今、私は忸怩たる思いにとらわれているが、川田泰代という女性(ひと)も、陳事件も知らなかった。「陳玉璽君を守る会」が結成された頃はまだ社会への視野が狭く、関心も希薄でのほほんと過ごしていた。でも、小田切秀雄先生を介して中村哲先生には面識があり、優しい先生として尊敬していたが、研究者の道に進むことなど夢想だにしていなかった。小田切先生に勧められて研究論文などを書くようになったのは七十年代だったように思う。研究のターゲットを大好きな夏目漱石に決めたが、そのとば口で、漱石には沢山の優れた弟子がいるが現代まで生々発展させて漱石を継承しているのは野上彌生子ただ一人であるという著名学者の説が首肯されていることを知って驚き、「將を射んとせばまず馬を射よ」から野上彌生子研究に的を絞って研究者の道を進み始めたのだった。野上彌生子は「強靱な写実性と理想主義的作風で注目」される作家として特等席に据えられていた。私はこの位置づけに不満だった。権力・金力を徹底批判した漱石は「創作家の態度」(08・4)で、月は丸いと決めてかかるのは、「教育の結果、習慣の結果、ある眼鏡で外界を観、ある態度で世相をながめ、さうして夫が真の外界で、真の世相と思つてゐる」からで、四角も観る角度を変えれば「千差万別に見る事が出来る」のに、「見る角度が悉く一致」しているのは「規約の束縛を冥々のうちに受けて居る」ためで、「杓子定規」で見るのではなく、「世界は観様で色々に見られる」のだから「赤裸々な所を怖れずに」「客観に重きを置」くのがよいとの言葉に励まされて、大分県臼杵に二十回も通って調べ、彌生子は漱石を継承し得ていないことの論文化から研究者の道を進むことになってしまった。研究者の態度として、女性差別を内在させた男性による論がカノン化されていることにとらわれず、社会を視野におさめることを重要視し、規約の束縛から意識的に脱して自分の頭で考えたことを自分の言葉で述べることに努めた。学生時代から光州事件、松川事件その他反権力運動に参加して連日デモや集会に出かけてはいたが、私はどうも書斎派で行動家ではないようだ。秋田の鉱山の長屋生まれの作家松田解子は自らを作家である前に足家だと足家であること自信し、弱者が犠牲になる事件の起きたことを知ると、借金で旅費を工面して飛び出し、自分の目で見たことを言葉で表現し、世の中に訴える言行一致の活動作家だった。百歳を半年後にした長寿を全うしたが、その一週間前までインタビューに元気に応じている。八カ月前まで出歩いている。九十八歳時の最後の講演は、全労連会館で開催の松川事件無罪確定四十周年記念東京集会であるが、そのひと月前に大舘花岡に出かけている。九十九歳の2004年の、私も出席した白寿を祝う会での、政権の右傾化阻止に闘えとの叱咤激励の大声はまだ耳の底にこびり付いている。
川田泰代も足が先に動く、行動の人だったらしい。私は彼女について無知で評伝など書く資格はない。かき集めた資料からの切り貼りによって彼女の業績を顕彰するしかない。多分、誤りもあるだろう。書き落としはさらに多いだろう。正確、詳細な川田泰代の年譜が書かれることを期待してやまない。
川田泰代による著書『良心の囚人 陳玉璽小伝』(1972・7・30、亜紀書房)の奥付記載の川田自身による略歴には、次のように書かれている。
1916年 | 生れ |
1936年 | 東京女子大学卒業、雑誌婦人画報記者(結婚のため一時退社) |
1950年 | 雑誌婦人画報に復帰 63年同退社 |
1960年 | 第2回世界ジャーナリスト集会(バーデン)に参加、第11回中国国慶節に中華全新聞工作者協会に招かれ参加、ソビエト、東ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアのジャーナリスト協会より招待、見学 |
