オンライン・シンポジウム―共立女子大学一橋キャンパス

崔承喜の芸術とその生涯を考える-20世紀の朝鮮の歴史・在日コリアンと崔承喜

河正雄

主催:東京大学大学院多文化共生・統合人間学プログラム
2021年12月5日

講演内容

  1. 始めに・今年身近であったこと
  2. 故郷秋田であったこと
  3. 美術との関わり合い・心の軌跡と動機
  4. フィルムコレクションの作品化
  5. 函館での崔承喜
  6. 金日成回顧録
  7. 崔承喜の生
  8. 終わりに・芸術はイデオロギーを越える

1.始めに・今年身近であったこと

2021年の年明けは2020年からの新型コロナウイルス禍が収束せぬままに幕を開けた。世界は感染力の強い「オミクロン型変異株」による感染が広がる情勢である。事態は一向に収まる気配を見せておらず第6波へ体制見直しの世相である。

私が生きた82年間には第2次世界大戦、終戦による朝鮮解放後の祖国朝鮮半島に於ける南北戦争、オイルショック、バブル崩壊、リーマンショック、阪神淡路大震災、東日本大震災等々、暇ない社会変事と自然災禍があったが新型コロナウイルス災禍は最大事である。

先ず、このような災禍中の時節にも関わらず、崔承喜生誕110周年を記念し、シンポジウムを企画したこと、また私に講演の機会を与えて下さった皆様方に、敬意を表すると共に、この出会いを嬉しく思う。この意義ある2021年に私の身辺であったことから、崔承喜を想う、麗しい話をする。

年頭に今年は崔承喜生誕110周年であるから、かつての夢であった崔承喜の映画を作りたいと李春浩氏から企画書が送られて来た。

映画作りは以前の経験したことから、費用調達や人材の準備など、苦労が多く荷が重いので、受け入れる自信はないと答えた。病身と寄る年波には勝てない事情があったからだ。これは次世代の若者が、その夢を叶えるようにと願った。

更に初夏に入り2012年の日本演出協会主催「日韓演劇フェスティバル」の際に、崔承喜の資料提供でお手伝いさせて頂いた事がある。

その時、依頼のために我が家を訪れた女優の洪明花さんは、いつの日か崔承喜を題材にして一人芝居を演じたいと構想を語った。私は「心にありさえすれば必ず実現するよ」と答え激励した。

この度、洪明花さんから鄭義信氏のシナリオで崔承喜の生涯を題材にした「一人芝居」の公演をしたいと協力を請われた。その時の励ましを胸にして洪さんの夢がこの度、実現する事となったのは嬉しいことです。

そして、遡って2年前の2019年5月27日、東京大学韓国学研究センター主催の講演をした事がある。その後縁あってのことかもしれないが、今年の10月に東京大学の外村大教授から「崔承喜・シンポ企画案」のメールを受け取った。崔承喜の芸術とその生涯を考えるという企画での講演依頼であった。

私は学者でもなく研究者でもない一介の崔承喜ファンであります。私の崔承喜への想いや関わって来たことのお話ならば、ということでお引き受けした。

それは2010年、私の中学時代からの畏友である西木正明(第99回直木賞作家)が粛清された舞姫を追う長編小説「さすらいの舞姫」(光文社刊)を発表したこと。

そして2020年、李賢晙武蔵野大学教授が「東洋と踊る崔承喜」(勉誠出版刊)を発表し、第42回サントリー学芸大賞を受賞したこと。

それらの素晴らしい作品に、提供した情報と資料が寄与貢献出来たことを喜んでいたからである。そして、もしこのような企画を通して今後の崔承喜研究に少しでも貢献できればと願いつつ、今回の企画にも喜んで参上したわけである。

2.故郷秋田であったこと

崔承喜の名は私の故郷秋田で幼い時から聞いて育った。それは崔承喜が秋田県三種町出身の日本モダンダンスの草分け石井漠に師事して学んだことから、彼女は私の故郷ではすでに有名人であった。

私は1939年11月3日生まれだが、同年6月24日に崔承喜は秋田市で渡欧告別公演を行い、さらに欧米巡回公演後の1940年8月16日には帰朝公演が開催された。その記憶が秋田の人々に鮮烈に残っていたからだ。

