甦る秋田への愛
河正雄
―はじめに―
人の進む道には天が導く大きい道があり、 必ずそこへ帰するものとの思いがある。天とは運命と言って良い。
従って自己の意志で進むが、 その結果がどうなろうと全て自分のものとして受け入れる。その運命を受け入れる事が天を敬う事に繋がる。
人を愛する事は人を許し共に歩む、この心が大切であるという信念から出発している。
愛の形は実に多種多様であり、飽きる事無く表現されて良い。その全てが生きる喜びの価値を持っている。
愛は生きる動機や、意味と意義、希望と夢を与え、人生を豊かに育んでくれる尊いものだ。
これまで多くの出会いと別れを経験した。信じた事も裏切られた事もあった。そして家族や友人、知縁を多く失い見送って来た。
愛する人を失った悲しみが消えないのはどうした事だろうか。その思い出と悲しみを、どこへも持って行き様の無い喪失感。思い出は熱く疼き、その身を抱きしめたいと思う想いは消えないのである。
究極的には人を大事にする。人を愛する事に尽きる事だけというのに、そう在り続ける事の困難さは、筆舌に尽くし難いものがある。
人を愛する事は、愛しか語れない寂しさと貧しさがあるという事に思い当たる。今は私に残された時間を使い、愛以外に自分の価値観や物の見方、何を大事に考え、今をどう生きるべきなのか、語り遺す事に情熱を燃やしたい。
人にはそれぞれの境涯がある。喜びも悲しみも歳月は語り流れ行く。恨(ハン)とは恨みごとではない。心に食い込み骨の髄に染み透って忘れられぬ想い。
恨(ハン)についての想いは凄味がある重い内容だ。通り一遍ではなかなか理解出来ないが、三度聞けば心に染み入り判る事だと思う。
私達の前途には未来への希望がある。希望を失わないために過去は忘れ去ってはならない事である。過去が次代を造り育てることの大事さを心していきたい。
―42才の祝い―
「この度、生保内中学校同期生より1981年1月2日御町における「42才の祝い」の案内状を頂きました。私は終戦後、生保内小学校に転校し1956(昭和31)年に同中学校を卒業致しました。
秋田工業高校を経て1956(昭和34)年より川口市において社会生活を営み、現在に至っております。
思うにいろいろなことがありましたが、どんな時でも少年時代の生保内のことを思わぬ日は1日もありませんでした。
私は在日韓国人2世でありますが、いつしか私の故郷は生保内であると思うようになりました。私の趣味は美術で少年時代より、こよなく愛しております。
その私の故郷に「42才の祝い」を記念して美術出版社発刊全図書171冊を田沢湖図書館へ、同社「世界の巨匠シリーズ55冊を生保内中学図書館に寄贈致します。
町の文化向上発展に少しでも寄与出来ればと思い、ささやかではありますが私の感謝の心を受けて頂ければ幸いです。田沢湖町の発展を心より祈っております。
1980(昭和55)年11月20日
田沢湖町長 千葉広善様」
1982年開館した田沢湖町立図書館には「河正雄文庫」がある。「42才の祝い」が契機となり、毎年贈り続けていた蔵書が充実した文庫となってきた。
私の好きな美術書、文学、哲学書、朝鮮・韓国関係書など広く収められている。特に10周年を記念して贈った平凡社刊「東洋文庫」は特に一読をお勧めしたい。知識の宝庫である。
私は高校卒業後、故郷秋田へは足を運ぶことがなかった。運ばないのではなく運びたくなかったからだ。幼かりし時のこと、学生時代の苦悩の体験、寒さと冬の暗く悍ましい日々の営みと飢えから来る赤貧で苦しんだ生活が脳裏をよぎったからだ。
故郷を忘れたい、思い出したくない心境だった。学び舎、恩師や友、故郷などを顧みる余裕すらなかった。今生きる為の戦いの日々を送っていたからだ。
30代の時、過労が原因で夏風邪を拗らせて寝込むようになってしまった。3か月間、起き上がる事さえ出来なかった。数年の間、いろいろな病院を訪ね、歩いては漢方や鍼灸など体に良いと思われるものは全て試してみたが一向に回復しなかった。
