2004年9月、武蔵野美術大学加藤昭男名誉教授制作の太陽をモチーフとする銅像「明日の太陽」を、母校である秋田工業高校に寄贈。同作品を韓国の朝鮮大学校にも寄贈。

「明日の太陽像」に祈りを込めて

彫刻家 加藤昭男先生と(2004.1.10岐阜県美術館にて)

この度母校・秋田工業高等学校創立100周年を記念して「明日の太陽」ブロンズ像を寄贈するにあたり、私の恩師松田幸雄先生、山方攻学校長、東海林正隆・創立記念事業実行委員会委員長様を始めとする学校及びPTA、生徒会役員並びに実行委員会の皆様、同級生の近藤収君、そして彫刻家加藤昭男、鋳造家岡宮紀秀両先生の御臨席の元に除幕式が執り行われましたことは、私の大きな喜びとするところです。
明日の太陽像設置にあたり工事を請負われました株式会社瀬下建設並びに株式会社寒風の皆様にはご苦労をおかけしました。
2002年7月、お盆のことです。東京地方は7月15日がお盆です。父の墓参りの帰り道に、私が住んでいる川口市の岡宮美術鋳造の工場で「明日の太陽」の作品を製作していた加藤先生と偶然にお会いしました。私はその作品を見て閃きました。太陽に向かって一番鶏が「おはよう」と元気よくあいさつしている。
今日一日一生懸命働くぞ。勉強するぞと太陽に誓っている。そして太陽の恵みに感謝している。なんと健康的で 前向きな姿であろうか。勇気づけられる、励まされる、平和なる祈りの像であると感じたからです。
この作品を母校の創立100周年を祝うモニュメントにしたら良いのではと心に止めたのです。それは電撃的な直感でした。その作品との出会いは芸術がもつ感性がもたらしたものであると思います。
私は1991年に生保内小学校中庭に「陽だまりの像」1986年に生保内中学校校庭に「憧撮の像」と、母校の記念すべき年にモニュメントを寄贈しました。2003年春になって韓国朝鮮大学校から美術学名誉博士の学位を授与して下さるとの報せが入りました。私の最終学歴は秋田工業高等学校卒業ですが、私の母国である韓国の大学から私の業績が認められ、このような栄誉を賜ることは、大変光栄なことであります。