私は秋田県仙北市立生保内小学校3年(1959年)桃組であったが、梅組の梁田イク先生が私を呼んでは「秋田大学師範の学生だった時に秋田市で崔承喜の公演を観た。正雄さんの国の舞踊家は実に素晴らしかったよ。」と幾度も伝えてくれた。先生から話を聞いた私の幼い心に崔承喜への憧れと民族の誇りが芽生えた。

また「1939年、横浜で崔承喜さんの若くて躍動感ある舞踊にうっとりさせられた。美人であり舞踊は抜群の動きが心に残っています。」と横浜から嫁いでいらした秋田市の木村志満さんから、秋田人たちの誇りであり艶やかな崔承喜の舞台姿を思い出すと聞かされた。

当時秋田の人々の間で崔承喜は憧れのスターであった。このように崔承喜と私のご縁は幼少期から始まっていた。その後も崔承喜と私のご縁は続き、自分の人生の中でとても重要な民族舞踊家として記憶し続けてきた。

3.美術との関わり合い・心の軌跡と動機

崔承喜については日本の著名な文士や画家、彫刻家の作品がメモリアルとして数多く残されている。

その中でも今回は、崔承喜と関連する絵画作品と、戦前期に撮影されていた崔承喜の写真について絞って話をしたい。

1960年代のことになるが、私は画家になる青雲の志を抱き絵筆を握っていた。その頃埼玉県さいたま市の宮町に「山水園」という焼肉屋が開店し、私はその祝いに招待された。店の造りは韓国風のインテリアでとても凝っていた。

店主の林清哲(故人)氏が「河さん、この店には絵が1枚もないので淋しい。何か民族的な雰囲気の絵を描いてもらえないだろうか。」と頼まれた。当時、焼肉店で油絵を飾るというのは珍しく、無名の私に依頼されたのに驚かされた。

私はその時、朝鮮画報に載っていた崔承喜の写真から「杖鼓の舞」を描くことを約束した。10号の作品を書き上げたところ、林氏はとても気に入ってくれた。

「5万円の画料を払いたいが開店したばかりなので申し訳ないが3万円で勘弁してくれ。」と言って3万円をくれた。当時、私の月収は1万円、無名の私には破格の画料であった。これでしっかり勉強して将来名のある画家になれと言う励ましだと受け取り、その心遣いを有り難く思った。それにも増して認められた喜びは私に大きな力を与えた。

画家になろうという夢に駆られていた私の頭に浮かんだのは、まさしく朝鮮の民族舞踊を踊る美しい崔承喜の姿であった。

私のコレクションの中には崔承喜を描いた油絵2点と版画がある。私は新大久保駅近くにある「チロル」というカラオケスナックでよく遊んだ。ママは友人であり尊敬する白玉仙さん(故人)である。

1980年代後半のことである。「チロル」店内の壁面に一枚の絵が無造作に掛けられていた。煙草の煙で燻されて薄汚れ、照明を落とした店内ではその絵がよく見えなかった。

別に何ら気に留めてなかったものだが、ある時近づいてよく見ると、チョゴリ姿の女性が長鼓を打っている上半身の舞姿の絵であった。その絵は10号の油絵で1960年代に私が描いた崔承喜の「杖鼓の舞」と構図(私の絵は全身画)が似通っていた。

作家は判らなかったが「白さん、この絵を譲って下さい。」と申し入れたところ、「ええ、いいわよ」といとも簡単に承諾してくれた。汚れを落としサインを見たところ、ハングルで「キム・チャンドク1967」と記されていた。それは1960年代、私が所属していた文芸同(在日朝鮮文芸芸術家同盟)の美術部長金昌徳(日本名・高橋進 1910~1983)の崔承喜の「長鼓舞」を描いた作品であったのだ。

もう一枚の油絵は宋英玉(1917~1999)の作品である。晩年、白内障で苦しんでいた宋英玉は娘さんに伴われて我が家をよく訪ねて来た。後年、手術が成功し元気になったと快気の礼にと持参したのが崔承喜の「長鼓舞」(1981年作)の絵であった。

その絵は金昌徳の「長鼓舞」の構図に似通っていた。どちらも上半身の長鼓舞を描いたものだが、顔の向きが左右に違うなど微妙に異なる構図であった。崔承喜に想いを寄せ、憧憬の念を持って描かれた作品なのだろう。宋英玉の重く沈静した画風にしては珍しく華やいだ世界であり救われるような作品だった。