1965年 | インドネシアにおける外国軍事基地撤去のための国際会議に参加 |
1966年 | 孫文先生生誕百周年記念委員会事務局長 |
現在 婦人文芸同人、編集委員、アムネスティ国際委員会日本支部理事 これだけでは女性誌『婦人画報』の編集者が「世界ジャーナリスト集会」に参加し、国慶節に招かれたり、国際会議に参加したり、孫文生誕百周年記念委員会の事務局長や、アムネスティ国際委員会日本支部理事になっているのは何故か、疑問と興味を抱かざるを得ない。参看資料は少ないが『良心の囚人』はじめ関千枝子さんの『長い坂 現代女人列伝』(1989・7,影書房)、楊 国光(元中国新聞社東京支局長)さんの「川田泰代と中国」、「川田泰代さんを偲ぶ会」(2001・5・26)その他を頼りに川田泰代さんの人生の軌跡を素描してみたい。
川田泰代
1916年8・12 大阪に生まれる。父川田友之は東京で大観社書店を経営。英語版の『世界年鑑』など出版。この父は若年時、家族と共に台湾に渡り、孫文とその革命思想に傾倒して『三民主義』を翻訳・出版したという。 1937年 東京女子大学卒業後、女性誌「婦人画報」編集部に入社したこの年ははがき、封書の値上がりのみならず献金付きの愛国切手・はがきの発売、政権による挙国一致・国民精神総動員運動の要請、民間の十三女性団体が非常時局打開克服を目的として日本婦人団体連盟を結成と戦争へと加速されているが、既に日中戦争の発端となる盧溝橋事件(7・7)が起きていて、死者二十万超と言われる南京大虐殺事件(12・13)、これと表裏をなす労農派400人余が検挙された第一次人民戦線事件(第二次は翌38年2月)、早くも吉川英治・吉屋信子ら流行作家を特派員とした戦地慰問が始まっている。社会は戦時色が濃くなり、千人鉢や慰問袋作り精励が求められ、出征歓送歌「軍国の母」「進軍の歌」「露営の歌」が歌われ、内閣情報部による「愛国行進曲」募集など文化面でも軍国色が強まる波乱の年だった。この年の春、泰代の父の従姉妹で、泰代の五歳上で仲良しだった「緑川英子」と名のったエスペランチスト長谷川テル(1912~1947)が渡華している。彼女は抗日戦争に参加して、郭沫若率いる政治部第三庁で日本軍兵士向けの反戦放送を担当した。私の中国体験は1987年、北京外国語大学に半年間客員教授として赴任したのが始まりだが、任期が終わって中国各地を経巡った時、長谷川テルが放送した地と説明されて感慨を深めた想い出がある。学生時代、世界共通語と知り、エスペラントを少し学んでもいて、長谷川テルの名は知っていたので。日本軍が武漢三鎮を占領(38・10・27)した11月1日の『都新聞』(現『東京新聞』の前身)が反戦放送を繰り返している女性が長谷川テルであると正体を報道した。仲良しだったテルが中国に行っていたとは知らなかった泰代は驚いたが、テルが反戦主義者であることは知っていた。泰代はテルの行動に衝撃を受けたが、軍国主義一色の時代への批判的思念はテルの命がけの反戦行動を知ったことで芽生えたように思う。テルにちなんだ私事を書いたついでに言えば、遠藤周作たちがサユリストを自称して夢中になった吉永小百合は泰代の姉の娘、姪であるが、私が大学教師になる前に勤務していた新宿駅近くにあった精華学園女子高の教え子だった。教え子といってもすでに売れっ子だったので月に一、二度位の出席だったために出席日数不足で卒業出来なかったが大検によって早稲田に入学し、卒業している。彼女は毎年八月に原爆の詩を朗読していることに感心して、原爆文学を広く深く知ることであなたの朗読は更に人の心をとらえるものになるだろうと、被爆作家を論じた拙著を送ってあげたら、手書きのなかなかいい返書が届けられた。