1975年、悩み苦しんでいる時に父が突然亡くなった。そのショックは弱っていた私に追い打ちをかけ、精神的にも立ち上がる気力を失ってしまった。事業への意欲も失った私は家業の電気店は末弟に譲ることにして、治療に専念することにした。
見兼ねた医師が「生体矯正マッサージを紹介するから受けてみないか。君のような症状には現代医学の治療よりも物理治療の方が良いかもしれない。」と助言してくれた。
藁にも縋る思いで治療を受け始めた。6か月が経過した頃から「生気」「精気」が蘇って来た。愁眉を開いて再起する事が出来たのは、神の加護のおかげではなかろうかと思った。
10年間周りのものに心配をかけ続けた。とくには母や妻には計り知れない苦労をかけてしまった。母はこういう場合には「神に縋る他にはない」と、私には内緒で巣鴨地蔵や成田山、祈祷師などに祈りに廻ったようだ。
「神仏は信じるけれど縋ることは筋違いである。」とその時、私は怒ったのだが、今にして思えば親や妻の心知らず、というものだったと反省した。
そんな折に、生保内中学校9期生「42才の祝い」の知らせを受けたのだ。1956(昭和31)年多くの同期生は上野行きの就職列車で旅立った。私も1959(昭和34)年、鍋底景気不況の真只中に秋田を旅立った。当時、東北出身者、地方の中学、高校卒業生は安い労働力として金の卵ともてはやされ、故郷を離れ去ったのだ。
私達は、この繁栄した日本社会の基盤を支え経済大国となった今に大きく寄与、貢献したといっても過言ではない。
私は通知を受けた時、何の「祝い」であるのか判らなかった。それは生保内神社での厄払いの慣習行事であった。中学卒業後、20数年振りに同期生が一堂に会し、国内に散り散りになっていた同期生が再会を喜び、母校に恩師に感謝した。そして、その間に不幸にも亡くなられた友を東源寺で法要し、供養塔を建てる意義深いお祝いであった。
私は少年時代、異常なほど本に憧れ読み漁った。当時、図書館や学校の蔵書は乏しく物足りなかった。そんなことで学校の帰り道には必ず町の竹内書店に寄っては立ち読みしたものだ。
本屋の主人は炬燵で背を丸くしながら「また来たか」とばかり眼鏡越しにジロリと睨み付けては立ち読みを許してくれた。
中学時代に新刊書や月刊誌を手に入れるために私は新聞配達のアルバイトをして心ときめく思いで買い求めた。野口英世の功績、クラーク博士の「青年よ大志を抱け」、ガンジーの無抵抗主義などの伝記で学び感銘を受けた。私はそれらの多くの本から心理と啓示、ロマンと夢と希望、そして好奇と探求心を育んだ。本の偉大さと尊さは、知識が人間を作るというかけがえのない宝石のように思った。
私はこの42才の祝いの通知を受けてから転機とも言えるほどに人生観が変わった。この日まで生きて来られたことの意味が何であったのかを悟ったからだ。
「42才の祝い」が縁となって社会に奉仕すること、感謝する事の意味を確認させてくれた。報恩の思いから寄贈し続けているのが「河正雄文庫」の全てである。
―秋田には友がいる―
秋田には美味しいお酒があり雅香(がっこ)がある。そして秋田美人が迎えてくれるので旅情この上ない。そこへ同級生や同窓生が集まれば座が拡がるばかりで、時間が停まってしまう。
恩師が登場し、母校の近況が報ぜられ、青春を共にしたクラスメイトの思い出話に花が咲いた時ほど、人生の至福はないものだ。
皆苦労して来た。皆努力して来た。皆見事な誇るべき人生を生きて来た。ひとりひとり、どの顔も立派というほど慈愛深い。歩んだ道に共感と感銘がある。私が愛する秋田には、社会に寄与貢献しているこんなに素晴らしい友がいる事を、私は自分の人生の糧として生きている。