 版画は松田黎光(1898~1941-本名・正雄)の1940年作、「僧舞」と「剣舞」の二図がある。鮮展参与となり帝展・文展にも出展し、江西双楹塚(こうせいそうようつか)壁画の模写を成した国民総力朝鮮美術家協会理事であった。鮮展初期以来の作家である。この年代、称賛を浴びていた崔承喜を日本の一流の画家たちもこぞって描いている。

例えば、安井曽太郎、小磯良平、梅原龍三郎、東郷青児、有島生馬、鏑木清方らが崔承喜の舞姿を競って描いた。松田黎光も崔承喜をモデルにしてこの作品を制作したものと判断し、私はこの絵をコレクションした。

写真は木村伊兵衛(1901年〜1974年)•堀野正雄(1907年〜2000年)•渡辺義男(1907年〜)•桑原甲子雄(1913年〜2007年)、箕輪修、吉田潤等が残している。

彫刻作品は藤井浩祐(1882年〜1958年)の「崔氏菩薩」その1とその2のブロンズ像が東京国立博物館に収蔵されている。

私はシケイロスと交遊のあった北川民次の絵が好きだった。1998年、私は妻とメキシコ旅行に出掛けた。古代メキシコ文明、アステカ•マヤ文明の遺跡に興味もあったが北川民次の画風に影響を与えたシケイロスの壁画を見たかったからだ。

巨匠シケイロスは1913年メキシコ革命に参加した。ヨーロッパの現代美術とメキシコの土俗的な伝統を結合させ国民(民族)的芸術を主張し力強い社会的表現をしたメキシコの画家である。

メキシコシティのアラメダ公園東端にある国立芸術院を訪ねた。白大理石の建物の外観はネオクラシックとアール•ヌーボー、内部はアール•デコ様式の折衷様式であり1934年に完成したものである。2階と3階の壁面にあるシケイロスの巨大で力強い作品に出会ったときは息を呑むような感動を受けた。

そこにはメキシコを代表する世界的な画家、タマヨ、リベラ、オロスコらの作品も展示されており思いもかけぬ作品との出会いを喜んだ。

案内をしてくれた同院の学芸員に、私は日本から来た韓国人だと挨拶したところ「この建物には3500人収容の劇場がある。1940年には崔承喜の公演があった。」と紹介された。

そのとき時空を超え、クラシカルで絢爛たる劇場で民族の舞を踊っている崔承喜を想い描いただけで熱いものがこみ上げてきた。異郷のメキシコ人が崔承喜を知っていた、忘れないでいてくれたというだけで感激してしまった。メキシコの旅は思いがけず崔承喜の足跡を訪ねる印象深いものとなった。

4.フィルムコレクションの作品化

崔承喜の芸術活動の足跡と女史が生きた時代と民族史を知る事は我々にとって重要な事である。

崔承喜の芸術には未来に継承して行かねばならない民族的な精神と指標がある。在日に生きる私の指標には、歳月にも風化せず崔承喜から受けた自尊心と民族的衿持が憧憬としてあった。

1997年在日韓国人文化芸術協会主催で文芸協講座として、韓国の崔承喜研究者の韓国中央大学校名誉教授の鄭昞浩先生を招いて「崔承喜の芸術と生涯」の講演をして頂いた。このことが御縁となり後日、先生が収集された崔承喜に関するスライドフィルムを拝見する機会を得た。

酸化し風化している膨大なスライドを見せていただいた後、私は「先生、この保存状態ではいずれ粉々になってしまう。これらのフィルムを譲って頂けませんか?私の記念室がある光州市立美術館で崔承喜の足跡をパネルにした作品を展示したい」と申し入れた。その時、先生は私に関心を持たれなかったのか承諾して下さらなかった。

韓国では「越北者」(北朝鮮に渡った者)という理由で長い間、崔承喜と彼女の舞踊についての全てが「禁止」されていた。名誉回復されて、解禁は1986年。それまで南北共にタブー視され触れる事を避けられて来た。

 その後、1999年東京での白香珠の舞踊公演の際に先生は奥様と共に来日され、再び会うこととなった。そこで鄭先生は「崔承喜の存在と足跡を知らしめたいという河さんの申し入れの意図と主旨がわかった。私のフィルムコレクションをあなたに譲りましょう。」と言われた。長年に渡り先生が収集した35mmのポジとネガを私はコレクションした。