『婦人画報』入社一年半ほどといえば1940年だろうか。結婚退社して家庭の人に収まっていて、三児の母になるが。主婦時代10年を耐えて50年、離婚して『婦人画報』に復帰している。50年と言えば朝鮮戦争、レッド・パージが始まり警察予備隊創設の年であるが、朝鮮戦争で特需景気に浮かれた年でもある。離婚について、「まる10年苦しんだ。問題に対する見方、考え方がまるっきり違ったので、意見の衝突が増え、溝が深まったの。例えば朝鮮戦争のときだって夫は戦争で一儲けしようとし、私は反対の態度を採ったの。こうして私たちは別々の道を歩くことになった」と楊 国光に語ったとあるが、関さんの本にも「十年間悪戦苦闘したが、ものの見方、考え方、すべて夫とくいちがってきた。」「たとえば朝鮮戦争、夫は戦争でもうける立場だったし、妻は戦争絶対反対だった」からと書かれている。三児を置いて身一つで婚家を飛び出したが、娘が大学受験に合格したのに、夫だった父親もその両親も女に学問はいらぬと、入学を許さなかったことに怒った泰代は三人の上下二人を親権がなかったが引き取って大学に入れ、厳しい経済状況のなかで養育したという。『婦人画報』という一女性雑誌の記者だった泰代が小林雄一を代表とする日本ジャーナリスト会議の代表団の一員に選ばれた経過はよくわからない。選ばれるに値する目覚ましい記事を『婦人画報』に署名入りで書いていたのだろうか。オーストリアのバーデンで開催された第二回世界ジャーナリスト会議に出席し、この時続けてソ連、東欧各国を歴訪している。初の外国旅行は楽しかったが、日中間の国交はまだ正常化されていなかった時代で“赤い代表団”と罵声を浴びたという。米誌にも中傷記事が載り、国を挙げての安保闘争のすぐ後だったこともあって『婦人画報』は泰代を『モダンリビング』の編集長に移籍させたがこれは左遷だった。62年、娘が大学の建築科を卒業したが、建築科卒の女性に就職口はない。大学の先生から『モダンリビング』を推薦され、母娘一緒はまずいと泰代が退社することになった。その後の生活費取得手段はどうだったのかは不明。貯蓄があったのだろう。66年から一年間、日本と中国との連帯で催された孫文生誕百周年事業委員会の父と孫文との関係から、事務局長役が回ってきた。中国は文革が進行中だったが、泰代は孫文を中国革命の父と尊敬していたので張り切ってこの役目を遂行した。この事務局長の任によって人脈が広がったのかと想像される。以下は川田泰代によって書かれた『良心の囚人 陳玉璽小伝』から得た知識に負うところが多いが、67年9月半ばから11月上旬までそれまで一面識もなかった陳玉璽を居候させたのは、孫文の委員会で事務局長を務めた縁によったとある。二ヵ月ほど頼まれて事実上の保護者になったことがその後のアジアにおける政治犯「良心の囚人」(Conscientious Prisonerの訳語で、思想、信条、言論、表現の自由を問われて、追放、逮捕、拘禁、投獄されていて、「世界人権宣言」にのっとって救出されなければならない人たち)救援活動に力を注ぐ平和運動家人生を歩ませることになる。この本には耳慣れない「国府」という用語が頻出する。国府とは国民政府のことで、陳玉璽の母国台湾の国民政府(1950~1996)で、1949年に台湾に移転してきた南京国民政府を再編成して成立した。
陳玉璽を襲った不条理で苛酷な事件を粗描しておきたい。陳玉璽は台湾の彰化県大有村の中農の家に生まれた(1939・1・2)が成績優秀だったので彼が7歳の時世を去った母の兄弟が主に学資を出してくれて台湾大学に進学した。大学でも抜群の成績でハワイ大学の奨学生試験に合格して東西文化センター(修士課程)に留学(数理経済学専攻)し、66年、ハワイ大学で経済学修士を取得。彼の優秀さを見込んだ教授によってハワイ大学経済学部の助手を勤めるが、ブラウン大学博士課程の奨学生試験に合格、米国にそのまま留まってアメリカにおける経済学での三大名門校のブラウン大学で博士学位を取得するために留学滞在許可を国府に申請する。