2004年6月6日生保内中学校の同期会を松島で開催した。円通寺の庭を鑑賞してから、瑞巌寺の山道を同期生達と語り合いながら歩いていると、観光客の大学生と思われる3人連れが腹を抱えて笑いながら通り過ぎた。
私は大学生達に「何がそんなにおかしいのか」と問うたところ、私の同期生達のズーズー弁の会話がおかしかったのだと言った。
そこで、その大学生達に「私達が話していた言葉はどこの国の言葉か解るか」とからかい半分で質問すると「解らない」と答えた。「その言葉は日本語で秋田の方言なんだよ。」と教えてあげると驚いたように「へえ、日本語なのか」と初めて解ったと言って真面目顔で返事をしたものだから逆に私がおかしくなって一緒に笑ってしまった。
その前夜、気仙沼三陸海岸のホテルでの宴会は、同期生達は秋田弁丸出しでの会話が弾み、秋田の方言の流れに身を委ねていたため気にも留まらなかった。しかし早朝、同期生達の会話で目を覚ましたのだが耳を澄まし、その会話を聞き取ろうとしても、会話の意味が良く理解出来なかった。
地元産で根っからの秋田人である同期生達のズーズーとなまる秋田の方言は、今では地元でも珍しがられる生粋の秋田の方言であり、もはや天然記念物とも言えるほどのものである。
私は秋田田沢湖町で18年間を過ごしたけれど、未だに秋田の方言は難しく完全には理解出来ずにいるが、この言葉の文化は大事なものであることを今は知っている。
―雪の秋田 心の故郷―
激動光復50年の「恨(ハン)」を、鄭一成は、悲しいまでに美しいロマンの映像で撮る。時代を代表する珠玉の作品群は、不死鳥のように韓国映画の名声と存在を蘇らせた。韓国映画界はカメラマン鄭一成の名と共にあると言っても過言ではない。
生命の息吹である雪、深々と激しく、ときに優しく降り積もる。一切のものを全て包み込んで「無」に帰す情念と浄化の世界。秋田の冬、自然は厳しく人間の温かみそのものだ。
私は人生の深淵に臨むわらび座への旅を鄭氏と共にした。1995年、第4回あきた十文字映画祭韓国映画特集のゲストとして、秋田を初めて訪れた鄭氏はわらび座公演「海からのおくりもの」を鑑賞した。凄烈なる胸の鼓動は熱誠の涙が潮となって心を敬虔にすると述べた。
そして「あなたがたは神の仕えのようだ」と合掌した。わらび座は両手を麻輝させ感覚を奪う。私にとってはオゾンとミネラル。気力を充実させてくれる仙郷なのだ。
戦後50年の節目にあたる年の7月、韓国での「アジア国際舞踊フェスティバル」に日本を代表して、わらび座がソウルで公演することに決まった。日韓文化交流の慶事だ。伝統民族芸能のルーツを共にする世界の人々が、友情と親睦を深めるまたとない機会で意義深い。
韓国民は、わらび座の公演を歓迎し、成功に導き感動を分かち合うであろう。理解は分かち合うことによって深まるからだ。わらび座のメッセージを真摯ににキャッチ、多くのものを学び共感し友好の絆を結ぶことであろう。
「雪の秋田のわらび座、永遠に忘れることの出来ない心の故郷に出会った」と、旅の終りに鄭一成はしみじみと語った。
―わらび座と私―
我が家の祭祀(チェサ・法事)や慶事の御馳走の1つになくてはならないものが「わらび」である。
戦後まもなく移住した田沢湖町生保内での生活は村民達も貧しかったが、我が家は殊の外貧しかった。
私は春になると父母とわらび採りに高野高原によく出かけた。そこはわらびの宝庫であり、小指ほどの丸々と太ったわらびが平原一体に生い茂り、5月の陽光を受け爽やかな風と共に鶯の声が、谷間から聞こえる楽天地であった。
採取した背負い切れぬほどのわらびからは、仄かに山の香りが漂い、ほのぼのとした温もりが伝わる。わらびが食膳に並ぶと貧しさなど忘れるほどの幸福を感じたものである。