それからサカタラボステーション株式会社の協賛を得て、そのフィルムをパネル作品化した。古い時代の35ミリフィルムのため、劣化してボロボロの状態であった。パネル化は困難を極め費用も嵩んだ。一点一点補正しながらの手作業で最善を尽くし時間をかけて芸術作品に仕上げた。

フィルムは70~80年前のもので当時の崔承喜を記録した数少ない貴重なものでであった。私はこのフィルムと印画紙にプリントした作品を光州市立美術館に寄贈し、記念として企画展「舞姫・崔承喜写真展(会期2002年8月1日~10月20日)の開催を実現出来た。

この展示を見た東京都庭園美術館学芸課長横江文憲(Yokoe Fuminori)氏はこう評論した。

「展覧会の会場に足を踏み入れて圧倒された。崔承喜の肉体が宙を舞い、その表現力の容易でない事を瞬間に感得する事が出来た。彼女の均整のとれた肉体、そこから溢れ出る躍動的なリズムは、見る者を彼女の舞踏の世界へと誘う。

1935年頃、崔承喜の人気は絶頂にあり、恩師石井漠は『彼女の一挙手一投足は、通常の人間の2倍の効果を上げる事が出来る。」と言い、川端康成は『他の誰を日本一というよりも崔承喜を日本一といいやすい。第一に立派な身体である。彼女の踊りの大きさである。力である。それに踊り盛りの年齢である。また彼女一人に著しい民族の匂いである。』

文字だけでは、想像する事は出来ても実感として伝わってこない。真実は、それを映像として如実に提示する事が出来る。崔承喜の存在の重要さは、その事よりも遥かに高い次元にあり、正に波乱万丈なる人生を歩んだ事を教えてくれた。」と書いてくださった。

自分の長年の努力が報われたことに喜びを感じつつ、幼い頃から憧れを抱いていた民族舞踊家の崔承喜の再評価や再発見とつながった重要な展示会の開催に改めて感慨を深めた。

1911年、現代舞踊の創始者と呼ばれるイサドラ•ダンカン(1877年-1927年)が、バレエとは違う新しい舞踊体系を完成させて間もない時点である。帝国主義時代の朝鮮で生まれた崔承喜は天性に基づき一気にトップの舞踊家として登場した。ヨーロッパ全域、アメリカ、中南米など世界を舞台に巡回し公演した。おそらく舞踊家•崔承喜こそが我が国最初の韓流スターであったと言える。

人間の生の歩んだ道を評価するときは、その当時の状況から見て「易地思之」しながら体験するべきであると信じる。崔承喜のこのような生き様は在日の我々にもさらに自分自身にも影響を与えていた。

私は高校卒業の時、青海磐男先生に“卒業証書”に大阪生まれの日本人「河本正雄」でなく朝鮮出身の本名「河正雄(ハ•ジョンウン)」と記載して下さい”と言った。その後の本名の為に日本社会での暮しで、背負う苦難の重さは決して軽いものではなかった。

崔承喜は海外公演の際「サイ•ショウキ(Sai Shoki)」という日本名で活動したが、創始改名はしていない事で知られている。外国メディアには自分を必ずJapanese dancer”でなく Korean dancer”として紹介した。その時代、朝鮮出身の崔承喜にはそれなりに障害になった事は当然であった。

河正雄コレクションの中に崔承喜とベルリンオリンピック(1936年)でのマラソン優勝者、孫基禎と共に写る写真がある。

崔承喜の夫、安漠(早大露文卒)は治安当局の要視察人であった。孫基禎も明治大学留学の条件はマラソンをやめると誓約する事であり、優勝をしたが要視察人となっている。

人気絶大なる崔承喜、孫基禎を治安対象にしていた日本当局とは激しい葛藤があったものと思われる。独立を失った時代の民族の悲哀がこの一枚の写真の中に映っている。

5.函館での崔承喜

私は2002年4月24日から5月4日まで新宿の東京ガス都市開発株式会社パークタワー・アートプログラム主催にて、2002年ワールドカップサッカー大会を記念しての姜鳳奎「韓国の故郷」写真展を開催した。

テーマは誰にでもある「故郷」である。韓国人の「故郷」とは韓国人の顔でもある。韓国的であるもの、自分らしきもの、過ぎ去ったもの、失われたもの、忘れ去られたものに対しかけがえのない愛情を以て表現している。自分探しであり過去を回顧し省察する展覧会であった。