ブラウン大学によって博士課程の交換留学生であることを証明する身分証明書もアメリカ合衆国国務省から給付されていたのに国府文部局から留学継続申請却下の通知が届いた。帰国命令は彼がベトナム反戦デモに出た事があったことで思想上の嫌疑だとすれば、帰国は入獄に直結する。そういう政情の時代だった。去就に迷っていると日本にいけばいいと勧めてくれる友人がいて、67年8月、観光ビザで日本に入った。パスポートは68年8月までだったが期間更新によって12月15日まで有効となった。法政大学大学院で学ぶことを熱望した彼を、法政大学の中村哲、松岡磐木教授が後ろ盾になってくれた。この頃、泰代の家を出て、新橋の国際善隣協会の持ちビル善隣会館の三階の国費留学生用の後楽寮にいたと知り、驚いた。私は国際善隣協会会員である。講演を依頼されたことを機縁として友人から誘われて入会し、機関誌『善隣』にコラムの連載や論文を発表し、協会企画の日中友好の中国ツアーに参加したりと、現在進行形で関わりを持っている。会館の三階の後楽寮は現在も中国からの国費留学生の宿舎になっているという。中村哲先生とはお親しくさせて頂いた。川田泰代さんも陳玉璽事件も全然知らずにきてしまったが、今頃になって細い糸だが繋がっていたことに感慨を禁じ得ない。
台湾国府からの帰国命令を拒否した形で日本に来て、日本の大学に入ることが可能だったのだろうか、陳玉璽は在留資格更新のために東京入管事務所に特別在留許可申請を(68・1・8)している、身元引受人が弁護士で宮崎滔天の息子の竜介(私は、柳原白蓮との関わりで竜介についても書いている)で、受け入れ側の法政大学の教授中村哲(間もなく総長)、松岡(当時経営学学部長)による入管当局の要請に従った添書きを提出していて、東京入管事務所の呼出し(1・15)で審査一課での面接を経て、入管当局の指示による特在のための身元保証金10万円を納付して仮放免が決定されたのに、後でわかったことだが、少し前に法務大臣田中伊三次と入管局長中川進が訪台して国府の要人と、国府が在日中国人麻薬犯らを引き受けることを条件に日本政府が在日中国人の政治犯を送還するという「日台密約」が交わされていたことにより、それと知らずに2月8日午後1時、入管からの指示に従って東京入管事務所に出頭したところをいきなり強制収容され、翌日午前9時30分のCAL機(蒋介石の息子が経営)で羽田から台湾に強制送還され着後直ちに逮捕、保安司令部に留置という想像を絶した暴挙が日本、台湾両国によってなされていたのだった。治安維持法が闊歩した恐ろしい時代ではなく民主主義に根ざした人権確立の憲法下でこんなことがあったとは想像もできないが、身元保証金の10万円も善隣会館の宿舎に置きっぱなしの品々もそのままでの理不尽極まりない人権蹂躙の不当な強制送還がなされていたのだ。入管の人権蹂躙は2020年の現在も是正されていないようだ。11月7日の新聞報道によると、長期間収容の外国人の速やかな送還を目指した入管法改正が議論されているというが迫害を怖れて逃げて来た人の強制送還は人権剥奪になるだろう。コンゴから逃げて来た女性は三度目の難民認定申請中に収容され4年超の長期収容で、悪いことしていない、動物じゃない人間だと抗議して男性職員に乱暴な扱いをされて自殺を図ったと言い、長期収容への抗議のハンガーストライキで餓死した例もあるなど、巷間では知られていない無法が今なお平然となされているのだ。
台湾はどうなのか。68、69年時代とは異なり、今は民主的な政府のもとで多様性が生きるダイバーシティ社会が築かれているという。台湾在住の歌人小佐野 弾の寄稿文(2020・11・11、『朝日新聞』)は、「台湾では多数の市民と政府の間に信頼関係が築かれている」、「在住外国人の多くも、政府の発信する情報を信頼している」と言い、女性の蔡英文総統の率いるこの国は人口の9割を超える移民が共生しているが、アジアで初めて同性婚を合法化した国であり、外国人も全民健康保険に加入でき、高質の医療サービスを受けられると、台湾の民主主義の礎を築いた李登輝総統(総統1990~2000)の功績を偲びつつ書いているが、ほんとに政府を信頼できるような国になっていたなんて羨ましい限りだ。