わらび座は1951年、戦後間もない焼野原の東京で、活動を開始した。朝鮮戦争の勃発を契機に、二度と軍備を持たないはずの日本であったが再軍備が進められた。戦争反対と民族独立の歌声を上げたのがわらび座の出発点である。日雇い労働者の作業現場を巡回する移動劇団の中心演目は、許南麒の詩を元にした「朝鮮冬物語」であった。アリランやトラジなどの歌や踊りに、在日同胞達が声援を送り拍手を惜しまなかったのがわらび座である。
わらび座が私の故郷である秋田県仙北市田沢湖町に移り定住して2021年に70周年を迎える。わらび座との御縁は生保内小学校六年の時(1952年)からである。板の間の体育館で正座して観たのが縁である。
それは田沢湖に本拠を構えたばかりのわらび座の移動公演であった。当時芸能に触れる機会が少なかったので、お盆の時など生保内神社や中生保内神社の神楽殿で舞うわらび座の公演が楽しみの一つであった。私が文化の香りを身につけたのがわらび座との出会いであった。
風土に生きる人間のいのちの輝き、自然への讃歌と祈り、収穫の喜びを鼓舞し励ます芸能であった。
わらび座と私が再接点を持ったのは1990年9月23日、田沢寺に於ける「朝鮮人無縁仏慰霊碑」の除幕式に列席したわらび座民俗芸術研究所の茶谷十六氏と親交を持ったことからである。
1993年3月26日、私は早春のわらび座を訪ねた。40年の月日を経て秋田に根づいたわらび座は、200名の座員を擁する民族歌舞団として国内外で芸能を広める、文化活動を展開していた。約10ヘクタールの広大な敷地の中に、劇場、稽古場、制作場(大道具・小道具・衣装)と民俗芸術研究所、木工工芸館、化石博物館などが建ち並び、座員の住宅や食堂、子供達を育てる保育所、学童寮、更には350名収容のホテルと温泉施設「ゆぽぽ」を経営していた。
1974年、全国700万人の人々からの募金によって建てられたという「わらび劇場」は間口21メートル、奥行20メートルの巨大なステージを持ち、80名の演奏者を収容出来るオーケストラピット、上手、下手に合唱隊ステージ、さらに2本の花道が備わっている。民族歌舞劇の創造を目指すというわらび座の芸術精神と志を具現した城である。
わらび座のロビーの一角に純白の大理石に刻まれた、創立者原太郎氏の揮毫が掲げられている。
「山は焼けてもわらびは死なぬ」
その簡潔明瞭な言葉に、わらび座の創団精神と70周年の歴史の営みが象徴されているように思う。
1995年、私は父母の故郷韓国光州市で開かれた東洋で初めての国際美術展「光州ビエンナーレ」の祝祭行事にわらび座を招待した。韓国で戦後初めて、海峡を越え日本の民俗芸能である踊りや太鼓が響いたのである。私の人生には数々の出来事に節目があった。韓国でのわらび座公演の実現と成功は、最も輝かしい一頁として大きな比重を占める誇りである。
わらび座は2002年ワールドカップ日韓共催を祝し、国民交流年を記念しての朝鮮通信使を題材としたミュージカル「つばめ」(韓国名チェビ)をわらび座劇場で101回公演(2002年8月25日~2003年1月26日まで)をした。
明治以来、日本は江戸時代を「鎖国」の時代と教育した。実は江戸時代に朝鮮とは国交があった。日本に派遣された文化使節団朝鮮通信使による「通信」即ち外交関係があった。そして貿易があった史実が近年になって認識を新たにし韓日関係が見直されるようになった。通信使は儒学や韓詩文、山水画、人物画、即興画、医学の知識など学問的知識の高い文化を伝播し日本文化発展に寄与した。日本民衆は使節の一行から多くのものを学んだ。異文化体験を通し野蛮な国とか、朝鮮人蔑視の偏見を正していった。朝鮮通信使は文化交流と相互認識を深めた歴史的な文化遺産である。
「つばめ(チェビ)」は吉鳥で、一年を通し共に行動する鳥である。春には前年の古巣に帰り、国と国を懸け自由に行き交う。韓日で愛されている縁起ある渡り鳥である。脚本・作詞・演出のジェームズ三木は「400年前の韓国と日本を舞台とした『誠信の交わり』とは何か。」を描きたい。そして「豊臣秀吉によって国土を踏みにじられた朝鮮国は、秀吉の死後に天下を掌握した徳川家康の国交回復要請に応えて、朝鮮通信使を日本国に派遣した。「文」を以て「武」に酬いた朝鮮通信使の心を我が心とし『文』を以て『武』をしのぎたい」とメッセージした。