朝鮮大学校の「明日の太陽像」

そこで「明日の太陽」像を秋田工業高等学校だけでなく韓国の朝鮮大学校にも報恩の想いを込めて送ろうと決心するまで時間はかかりませんでした。
戦後まもない昭和23年に大阪から田沢湖町に移り住みました。当時は食糧も乏しく、みんな貧しかったけれども助け合って生き学んだこと、秋田での子供時代、学校時代が今の私を育んでくれたと思っとありがたいことでありました。
特に私に美術の世界を開いてくれ、人生の出発点となったのが秋田での学生生活であります。また私は日本で生まれた在日の韓国人でありますので、私の父母の故郷である韓国の大学とが「明日の太陽像」で結ばれ日本と韓国とが近く親しくなって友好交流がなされ兄弟のように仲良くなることを願ったからです。
すぐに両校へ同じ日に、後に続く研究学徒に未来への希望と活力を与える象徴として「明日の太陽」像の寄贈意思を書類で送りました。それから10日後に両校からの寄贈受諾の返事が全く同じ日に届きました。この日は私の心が通じた幸運な日でありました。
既に朝鮮大学校には昨年の創立57周年記念の日9月29日に寄贈し、本日は秋田工業高等学校の除幕式となりました。本日に至るまでの間、各方面の皆様方にはご指導、ご鞭撻、ご配慮を数多く賜りました。そして加藤、岡宮両先生には物心両面から御後援を頂き除幕式を無事に迎えることが出来ました。みな皆様方の英知と英断、そして先見を誇りに致します。皆々様の温かいご理解とご支援を心からの感謝と、敬意を表します。本日この喜びを皆様と分かち合えることは幸せであります。
先ほど報恩の想いで寄贈する決心をしたと申しました。在学中、恩師や同級生達から、どんなに励まされ教えられたかわかりません。私は秋田工業高等学校を卒業する際に、民族的アイデンティティを持って、自分らしく、人間らしく生きるのだと固く決心し社会に出ました。それは私が在日韓国人2世であり、日本の秋田、この地に育まれた「人間」であるからです。社会に出てからも、今日に至るまで辛いことは数多くありましたが在学中の母校の恩師や友達の温かさは一生忘れることはありませんでした。人生には数多くの難関峠と谷と山があります。どの峠も谷も山も険しく厳しいのが人生であります。恨みやつらみ、不平や不満を持って生きるのではなく、母校から受けたその恩徳に感謝の心を持って生きるのが正しい生き方であると私は自分に言い聞かせて人生の難関を越えて参りました。
特に母校の第9代校長、大井潔先生の恩恵には頭を垂れます。私は卒業間近まで就職先が決まりませんでした。担任の青海磐男先生が大井先生と相談され私の保証人になって下さり、やっとのことで母校の先輩が経営する会社に就職先を決めて下さいました。
大井先生にはお目にかかったことも、教えをいただいたこともなかった私は、先生とはこんなにもありがたく尊いものであると、その時心からの感謝の涙を流し、いつかその恩徳に報いる日を祈って今日この日を迎え心が晴れる思いであります。
「人に施せども慎みて念ふこと旬れ。施しを受けなば慎みて忘れること旬れ」弘法大師空海様の教えを、その時実体験として学んだのであります。父母祖国、故郷母校、恩師、友人、後輩達に報恩のメッセージを、母校に、この「明日の太陽」像寄贈に込めたことは人生の選択のーつとして正しかったものであると確信します。
「子供の頃日の出に向かって手を合わせ祈っている人の姿を見かけたものだ。輝きを増しながら地平線から昇る朝日に限りない力と神秘を感じたからだろう。この頃の日本は少し自信を失い、希望と活力に欠けているような気がする。明日又昇る太陽のパワーを身につけ、住みよい世界を作ってもらいたいものと念じつつ、製作した。」と作者の加藤先生がメッセージを下さいました。私もそのように念じてやみません。
また私の母は現在85歳で健在でありますが、大変信心深い人です。朝起きるとコップに一杯の真水を捧げて太陽に拝礼します。照る日、曇る日関係なく御天道様は有り難いものだといい、今日陽が当たらなかったと言ってクヨクヨするな。今、日陰にいる運でも太陽はグルッと回って必ず照らしてくれるから心配するな。御天道様は、誰にでも不公平などはしない。」と言って、信念のように敬虔なお祈りをします。そして「悪いことだけは絶対にするなよ。全て御天道様はお見通しだからね。」とロ癖のように私達子供を戒めました。
母の祈りと願いはただーつ、子供達や孫達が皆健やかで無事でありますようにということ。忍耐と努力こそが幸せを掴む原動力であると母の祈りは有り難い限りで頭が下がります。明日の太陽像は母の祈りでもあるのです。決して人生を諦めてはいけないよ。挫けず、堪えて忍べ、親が子を想う愛の心が秘められているのです。
彫刻の台座は韓国の花崩岩、赤御影石を選び韓国で製作いたしました。母校が「明日の太陽」像を通して、私の祖国である韓国と朝鮮大学校との緑を結ぶ機縁となることを願ってのことです。
在学中に多くの想いでを作り明日の太陽像を記念のアルバムに残されますように、明日の太陽像を愛し、皆さんの心のシンボル、支えとして下さることを祈ります。
朝の登校のとき、タ方の下校のとき、元気よく「おはよう」、「さようなら」と声をかけて下さい。そして悩みや苦しみがあったとき、そっと明日の太陽像に向かって、心を打ちあけ、語りあって下さい。きっと皆さんに勇気と希望を与えてくれることと私は信じています。
本日、私が皆様に話しましたことをまとめます。これは65年間今日まで生きた私の人生の悟りでもあります。
まず、感謝の心を忘れないようにということです。父母に、先生に、母校に、故郷に、社会に、そして今生きていることにであります。