その1ケ月前に同場所にて小坂泰子は「韓国の貌」写真展(会期3月5日~28日)を開催した。そこで姜鳳奎展を知り、関心を持たれたという。

小坂さんは石に人間の姿を映す道祖神に魅かれ、祈りの対象となる石の世界をテーマに韓国の石仏や磨崖仏仏画などを撮り続けている作家である。

 その後、はこだて写真図書館(函館市豊岡町)にて小坂泰子「韓国の貌」写真展(会期8月10日~9月1日)を開催するにあたり「姜鳳奎」の作品も併設展示したい。日韓の理解の輪を広げるために私との韓国の写真事情の今を語る対談をしたいという誘いがあったことで、はこだて写真図書館との御縁が始まった。その時に私は崔承喜の写真コレクションの話をしました。それがきっかけとなり、写真館の学芸員から函館にも崔承喜の足跡があると言われ、資料が送られて来たのです。今回そのポスターと「函館市史」の大正・昭和前期の主な来演音楽家の一覧も合わせ紹介したい。

通説編第3巻第5編2章7節(877頁―882頁)

1926年9月(大正15年 昭和1年)/石井漠・崔承喜

1929年(昭和4年)/石井漠・崔承喜

1935年(昭和10年)/崔承喜新作舞踊発表会 松竹座(函館) 9月29日公演

1936年(昭和11年)/崔承喜新作舞踊発表会 巴座(函館) 11月29日公演

他の資料から、その時期に於ける崔承喜の活躍の記録である。

1929年(昭和4年)・1931年(昭和6年)/倉吉市旭座にて砂丘社の招きで石井漠舞踊公演

1935年(昭和10年)8月30日/日劇の舞台にて第10回出演・主演映画「半島の舞姫」上映

1935年(昭和10年)9月/今日出海監督「崔承喜半世紀」映画化される

1935年(昭和10年)/北海道深川町鬼川俊蔵の招きで石井漠と同道している

1936年(昭和11年)11月18・19日/實瑩座にて新作舞踊発表会札幌公演

函館松竹座(1935年9月29日)来演時の函館新聞の宣伝文・崔承喜紹介のキャッチフレーズである。

  • 世界的民族舞踊家・半島の舞姫
  • 半島が生んだ美貌と情熱の美姫!
  • 本邦唯一 世界に誇り得る民族舞踊家の第一人者
  • 日本女性舞踊家のNo.1・最高権威
  • 絢爛たる舞台 踊るリズムとパッション陶酔境

このように日本中から賞賛を浴びていた崔承喜の朝鮮舞踊は、特に仏像から発想を得た舞踊「菩薩舞」においては、宗教の世界を表現して話題を呼んだ。日本における初の韓流スターとも言える崔承喜の人気により、映画「半島の舞姫」では主演を務め、アメリカ、フランス、ドイツなど海外での公演では、その舞踊と名声は世界中に知れ渡った。

当時、その舞踊を観たジャン・コクトー、ピカソら文化人達は称賛を惜しまなかったという。熱烈なファンであったという川端康成は崔承喜の舞踊から芸術的インスピレーションを得たという。そして小説「舞姫」を発表した。

その一文が1935年9月15日函館松竹座での崔承喜公演のポスターに残っている。小説「舞姫」での記述は群を抜いて崔承喜の実力を広く知らしめる名文である。

6.金日成回顧録

2003年9月朝鮮中央通信が「祖国の光復と富強繁栄の為の聖なる偉業を尽くした22人の烈士の遺骸が、愛国烈士陵へ新たに安置された」として生死不明であった崔承喜の名前を伝えた。それまで粛清説が流れていたが舞踊家同盟中央委員会委員長、そして人民俳優の肩書きと共に「1911年11月4日生・1969年8月8日逝去」と愛国烈士陵の崔承喜墓碑に刻まれていると報じた。

しかし何故、崔承喜が表舞台から消えてしまったのか、そして突然の名誉回復は何故なのか不明である。

一緒に失脚した娘・安聖姫の所在も判るだろうという話もある。死亡説など、そして死亡年月日の真実など未だ深い謎にある。

「金日成回顧録・世紀と共に(5)」(朝鮮労働党出版社1994年5月10日発行)の55頁より崔承喜に関する記述を紹介する。

「1920年代、1930年代は、日本文化の流入により失われていく民族性を固守し、民族的なものを発展させて行こうとする強烈な気風が、文学・芸術の様々な分野において噴水のように噴き出していた時期であった。