「誠信の交わり」とは雨森芳洲(朝鮮使節の外交接待役として対馬藩に仕えた儒学者)の理念である。先ず相手を知ること。そしてお互いに欺かず争わず真実を以て交わる誠心である。お互いの文化を尊重し理解することを、友好の基盤とした国際見識の先駆者である。
「つばめ」の舞台は「朝鮮通信使」の壮麗な絵図をバックに幕が開く。朝鮮国から友好の使者として朝鮮通信使がやって来る。名主の半兵衛の歌唱から物語は始まる。通信使の一人である李慶植は饗応の席で、思いがけなく10年前に水死したはずの妻(春燕)と再会する。だが春燕はお燕と呼ばれ既に彦根藩の武士、水島善蔵との間に子を成す身となっていた。慶植と善蔵、二つの愛と二つの国の狭間でお燕は苦悩する。海を越え愛は二つの国を架けるというあらすじである。この公演は2003年、日本各地を巡回し、2004年5月には韓国語(ハングル)で韓国公演をした。
わらび座の「つばめ(チェビ)」公演は、長い韓日友好の歴史を次世代に伝える現代の通信使であった。韓日友好親善関係を飛躍的に進展させ、両国の相互理解が増進する公演となった。
―韓国現代美術展によせて―
最近、韓国の現代美術が欧米や日本で注目され、世界的に脚光をあびている。 しかし、日本ではまとまった形でその動向をうかがえる機会がほとんどないといってよい。
この度、「アジア国際舞踊フェスティバル’93in秋田」を記念して、「韓国現代美術展」がわらび座ホールにおいて開催される。80年代を中心とした韓国現代美術をかいま見る機会に恵まれたことは画期的なことだ。
本展は、韓国を代表とする80歳代の大家から40歳代の新進気鋭作家まで年齢層は厚く、韓国在住作家だけでなく、アメリカ・フランス・日本で活躍中の作家が、 欧米や日本と比べても決して見劣らない高いレベルの作品を見せている。
作品は、展示会場の関係で25点の少数ではある。韓国現代美術を代表する作品が選りすぐられて紹介され、見応えのある展示になっている。なんとも心楽しいことだ。
在日の作家を見ると、全和凰の「苦悩観音」に見る東洋的な宇宙観と宗教哲学の表現、宋英玉の「何処へ」は在日の生活観を滲ませた苦悩の心情と不安を訴えてスト
レートに共感をよぶであろう。
日本と韓国の前衛、アーチストに大きな影響と足蹟を残した現代絵画の先駆者、郭仁植の作品は、光の交響楽であり静寂の美である。宗教の彼岸の世界を現しているようにも思える。
「もの派」の代表、李禹煥の単純明快に視覚化された線の作品からは観念的世界の心の動きが見てとれる。 それぞれの表現は明確な意志であり、 その主張には普遍性がある。
在日二世の時代を荷なうコンテンポラリアの郭徳俊はエネルギッシュに、 日常の中で体験される自己と社会の関係とをするどく見つめた独創的な作品を発表して反響を呼んだ。禅問答の世界に一脈通じているようだ。
韓国の作家をみると、その多様なる表現内容に驚かれるだろう。 視覚的なからくりによる虚構空間を作り出す金鎮石。禹済吉の冷たく鋭利で刺激的な現代文明批判ともいえるような切り込み。
混沌とした情念を感じさせる朴栖甫・鄭相和・河鍾賢・尹明老・崔明永。白を中心としたモノトーン派の絵画は、70年代の韓国美術のもっとも高い到達点として国際的評価を受けている。
彼ら独自の繊細な感受性に支えられた世界のモノトーンの表現とは、「本質的に華麗な色彩を忌避すること、個別的で人為的な体臭を忌避すること」だと、韓国の美術評論家・呉光洙は指摘している。
オリジナリティとは、個別的で人為的な体臭のあくなき追求をいうが、西欧的な創造の概念とは相反する思想なのだ。
