。

―ロマンに生きる新しい故郷―

私達は山を見た。空に太陽、星を見る。そして流れる雲。耳には聞こえない虚空の音を感じる。太古の起源を学ぶ。

森を見た。木や花や草を見る。そこに生きる多くの生き物の営みをいとおしむ。

家並みを見た。生活や歴史、文化を見る。そして風土と地域の誇りを抱く。

形を見た。美しさや不思議さを見る。

水を飲んだ。美味しかった、気持ちが良かった。天の恵みに生かされている。

宇宙を、地球を、地質を、科学を、風俗を、伝統を見た。形で表されていない本質的な現象を掘り下げる多くの事象を見た。そして触れた。味わった。

自然に触れる事で、神と対話する敬虔な心を蘇らせる。大気の中で生かされている事への感謝、優しい人間へと蘇生していく感動を私達は私塾・清里銀河塾で体感・体験してきた。

生まれ育った故郷に愛を定着させて生きる事は幸いである。しかし、その故郷を離れ、離れさせられた人は、その愛を分散させて幸せを求めて生きる。

ポール・ラッシュと浅川兄弟は新しい故郷(世界)を創世した。そして、その地に愛を捧げた。清里から富士を仰ぎ日本を考え、愛するそれぞれの故郷を見直してみよう。そこには世界を望み、今を生きる意味と意義を問う新しい故郷がある。

「ひびきあう心」をテーマに国境も民族も超える精神を学び、心を磨く塾として、共に歩んで行きたい。