まさにこの時期に、崔承喜は朝鮮の民族舞踊を現代化することに成功した。彼女は、民間舞踊・僧舞・巫女舞・宮中舞踊・芸妓舞などの舞踊を深く掘り下げ、そこから民族的情緒が強く優雅な舞の技術を一つ一つ探し出し、現代朝鮮民族舞踊の発展の礎を築き上げることに貢献した。

その当時までは、我々の民族舞踊は舞台化の段階まで到達できていなかった。劇場舞台において、声楽作品・器楽作品・話術作品は上演されることはあっても、舞踊作品が上演されることはなかった。しかし、崔承喜が舞の技術を完成させ、それを基礎として現代人の感情に合う舞踊作品を創作して以来、大きく変化したのである。」

2003年、北朝鮮で名誉回復した崔承喜は東アジアで再評価が進み、内外に反響を呼んだ事は周知の事である。

崔承喜著「朝鮮民族舞踊基本」(1958年平壌朝鮮芸術出版社刊)に記された文面から女史の人格を窺う事が出来る。

「我が朝鮮舞踊芸術も今日、世界舞踊芸術の最高峰に立っ事の出来る栄光を持つ事になったと私は思います。我々の先祖が残してくれた美しい朝鮮舞踊芸術を受け継ぎ、世界舞踊芸術で価値あるものを広く受け入れて、新しいものを創造する事で我々は朝鮮舞踊芸術の新時代を開く事が出来ると私は見ています。

ここで発表する舞踊基本は、私が三十余年の間、舞踊生活をしながら我々の舞踊で失われたものを探し出し、弱いものは強くし、ないものは想像することで我が朝鮮舞踊芸術の復興をもたらして見ようと念願し、創作したものです。

誇り高い我が人民は、私がこの基本を作るにあたっても、立派な教師であり、また世界人民は立派な幇助者でありました。

私は我が国の津々浦々と、全世界数十力国を回り、広大な人民達の中で無尽蔵な舞踊の宝箱を見、私はそれを思い切り学ぶ事が出来たからです。

この本で発表される舞踊基本が、我が国舞踊芸術のより輝かしい未来のため、さらには世界舞踊芸術の大きな発展と多様性の為に少しでも寄与するなら我々にとって大きな幸せとなるでしょう。」

両班的高貴なる自尊心、天才的な文学と音楽の天恵が光る。芸術至上主義者、政治との芸術分離論者、東洋舞踊論者としての強固な思想が根底にある。韓国舞踊の基本動作を作定し、韓国の近代舞踊と現代舞踊を繋ぎ朝鮮の伝統にこだわらない、理想と方法によって新しい舞踊芸術を創造確立した根拠が、この書に良く表されている。

艶麗なる舞踊の影には血の滲む練成と精進がある。崔承喜の舞踊には喜びの中にも一抹の哀愁が漂っている。そこには朝鮮民族の匂いと生活感情が表れている。古きものを新しくして弱まったものを強め、滅びたものを甦らせ、東洋の大きな民族性を一層誇らしく生き生きとした息吹を誇示している。

7.崔承喜の生

韓国創作舞踊の先駆者・崔承喜は植民地時代には民族の花、世界的舞踊家として評価されたが植民地時代と解放、そして民族分断という歴史の渦の中で親日芸術家、北朝鮮へ渡った舞踊家という理念的な軛をつけられ、きちんと評価されていない芸術家であるのが口惜しい。

 崔承喜が石井漠に師事したのは大正15年、13歳の時であった。やがて大輪の花は開き、自ら主演した映画のタイトルは「半島の舞姫」。戦時の1994(昭和19)年、1人で帝劇を20日間満員にしたという話も残る。

中国で終戦、解放を迎えた崔承喜は、進歩的文学者であった夫・安漠の勧めに従い、1946年に北朝鮮へと渡ることになる。52年に功勲俳優、55年に人民俳優、舞踊家同盟中央委員長に就任し、57年最高人民会議代議員になるなど躍進を続け、金日成の寵愛を受けて「崔承喜舞踊研究所」を開設し後進の養成と民疾舞踊劇の創作に力を注いだ。