高英勲・李相国・金鮮會・黄珠里・黄栄性・崔英勲などの若いアーティストの台頭は、 色彩や具象的イメージを現代的にとらえられ、ニューペインティングの仲間入りを果している。もはやこれまでの概念は崩壊しつつあるのである。
戦時中、日本で学んだ画学生朴成煥・李世得の作品には、その表現やテクニック、作風の情感は日本美術の源流とも相通ずるものがあるのは、ルーツの問題なのだ。
黄用燁はあくなき人間追求の具象的心象風景を描き、人間臭さと、自然との一体感を通して、その温かみに触れることが出来る。
李聖子・卞鍾夏は韓国を代表する元老作家で、共にフランスで学び、その心象風景ともいえる作風は、どこか西洋のセンス、香りを漂わせている。
このように全体的に見てゆくと、現代韓国の美術家の創作表現意図は、物質主義的な世界よりも精神性を重視した世界を重視、具現していることがわかる。
抽象的でありながら観念の世界、内面的心理を表現しているように思われる。数年前、美術評論家の建畠哲は、「静謐さの中にどこか未完の荒々しさを秘める世界」 が韓国の現代美術と語っている。
欧米追随主義の美術界は、今や韓国現代美術に熱い眼差しを向けているのである。このような機会を通じて、相互に刺激を与えあい、お互いの存在を確認・意識しあって交流してこそ発展があり意義がある。
―わらび座の地域文化功労者、文部大臣表彰を祝う会に寄せて―
(1) 秋田・田沢湖生保内・私の故郷
幼少青年期・生きた・私の青春の地
戦前戦後・命を守った・つないだ里
水清く山貴く・うましの里・育みの里
(2) わらび座の苦節・苦難苦行・私の人生の全て
わらび座の喜び・悲しみ嘆き・私の心の全て
わらび座の祈り願い・叫び・私の魂の全て
わらび座の矜持・哲学倫理・私の精神の全て
(3) 私の兄弟・同胞・わらび座
愛と慈悲・希望・わらび座
世界の人々・祝福と拍手・わらび座
永遠なれ・前進あれ・わらび座
(1995.1.28)
―世界の中の秋田―
1959(昭和34)年秋田工業高校卒業の有志が集まる「秋工34金砂会」。1994年7月24日、前年に続いてその会に出席するため秋田に向かった。その前日までソウルに居たが、韓国滞在中は連日集中豪雨で被害甚大、社会問題となる程であった。成田に降り立った日本の空も雨で、梅雨明け宣言はなかった。“こまち”で盛岡を過ぎ、田沢湖に入ると久方振りの真夏の太陽を拝した。
眩しい秋田の山河と田園は緑に輝き、自然のふくよかさは例えようがなく和んだ。祖国韓国の経済はIMF管理下。日本はバブル崩壊後の経済不況下。空模様が一衣帯水を思わせる。社会情勢を暗示して懲陶しい。韓国には病気を治す薬代もないが、日本には入院代もあり余裕があるからか、心なしか日本の空が明るく爽やかに見えた。韓国経済の深刻さ故である。
その夜、会の二次会で繰り出した川反の街並は年々さびれ、灯りも往年の賑わいがなく淋しい。市内の目抜きには空地が目立ち、久保田城のお堀端にあるデパートやビルも閉まっていて元気がない。経済問題は個人の生活は言うまでもなく、国家の基幹と存在を揺がす。今や世界が密接に連動連鎖していることを痛感させられる。
1993年、田沢湖畔で開かれた「世界の中の秋田」というシンポジウムで、宮岡正道大潟村村長と出会った。琵琶湖に次ぐ八郎潟を干拓して日本のモデル農村を目指している村である。
「世界の変化に伴い秋田を活性化させたい。21世紀に向けた人類共通の願いであるクリーンエネルギーの探究とメインテーマにソーラーカー・ラリーを始めます。是非見て下さい。」とお誘いがあった。その夜の懇親会で「宇宙との共存」「地球環境問題への関心を高める」「太陽とともだち」と、大潟村建設の夢とロマンを語った。
翌7月25日、第6回ソーラー大会が開かれるというので大潟村を訪ねた。途中秋田港を通過した。埠頭には碇泊船も少なく、閑散としていた。韓国からの船は秋田からの積荷がなく船のバランスを保つための水だけと説明を受けた。