秋田県立秋田工業高校創立100周年記念式にて遠藤幸雄(1937-2009)先輩とともに 2004.10.1

次に忍耐、努力することが人生を豊かにし、幸せをもたらしてくれると言う事です。くじけず日々、一歩ずつ前に進んでいく心がけこそが大事であるのです。
そして、青春の時、青春時代に大きな夢を描き希望を抱くことはこれからの人生の道標となることでしょう。
どんなに遠大なる望みでも自由であなた方のものなのです。明日の太陽像はみなさまを温かく見守ってくれるでしょう。そして皆様の頭上に輝くことは間違いありません。
後輩達が質実剛健の校訓の下、歴史と伝統を受け継いで、文武両道の気概を発揚され工業教育を先導する世界の中の名門校として、母校が明日の太陽に向かって更なる躍進と発展を祈念します。母校の創立100周年を心より祝賀申し上げます。

(2004・9・22秋田県立秋田工業高校にて全校生徒に明日の太陽像披露講演)

光州で朴栖甫画伯と共に(2002)

光州で歌手金蓮子と共に(2002)

 

ー母校の卒業証書ー

潮のように引いては打ち寄せる、そして泉のように湧き出ずる母校の思い出。ほろ苦く、切なく、やるせなかった青春期の感傷もまんざらではなかった。今、六十代の生を歩むものには郷愁となって懐かしさが募るばかりだ。私の処女出版「望郷-二つの祖国」に、中学時代からの親友、直木賞作家の西木正明君が一文を寄せてくれた。「人間の記憶には二種類あって、時間の経過と共に薄れていく記憶と、逆に過去を埋め尽くす渤々たる時間の中で、ますます輝きを強める光芒のような記憶がある。」という書き出しで始まる。それは「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ去ることの虚しさよ。」で始まった菊田一夫作「君の名は」のナレーションが同時に甦り、重なる。「忘却」など我が辞典にはないと言えるほど母校の「記憶」は今も新鮮で温かい。
私が秋田工業高校に入学した理由はラグビーの名門校、質実剛健の校風への憧憬もあったが、社会に出た際に働いてお金を稼ぐための役立つ技術を身につけたいという単純な動機からである。当時我が家にはラジオも冷蔵庫もなかった。日々の生活の切実さから貧乏からの解放、そしてもっと良い世界へ行きたいという願望、現実的な考えが入学に繋がった。私の入学式の日の記念写真に父の肖像が一枚だけアルバムに残されている。息子の晴れの日に唯一人だけノーネクタイのジャンバー姿、労働着で写っている。私はその姿を見る度に父母の愛の有り難さに頭が下がる。
生保内から秋田まで3年間片道3時間、往復200キロの列車通学したことは良い思い出である。蒸気機関車の躍動は心臓の鼓動のように感じ日々生きているという実感を味合わせてくれたからだ。「雨にも負けず、風にも負けず・・・そういうものに私はなりたい。」と祈りながら、生きた実感を味わったことは誰よりも果報者であったと思う。
私は中学時代から絵を描くことの楽しさに目覚めていた。高校に入学して絵画部に入ろうとしたが当時、部はなかったので担任であった松田幸雄先生に部創設の相談をした。級友からは絵画部は質実剛健の校風にそぐわない、女々しいと蔑まれたが、すぐさま三十余名の入部者が集まった。当時、全校で女子学生は3名いたのだが、その全員が入部したものだから羨望の的になったものだ。
1986年、松田先生が母校の19代校長に就任されたので表敬訪問をしたことがある。その時、絵画部部室に案内された。50坪以上もある部室で制作に勤しんでいる後輩を見た時、誇らしさと嬉しさを隠すことが出来なかった。私の時代には十坪にも満たない物置のような部室であったからだ。絵画部創設は工業高校でありながら、文化部が活性化する時流を作り、部活動全体の価値を高める実績を挙げ得たと今も誇りに思う。部長を引き受けて下さった斉藤靖雄先生は卒業後も毎年年賀状に干支を描いて下さり亡くなられるまで私を励まして下さった。その証は額装されて今も私を見守り私の心の糧となっている。