ところが、その後は悲惨な末路を辿り1967年、突然に家族と姿を消す。あまりに突然すぎる失踪。最も信憑性ある説は「政治的粛清」といわれ、69年8月にその生涯を終える。

2006年11月27日、崔承喜の故郷ではどのように顕彰されているのかと気にかかり、江原道洪川郡を訪ねた。

郡守と面談をし、ここが生誕地であるという場所に案内を受けた。そこには道路脇の雑木に「崔承喜生誕地」と書かれた案内板が吊るされているのみであり、愕然とした。韓国の生誕地である地元の扱いは余りに寒々しく、寂しいものだった。

8. 終わりに・芸術はイデオロギーを越える

崔承喜の解放(終戦)後にまつわるエピソードは東西の冷戦による韓日、朝日との歴史的な関係により数奇な運命を歪められ、悲劇に彩られている。

不幸な歴史に翻弄されたその姿は、在日に生きる私は共感と哀感を抱かずにはいられない、愛おしき人物である。彼女の名誉のため誇りのためにも、彼女が生きた時代とその足跡を検証してみる必要があると思うのは、同時代を生きた我々の名誉のため、誇りのためである。

崔承喜自身が「政治と芸術は分けられなければならない」と言ったように彼女の芸術世界に対する評価が、政治的、理念的な物差しにより歪められてはならない。

私は「世界を舞台に朝鮮の伝統舞踊を発信した世界人としてみるべきだ」と主張する。イデオロギーに翻弄されながらも踊り続けた崔承喜は、踊りでイデオロギーと闘っていたのだ。

舞踊で表現するのが彼女の生の全てである。その表現は政治によって大きく制限され、その軛から逃れることが出来ない運命の人だった。国境とイデオロギーを超えた彼女への真の「再評価」はこれからである。

崔承喜の芸術活動の足跡と崔承喜が生きた時代と民族史を知る事は我々にとって重要な事である。

世界の文化芸術人から賛美賞讃され「半島の舞姫」と称された舞踊家崔承喜 (1911年11月24日―1968年8月8日)は朝鮮が生んだ世界舞踊史上に咲いた唯一無二の華である。東洋の心を舞踊で表現し革新的にして世界を魅了したユニークな天才舞踊家であった。

過酷で激動の韓日の歴史の狭間を、どの様にして世界に認識されるまで芸術の境地を開拓したのか。新しい芸術とは何かと追及していった崔承喜の足跡はドラマティックであり、依然として多くの謎に包まれている。

しかしながら、頑として動かない事実は、古典と伝統の民族的舞踊と現代舞踊のモダンダンスを融合したジャンルの創作舞踊を確立した現代朝鮮舞踊の発展に尽くした先駆者であることである。

物質的な満足と欲望の追求のみに執着するなら、私たちの未来はどのようになっ ていくのだろうか。最終的には芸術、そして人類愛のような価値ある献身のみが私 たちの心の中に、また他の世界に向けた「希望の歌」になるだろうと私は信じる。人間は有限なる生を生きる。そして誰かの記憶の中に生き残って存在し続ける。

崔承喜は悲劇なる一生を終え、長い間、南と北の両国から忘れられてしまったが、伝説的な舞踊家•崔承喜の芸術に対す る夢と情熱は、私たちの心の中で永遠に記憶され生き続けるだろう。

時代の矛盾の中で時代 を先行した舞踊家であり、人間の矛盾と限界の中でも挫折しなかった不屈の芸術家である。

芸術はイデオロギーを超える。崔承喜は世界的な芸術家である事を再認識する事が我々にとって有意義なことである。崔承喜の世界同胞主義を理解し、植民地時代の苦しい時代を生きた朝鮮人の自尊心を高めてくれた崔承喜を今日的に再評価すべきと思う。

崔承喜の業績と芸術世界に対する、研究と再評価はつまり、韓国の現代舞踊の歴史とアイデンティティーを正しく確立することでもある。

一方で一般の人に植民地時代に世界的な舞踊家として活躍した崔承喜の存在と価値を知らせ、教えることは、即ち韓国の文化芸術の優れた点を伝え、祖国への自負を高めることでもあるからだ。

いつの日か北での全てが明かされる日が来るのだろう。その時、崔承喜の生涯が完結するであろう。朝鮮が生み、日本が育てた天才舞踊家・崔承喜。良き歴史として永遠に記録されるだろう。

御清聴頂きありがとうございました、