雑誌記事 視点 1998.9号
川田泰代さんの写真記録
①女学生の頃 ②俳優中村敦夫と共に ③晩年の頃 1978年9月17日~10月8日
朝鮮女性と連帯する日本婦人代表団員として朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)訪問。
金日成国家主席との記念撮影。
川田泰代さんを偲ぶ・涼州詞と泛海詩
文:河正雄
2020年の新春、新型コロナ禍の波が全世界に押し寄せた。不要不急の行動自粛要請の為に仕方なく書類整理をすることにした。
整理が進む中、長年仕舞い込んであった2枚の書が出て来た。どこで入手したものか思い出すことが出来ない。
心当たり数人に問い合わせした1人が福田政夫氏であった。彼は2003年関東大震災80周年記念集会以来の知友である。「思い当たらない」という返事に暗中に取り残された気持ちになった。書の内容、書格といい並の作品ではないと判断して、内容不明ではあったが、その書を表具屋に頼み二幅の掛け軸にして保存することにした。
その後、その書を入手する時に「川田」という名がふと浮かんだので再度、福田氏に電話したところ思い出されたようで、2020年6月10日付の書簡が届いた。
「河正雄さま
前略
川田さんの「偲ぶ会」のパンフと納骨の時の写真をお送りします。
(1)偲ぶ会のパンフについて
偲ぶ会は川田さんの逝去(2001年5月5日)後の5月26日に、葬儀に代わるものとして執り行ったものです。川田家の一部の方をはじめ各界の著名人など、総勢200人以上の方が参加してくださいました。
このパンフはそれに向けて川田さんと親しかったお友達にも協力していただき、急遽資料を集め作成したものです。
そのパンフの内容の中心になっているのが、川田さんを紹介するのに最もいいと思った『現代女人列伝」(関千枝子著 影書房 1989年刊)という本です。この本が一番川田さんのことを詳しく紹介していると思います。著者の関千枝子さんという方は私は知りません。
(2)納骨の時の写真
川田さんがお亡くなりになり、遺体は川田家の親族が引き取りました。川田さんの亡くなった後のさまざまな事後処理は、川田家の親族が引き受けてくれました。とくにいろいろ私たちとの連絡役をやって親切に対応して下さったのは、吉永小百合さんのお姉さんで、当時東京都庁に勤務されていました。都庁でかなり重要な位置にいて大事なお仕事をされていたようです。にもかかわらず、お忙しい中、とても親切にきちんと私たちに対応してくださいました。
葬儀は密葬で遺体処理だけをして、葬儀の代わりとして川田家の親族だけで納骨式が5月10日に執り行われました。親族以外で例外的に私たちの関係者だけが参列を許され、十亀トシ子(ペン・高橋陽子)さん、橋爪君、私など5名が参列いたしました。
それが今日お送りする写真です。この時吉永小百合さんも参列されており、ほんの少しだけ小百合さんと会話をしました。小百合さんは小婦人画報に掲載された百合さんの古い子供の時の写真を持参されてきており、それを見せながら「私がこういう芸能界の世界に入ったきっかけは叔母(川田さん)のお陰なのです。叔母が婦人画報の編集者をしていた関係で、子供服のモデルとして婦人画報に掲載されたのです。それがこの世界に入るきっかけをつくってくれたのです。その時の写真を一緒に埋葬してもらおうと持ってきたのです」とおっしゃっていました。
朝日人物辞典に、川田さんについて吉永小百合さんが「自由奔放の言論人」と述べられていますが、まったく的確な表現です。また生き方も本当に破天荒な方で、そして恐れを知らず不正義に立ち向かう正義感のとても強い方でした。今、安倍内閣を先頭に数々の不正義が平然とまかり通っている現代、川田さんのような方の存在がどれほど大きな力を発揮したことかとしみじみ思います。
私が川田さんと接するようになったのは1997年頃で、その頃、川田さんは様々な不運な問題が重なり、財政的にも大変困窮されていました。この川田さんの直面している問題を解決するために協力を依頼され、それ以降私は川田さんと直接頻繁に会うようになりました。そして川田さんの直面している問題解決のために全力をあげました。その結果ようやく問題が解決し、新しいアパートも借りて新しい生活が出来るようになりました。
川田さんは私生活的にはたしかにハチャメチャなところがある方でした。でもその生き方の根本はまっすぐで、差別されたり虐げられたりされている人々への深い思いと、それを生み出している政治と社会に対する激しい怒りは本当に大きく、実に立派で素晴らしい方でした。
ところで川田さんと私たちとの関係は、1960年代末頃に遡ります。中国や朝鮮など世界の国々との精力的な民間交流と政治犯の救援運動、さらに私たちの仲間である星野文昭さん(1971年11月の沖縄闘争デモで機動隊員1名が死亡した事件で全くのデッチ上げで逮捕。無実の政治犯として47年間も監獄に閉じ込められ、再審闘争中の2019年5月に刑務所の医療放棄によって膵臓ガンで逝去)をはじめ、私たちの運動と仲間にかけられた様々な弾圧に対する救援運動の先頭に立って多大な貢献をしてくださいました。そのご恩はけっして忘れることはできません。
尚、1960年代から川田さんと古くら交流があったのは十亀トシ子さん(1947年生まれ)です。私は事情で東京にいなかったため川田さんとは1997年頃まで直接接触はありませんでしたが、しかしその活躍は当然知っており、深く尊敬しておりました。