陳玉璽が消えた、行方不明と知らされた泰代は驚いて探し回り、いきなり強制送還されて、今、死刑になるかもしれない境涯にあることを知る。知ったこの日から川田泰代の「良心の囚人」救援活動に挺身する‘平和運動家‘‘救援活動家‘の人生が始まる。下宿のおばさんを2カ月受け持つことになって陳玉璽の優れた学者の資質、その意欲を知っていた泰代はあらゆる人脈、さらに人脈を開拓して陳玉璽救援運動に取り組んでいる。『良心の囚人』には、陳玉璽の死刑から禁固7年、釈放までの道程が詳細に記述されているが、その行動力には驚嘆される。日本での救援活動は他人事の受け止め方から抜け出せない。陳玉璽が強制送還されたひと月半後(3・27)、「日台密約」の犠牲者二号として柳文卿の即日強制送還がなされている。陳玉璽の父親に彼の所在を問い合わせた手紙の返電は「日本にいるはず」だった。消えたことを知った父親の八方手を尽くして突き止められたのは蒋介石の軍法処の留置所に拘置されていて面会も許されない状態にあるとのことで、この手紙を見せて川田は彼の救援を訴えるが反応は鈍い。突破口となったのは、相談した当時の社会党代議士猪俣浩三が国会衆議院法務委員会で執拗に採りあげてくれたことだった。答弁に立った中川入管局長は、陳玉璽は不法残留者だ、帰国は彼の自由意志であり、旅費も自費だと事実に相反することを平然と答えている。「嘘」の答弁はこの国のお家芸なのか。この事件を重大視したウイクリー紙『東京オブザーバー』の中島照男記者による日本政府の出入国管理令違反を暴露した大々的報道は陳玉璽救援運動の起爆となった。川田は駅売りのこの新聞をいくつもの駅を回って何十部も買い、誰彼に送った。ハワイにも送った。この新聞の反響はハワイ大学・東西文化センターで炎を挙げた。ハワイの反応は素早く、かつ強烈だった。ハワイ大学の教授たちや市民達はハワイ選出の下院議員の女性宛に「国府」に対して事実糾明するように訴えたことで、ハワイの新聞が一斉に報道した。これに連動して『朝日ジャーナル』が採りあげた。川田は総長に就任していた中村哲にハワイ大学留学生担当教授宛の打電を依頼。陳玉璽の父親からも息子の救援依頼がハワイ大学に届けられ、ハワイ大学で学生集会がもたれ運動は燎原の火の如く広がっていった。「国府」は外国の動きに敏感だ。外国が「国府」批判の声をあげることに効果のあることを知った川田は日本での救援活動結成に奔走し、外電が6月18日付けで起訴された陳玉璽が死刑を求刑されたことを伝えた3日後、事件後半年になる6月24日、宮崎竜介(弁護士)、中村哲(法政大学総長)、高木健夫(評論家)、松岡磐木(法政大学教授)、加藤周一(作家、当時コロンビア大学教授)、石田雄(東京大学教授)、中村敦夫(俳優)による日本での「陳玉璽君を守る会」が結成された。この会はその後、曲折を辿りながら、特にアメリカでの幅広く活発な運動が効をそうしたことは紛れもないが、第一回公判(68・8・1)を秘密裁判だったのを公開にさせた。だが一人の証人も呼ばれぬたった三時間で終ったいい加減さだった。起訴理由には陳玉璽が法政大学入学準備中に読んだとされる本が挙げられたがこれが例え事実であったとしても、ベトナム戦争反対集会にちょっと参加し、「国府」が嫌う本を読んだくらいで死刑とは恐れ入る。陳玉璽の自白が有力証拠として提出されたが、それは自殺に追いやられた程の監禁状態にあって、デッチあげられたものと陳玉璽は烈しく否認した。8月10日の判決にはアムネスティ・インタナショナルアメリカ支部による世界世論への訴えも効果を挙げて、国際社会世論の圧力に屈して台湾軍事法廷は、陳玉璽の死刑求刑の変更を余儀なくされ、被告が滞日中に中国共産党系の華僑新聞『大地報』に協力したことを罪状にした動乱教唆罪で禁固7年の刑いい渡しとなったのだった。死刑が7年になったことは大成功だったと言えるが、陳玉璽に7年も服役しなければならぬ罪科など無いのだから釈放をかちとらねばならぬと、ハワイ大学の教授・学生から市民へ、日本でも運動の裾野を広げていった。