高校三年の夏、秋田市内の高校絵画連盟会員らと出戸浜で学生会を開き海水浴を楽しんだ。そのとき以来の八郎潟訪問である。八郎潟に浮かぶのどかな幌影と水平線の彼方にある空まで続く潟はどこにも見あたらなかった。秋田を代表し、日本が誇る美しい風景が幻のように消えてしまっていた。取り返しの出来ない愚策に涙した。
出戸浜からの、男鹿半島や寒風山、鳥海山のパノラマは昔そのままに、悠然と自然の厳粛さを保っていた。私の脳裏に焼き付いている負の遺産がよぎる。
1992年のこと、「河さんの故郷である田沢湖周辺の発電所ダム工事などの、戦前の朝鮮人徴用(強制連行)の調査をしている。係る史料や記録があったら調査に協力してほしい」と依頼された。西成辰雄十文字町町長が秋田県朝鮮人強制連行真相調査団員であることを知った。それまで朝鮮人徴用(強制連行)についての秋田県の資料では「その実態は詳かでない」と記されているのみで、知る人は少なかった。
わたしはそれまでに調査した資料を提出した。1994年、西成町長らの努力でが実り秋田県の情報公開となって、その実態が1つ1つ明らかになって来た。
公開された秋田県の資料によると工場、事業所は26ケ所で強制連行(官斡旋・徴用)が5105人、その他合計6759人の名簿が出て来たことで、戦後処理問題が解決されず、課題となっているからだ。
―無関心であってはならない―
考える事は無限で自由である。しかし言うは易しであるが、実際には自由ではないのが現実である。
秋田県から「秋田を日本一住みよい県にするには?」と意見を請われた。筆がなかなか進まなかったのは、その命題が持つ深刻な意味を考えてしまったからだ。政治や経済学者でもない私には、少し重たい命題であった。
私の青春は秋田にある。喜びも悲しみも、切なく苦しかった事も何もかも全てがある。今や老境に入り故郷に置いて来た青春の懐かしさを追想する事は心優しくもなり、また楽しいものである。
しかし故郷が晒されている厳しい風雪を想う時、感傷では済まされない現実がある。故郷の人々が苦難を克服しようと英知を傾けている情熱を想うと、薄っぺらな感傷を抱く者がどう感慨を表せば良いのか苦しかった。
芯のない言葉だけで許されるのだろうかと思考の迷路に陥る。しかし無関心であってはならない。私には故郷の人達と信頼の絆を共にする祈りと「愛」のメッセージを贈るしかない。私の青春にも挫折があった。しかし絶望の中にも夢と希望があったからだ。
―夢と大志を抱け―
私の号は「東江」である。少年時代、クラーク博士の「少年よ大志を抱け」そして「紳士たれ」というメッセージに鼓舞され激励を受けた。
秋田工業高校を卒業する時、級友達との別れの所信を記す寄せ書きをした。私は河の流れのように滔々と生きるのだと「大河の如く」と記した。社会に出るにあたっての青春の決意であり、宣言であった。
父母のルーツである祖国韓国の泉からの流れが小川となり、そして川となり河となって流れていく。その流れは江となり海に注ぐ。人生の到着点を大河の流れでイメージしたのである。
東方の国日の本に生を受けた在日韓国人としての運命と宿命を、身にした人生の出発地が 秋田である。韓国と日本、二つの祖国の故郷を愛し、信頼しあえる兄弟にならなければならない。そして韓国と日本の架け橋になろうと私は夢を描いた。「東江」という号には、歴史と自然の摂理に従う生き方をしようという人生観、私の初心と使命感が刻まれている。
私は見果てぬ夢を描き続けて人生を歩んできた。老いて今尚、目標に向かい輝いて生きている。夢と大志があるから存在感に満たされる。活力を持って前進し続ける事が出来る。青春とは年齢ではないという事を実感している。
―ヘレン•ケラーの光―
ヘレン•ケラーは盲聾唖三重苦の障害者である。秋田での青春期の道筋に光を照らしてくれた敬愛する人である。秋田工業高校には生保内(現田沢湖駅)から秋田市まで、片道3時間の汽車通学をした。