十亀トシ子さんや橋爪君たちと共に、川田さんがお亡くなりになるまでいろいろと家族同様にお世話をしました。
川田さんがお亡くなりになって20年近くになりますが、毎年命日の5月5日に橋爪君、十亀さんたちと欠かさず青山のお墓にお参りに行っています。
2020年6月10日 福田政夫」
2020年6月27日、福田政夫(1943年生)、橋爪利夫(1948年生)両氏の案内で昭和のジャーナリスト、平和運動家である川田泰代さん(1916年-2001年)が眠る青山霊園に赴いた。
両氏が2001年5月10日川田さんの納骨式に参列以来、毎年命日の5月5日には墓参しているというので案内を請うた。私はこれまで知人の葬儀では何度か来園したことことがあったが、墓所への参拝は初めてであった。
青山霊園は明治7(1874)年に開設され、明治維新の功労者や文学者、科学者、芸術家、政治家等の著名人の墓所が多数あり、墓参者は元より歴史探訪の見学者が多数来園する港区のビル群の中にある広大な霊園であった。
川田さんの墓所は1種(ロ)4号6側2番に所在していた。私は墓を清めて花を手向け追悼の言葉を述べた。
「私が墓参に参りました理由の一つは川田さんが生前、韓国人崔昌一、金鉄佑、尹秀吉、金大中ら、他にも多くの政治犯救援を呼び掛け救ってくれましたことに感謝申し上げたく思ったからです。
もう一つ、私は川田さんの遺品である2枚の書を掛け軸にして所持しておる由縁からです。1枚の書は王陽明(1472年-1528年)の泛海詩、もう1枚は王翰( 年- 年)の涼州詩です。その書は昭和56(1981)年の席書で張炳煌氏が川田さんに贈られたことが判りました。
川田さんの遺品整理の時に福田さんが受け取られ、10数年前に私に託されたものでした。これからは張さんとの交友の経緯や席書の持つ意味を知り、川田さんの魂が落ち着くところに収めようと思います。」と報告し、墓前を辞した。
墓参を済ませて中華人民共和国駐日本大使館に張炳煌氏の所在を問い合わせたところ、台湾の著名な書家であると返事が届いた。追って台北駐日経済文化代表処に問い合わせると現役として活躍されており、日本語も流暢で日本書道界にも知られたる著名な人物であることが判った。
川田泰代さんについては福田氏の書簡にも書かれているが
- 20世紀人物事典(2004年刊)
- 朝日人物事典(1990年刊)
- 長い坂-現代女人列伝(関千枝子 影書房 1989年刊)
- 川田泰代さんを偲ぶ会パンフレット(2001年刊)
などに記されている。
張炳煌氏については
百度百科(Baidu百科)
産経新聞国際書会Facebook
などに経歴や活動などが記されている。
これらから不明であった事柄に光が射したことで、私の故郷である秋田県仙北市立角館町平福記念美術館に収めようと即断した。美術館には私の美術コレクションが収蔵されているからだ。
仙北市の田沢湖と台湾高雄市の澄清湖は姉妹湖である。それらの縁故から相応しいと思ったからだ。
張炳煌氏の作品が収まり川田さんの遺徳を偲ぶことが出来るのは私の美術人生において喜びである。
その後、川田泰代さんの命日である2021年5月5日に福田政夫さんらと青山墓地のお墓に参拝に行って、その間の報告と感謝の祈りを捧げた。
その日、帰宅後に探し物をしていたところ箔もない、巻いただけの傷んだ掛軸が出て来た。処分しようとして20年以上も置き忘れていたものである。
再度確認の為に開いてみたところ、息を呑んだ。『「龍飛鳳舞」「秦代女士留念 戌午年(1978年)端午節 70有士 銁単黄天素書」』という川田泰代さんの誕生日端午節(5月5日)に書かれたお祝いの筆書であった。
泰代女士という名の意味に気付いていれば良かったのだが、当時は川田泰代さんの名前すら判らぬ状態であったために関連づける事も出来ず、無用なものと思っていたのである。
処分せずにいたこと、偶然にも川田泰代さんの命日に起きたこれらのことは必然の出来事であったと喜んでいる。
書家黃天素について紹介する。
書家・黃天素 (1907-1996)
台湾鹿港人、戸籍の本名は黃素。幼い頃から書画芸術への興味があり、鹿港名書家「鄭鴻猷」に師事し、詩壇の許逸漁、朱啓南、施讓甫と交友関係を持つ。会社経営しながら、書道を楽しむ。各流派の書畫ができる腕を持ち、漢隷(隷書体)が最も得意という。
昭和3年(1928)日本美術会入賞、昭和5年日本白龍書道会入賞、昭和7年日本東方書道院展入選、昭和11年日本泰東書道院展入選。中華文化を広めるため、鹿港の友人と「鹿港書畫會」を立ち上げた。民間絵画を題材にし、早年作品は鹿港龍山寺、天后宮、臺北青山宮などの楹聯や壁画に見られる。
民國57年(1968),日本孔子廟の碑文を書いた。民國59年、書道界を代表して海外視察を行った。民國61年「中華民國書法代表團」顧問として、台湾書家を引率し日本へ視察。民國69年ドイツ博物館での展示を開催、民國76年「臺灣省文藝作家協會」の優良文芸従事者功労賞入賞。作品は総統蔣經國、李登輝と世界中のコレクタに収蔵されている、また台湾各地に無数の個展を行った。
(資料出典 ウェブサイト:TBDB臺灣歷史人物傳記資料庫」)
本掛軸の表具を新たにして縁ある仙北市立角館町平福記念美術館に寄贈、2021年6月8日収蔵された。