アムネスティアメリカ支部のコロンビア大学教授アイバン・モリス博士が来日、迎えた川田に日本でも支部を作るように要請され、政治、宗教、信条によって抑圧を受けている″良心の囚人″を救済する国際組織であることを知ると川田は猪俣浩三とはかって走り周り、1970年4月、アムネスティ日本支部は結成され、金大中拉致事件や在日韓国人政治犯の釈放運動と平行して、陳玉璽の釈放運動を、台湾と共謀した日本の入管当局の法的責任追及によって運動を深化させた。ハワイ大学と東西文化センターの陳玉璽救済抗議運動は広がり深まったが、アムネスティ・アメリカ支部による各地への訴えは、7年の判決で気が緩み沈滞していた日本の「守る会」に活をいれることにもなった。1969年4月20日、奈良医大生で自治会活動のリーダーだった在日華僑の李智成が「満腔の怒りをもって佐藤政府の『出入国管理法案』『外国人学校法案』に対して、死をもって抗議する!」という遺書を残して生命を絶った事件は在日華僑青年たちに悲しみと怒りを燃え上がらせ、この二法案粉砕の闘いが火を噴いた。この闘いは陳玉璽事件への怒りとなり在日中国人青年たちの闘いは陳玉璽救済運動へと進んで、69年3月2日、善隣会館で発会した「二法案」粉砕国際青年共闘会議は、青年、学生、労働者を交えて在日アジア人留学生を含む大組織に膨れ上がって火となった。この熱塊は反戦、全学連、各大学全共闘、ベ平連等日本の闘う人々、さらに反戦欧米人をも結集した大規模の運動になり、71年2月8日、入管体制粉砕東京実行委員会主催による「六八年二・八陳玉璽君強制送還弾劾全都総決起集会」が法政大学で開かれ、3月には、『法政評論』臨時増刊号で陳玉璽事件総特集が刊行され、ハワイ大学はもちろん「ハワイ市民連合」による陳玉璽釈放の活発な運動等々によって台湾当局は71年10月25日、3年8ヵ月服役させた陳玉璽を、7年の刑期満了を待たずに「恩赦」で釈放せざるを得なくなったのだった。結束した民衆が勝ったのだ。
川田泰代は書いている。「わたしには三人の成人した娘と息子がある。その息子たちと比べて彼は数段すぐれた青年である。実質的には、たった二ヵ月余りの保護期間であったのだが、あれから、数年間、わたしが彼にそそいだエネルギーは、わたしの二人の息子と、すでに結婚して、一女を生んだ娘とに捧げた母親としての30年に余る養育の苦労を遙かに上回ったものであった」と。その苦労の逐一が書かれた『良心の囚人』は、釈放された陳玉璽の72年1月27日の日本入管当局への抗議「声明」が結語になっている。この本には「声明」にもあるが、突然の連行に抗議して壁に頭を打ちつけて流れた血で「毛沢東萬歳」と書いて自殺をはかったときの血染めのセーターの写真が載っている。「毛沢東萬歳」。陳玉璽事件は中国の「文化大革命」(1966~76)渦中での事件で、「世界最高の民主主義であるプロレタリア文化大革命」という川田の記述から、川田も「文化大革命」の信奉者だったように思われる。私事だが、大学の入試で中国からの留学生の面接試験で合格させたくて質問した「私の名前は○○です」とか、「今日は晴れです」とかの簡単過ぎる和文英訳も全然出来ず、「毛沢東語録」は英語・日本語ですらすらだったのに呆れたことを思い出した。87年の北京外語大学へのて赴任時、「上」から食事を招待された。