途中駅から乗り込む秋田市の盲聾啞学校に通う生徒達と自然と友達になった。私は彼らから屈託のない明るさと逞しい精神力に励まされ、勇気付けられた。弱者同士が助け合う姿を学んだ。
1982年韓国光州市に盲人福祉協会の設立と会館創設を発起した。その発心のルーツが秋田での障害者達との出会いによるものである。当時、韓国は軍事政権下で自由や民主化されない暗黒の時代であった。
韓国の盲人福祉発展に奔走した私に、韓国社会は政治的意図を持った在日韓国人のスパイである。また弱者を利用しての金儲けと売名を企む詐欺師、偽善者でないかとレッテルを貼った。
時が経ち、韓国は民主国家となった。1982年、光州の盲障害者2人と始めた事業は今や千数百人の会員を有する組織となった。会館が手狭となり、2008年に新築する事となった。私の誠意と善意が通じ至るまでには30年もの月日を要した。
日本人でも韓国人でもない在日韓国人が海を越え、奉仕する事は容易い事では なかった。私は真摯なる誠意と忍耐を以って3倍、いや5倍もの努力を重ねて無償の愛を届け続けた。在日のハンディを乗り越えたからこそ報われたのだ。
この福祉事業に携わり、在日韓国人は韓日の狭間で三重苦に苦しむ生活者である事を痛感した。
この難行を乗り越える事が出来たのは、ヘレン•ケラーが辛苦の果てに掴んだ光である。忍耐と努力に尽きるというヘレン•ケラーの教えによる励ましがあったのである。
―故郷を愛する―
老いて年々と故郷を想う事が多くなっている。私には故郷への愛を定着させる事の出来なかった歴史と時代があったからだろう。
今日、故郷の秋田や韓国の地方が置かれている社会問題は、韓日共通の問題でもある。人口減少と過疎化、青少年の故郷離れ、教育問題、都市と地方との所得格差問題や就職難など、故郷の厳しさは深まるばかりで深刻である。
この文章を書いたのは、釜山市立美術館での河正雄コレクション「在日の花」巡回展開幕式を終え、仁川空港から日本へ帰る待ち時間のベンチである。空港の雑踏の中で故郷に想いを募らせていると瞼が潤んできた。
高校を卒業して社会に出た時、秋田の人達の勤勉さと素朴さと、人情の温かさは秋田人の徳と讃えられた。秋田美人を嫁に、働き手が真面目だから紹介してくれないかとか、秋田米と酒の美味しさを誉められた時は、秋田に誇りを抱き、秋田で学んだ事は頭から離れない、ありがたさを感じたものだ。
「日本一住み良い県になるには」という命題には良案、妙案は構造的な問題があるので難しい。が思いのままに言わせてもらえば、先ず出発点として精神と心構えを第一に据えてはどうであろうか。精神論だけでは食えない、生きていけないなどと言われるだろうが3倍も、5倍も故郷を愛する情熱の心と感謝の心に尽きる精神ではないだろうかと私は思う。このような困難苦境を乗り越えるための源泉は、その精神力に他ならぬと思われる。
―青い鳥は足元にいる―
そして秋田の歴史文化と風物、人物と自然などの誇りを新たに掘り起こし再認識する事が必須である。誇りを失い心が澱んでしまえば、ますます衰退の道に歯止めが利かなくなるであろうと思う。
物真似や思い付きでは、すぐに行き詰まる。メッキが剝がれてしまう。地域に根ざした独創性や創造性、秋田にしかない唯一の鉱脈を見つけ出す事、掘り起こす事が必須条件となる。鉱脈探しの基本は足元から始めなければならない。既存の発想から逆転して考える。そこに意外なヒントが潜んでいる事を見逃してはならない。
今こそ反骨秋田の底力が試されている。日本の秋田ではなく大きく世界の秋田になるのだという自覚を持てば発展への夢と希望がある。秋田には信頼し温もりの絆、人情がある。その愛こそが秋田の未来を切り開くエネルギーであると私は信じる。世界の中の秋田に青春あれとエールを贈りたい。