1959年、この年は鍋底景気と称される大不況で卒業間際まで私は就職が決まらなかった。担任の青海磐男先生は品川にある、母校の先輩が経営する会社を就職先に決めて下さった。数年経ってその時の身元保証人が第九代大井潔校長であったことを打ち明けられた。それまで大井校長の存在を私は知らなかった。影で支えて下さった恩師と母校の温かい配慮を有り難く思ったことを私は生涯忘れられない。
松がとれた今年の1985年の正月10日、私は文京の白山にある故大井潔先生宅を訪問した。先生のお宅は歴史のある緩い坂道を上り詰めた所にあった。古きよき時代の香りが感じられる風情ある存まいが印象的であった。
通された奥の間に飾られた祭壇の遺影が、先生との始めての出会いであった。私が二十数年来抱いていたイメージ通りの慈悲深いお顔で、明治人の気品が強く感じられ、初めてお会いしたとは思われなかったのが不思議で感慨深かった。
一九五九(昭和三四)年この年は鍋底景気と称された大不況であった。高卒までの二年間を担任された青海磐男先生は私の就職問題で最も心を砕いて下さった恩師である。卒業間際まで就職が決まらず不安な状況の私のために、大変なご苦労をなさった。
恩師の配慮の下、品川で母校の先輩が経営する会社を就職先と決めて下さり母校を巣立った。必死な旅立ちは真撃そのものであった。
会社の社長はとても親切で、真綿を包むように大事に迎え指導してくれた。しかし仕事が、私の苦手とする設計のため、一週間で辞めてしまった。その間先輩からは、秋田での生活では口にしたことのない力ツ井や寿司など昼食にご馳走になりながら、思いやりや気遣いなどを理解する余裕もなかった。今考えると恩師の暖かい配慮も意にせず、無謀な夢を追っていたのである。
私が独力で自分の意に沿う就職先を捜して落ち着いた頃、青海先生から、「実は君の就職先は、先代の校長先生である大井潔先生が身元保証人になって下さって決まったんだよ。」と聞かされた。
それから私は大井先生と年賀状での挨拶を続け、いつか直接お会いして御礼を申し上げようと念願していた。ところが、1984年の暮れ突然計報が届き、わが身の不徳と不明を悔ゃむこととなってしまったのである。先生は敬度なクリスチャンであり、晩年は老人問題にも取り組んで、研究、指導者として活動されたこと、また遺言により献体をなさり、医学の発展にも寄与されたことを知り、改めて尊敬の念を強くした。
終戦後、秋田工業高校の校長として赴任されたが、官舎がなく家の中まで吹雪が舞い込む借家生活、寒さの中で衣食にも不自由されたことなど、奥様が秋田での生活を懐かしむように語られた。私との人生の良き因縁を殊の外喜ばれたので、救われたような思いがした。
創立当時の先達たちの血の惨むような苦労を知り、その恩徳が母校の伝統となって、後に続くものに大きな力となっていることを痛感させられ、感謝の念を深くした次第である。振り返ってみれば秋田工業高校の三年間は、私の人生にとってかけがえのない青春であった。師や先輩達の目に見えない大きな愛で生かされていたこと、また陰となって温かく励まされていたことを感じるのである。
大井先生との一期一会の出会いに感謝し、私の心に残して下さった多くの誠を噛み締め、御冥福を祈って遺影の前を辞したのであった。
卒業式間近になった頃、青海先生は「君の卒業証書のことだが、本籍と本名をどう書けばよいのか。」と尋ねられた。人生は転機、節目があるものだ。私は本籍を「朝鮮」、本名は通名の河本正雄ではなく「河正雄・ハジョンウン」と書いて下さいと即座に答えた。
私が生まれた1939年は第二次世界大戦が勃発し創氏改名が法制され、強制連行が法的に強行された歴史的な年である。戦争と植民地政策の苦痛の中で祖国の運命に翻弄されながら、その歴史と記憶を忘れず平和に拘り続けて生きてきた。
社会に出たら朝鮮人としての「根」を隠さず、人間的に文化的に生きていこうと、人格宣言をしたのが母校の卒業証書である。
母校が一人一人の人格の完成につとめ、全地球的観点から人類の幸せのために日本や国際社会に貢献し工業界の発展に寄与する人間の育成を教育目標に掲げていることは頼もしいかぎりだ。世界に迎えられ、世界に雄飛する人材の育成に挑む教育理念を持ち、発展していく我が母校を誇りに思っている。

通学当時(昭和31~34年)の秋田駅前の風景