「上」とは共産党で、教員・職員・学生の大学すべてを統括している人である。私が学生達に一人っ子政策など中国批判めいたことを言ったりしたので注意を受けるのかとビクビクしたが、女性の「上」は私の授業に感謝してくれ、私事なども親しく話してくれた。彼女には三人の子がいるが、二番目と三番目の間が10年離れているのは文化大革命で夫婦が離され、精華大学教授だった夫も農村での重労働を課されるなど筆舌尽きせぬ苦難をなめさせられた、「文化大革命」はどれほど多くの犠牲者を出したか計り知れぬ悪だったと言い、同じようなことを博論指導した留学生から、医師だった父が文化大革命で下放されて受けた悲劇を聞いたが、この時は渦中だったので「毛沢東萬歳」だったのだろう。
釈放されて帰った生まれ故郷は彼を暖かく迎え入れようとはしなかった。死刑を求刑された彼を釈放を勝ち取るまで親身になって闘ってくれたアメリカに渡ってニューヨークに住み、ここで結婚し二人の子の父となり、30年月賦の家を買って、幸せに暮らしている陳玉璽のその後を、関千枝子本には、川田が1987年8月12日、71歳の誕生日をニューヨーク・クイーンズ区の陳玉璽の家で迎えたこと、このとき二人の子が父の命の恩人川田のために「ハッピーバースデー」を歌ってくれたとある。陳玉璽が昔日の恩人たちを訪ねて東京に来たのは88年で、感極まった感動的場面となったことは容易に想像されるが、陳玉璽にとって悔やみきれない心残りは身元保証人にもなって救援活動に挺身してくれた宮崎竜介が釈放の朗報を知らずに鬼籍にはいっていた(1971・1・23・)ことである。
川田泰代は陳玉璽の釈放を苦難の末だが勝ち取ったことでほっとし、力が抜けたが、陳玉璽の救援活動によって″救援活動家″の肩書きがついてしまったことにもよるのだろうが、以後病に倒れ、臥床の身となるまで「良心の囚人」救援活動に力を注ぐ平和活動家として生き続けた。腎不全で川田泰代の生に終止符が打たれたのは2001年5月5日で85年の生涯だった。5月26日に「偲ぶ会」がプレジデント青山で開かれ、寄せられた追悼のメッセージによって知られる川田の陳玉璽釈放後の活動の足跡を辿ってみたい。
『近代日本総合年表』1971年11月10日の「沖縄県祖国復帰協議会、返還協定批准に反対し県民大会開催、全軍労、官公労、教職員組合ら10万1500人、24時間ゼネスト、本土では東京の沖縄ゼネスト連帯中央集会など、42都道府県326ヵ所で各派集会、デモ」と記されている、基地付き沖縄返還に反対して逮捕され死刑判決を受けた星野文昭は2001年に至ってなお徳島刑務所在監中だったが、その星野の再審と仲間の免訴運動に川田が取り組んでいたこと。それより以前の55年5月10日、「米軍、北富士演習場で、着弾地付近に坐り込みの地元民を無視し射撃演習開始、反対闘争激化」と、60年7月29日、「北富士演習場で農民300人、米軍、自衛隊の演習中止を要求、10人が着弾地に坐り込み」と記されている北富士演習場の撤去要求闘争なの支援。73年8月の金大中事件、70年代の尹秀吉の政治亡命実現運動、77年5月8日、「三里塚、芝山空港反対同盟ら3700人、鉄塔撤去に抗議、成田空港付近で機動隊と衝突、負傷400人、5、10に一人死亡」、78年3月26日、「三里塚・芝山成田空港反対同盟、滑走路南端の鉄塔再建をめぐり警官隊と未明の攻防、警官1万2000人厳戒、同日午後、学生ら火炎車2台で港内に突入、管理棟に乱入端末機器破壊、警官威嚇射撃、逮捕115人」とある長期にわたる大闘争を共に闘ったことなどが知られる。川田泰代の訃報は川田の支援で勇気を与えられた反人権運動を闘った多くの人々の心に深い哀しみ刻み、人権確立への新たな闘志をかき立てさせた。川田泰代は言行一致の平和・救援活動家として語り継がねばならぬ人である。