金甲柱
光州広域市視覚障碍人連合会長(2013年~2017年)

1. 河正雄先生にお会いして

私は大学3年生だった1982年に網膜色素変性症によって失明しました。失明による苦しみもありましたが、まだ若い青年の時分だったこともあり、先の人生が真っ暗になってしまった気分でした。そのような中で運命的に、当時の全南盲人協会、現在の光州視覚障害者連合会のことを知人の紹介で知りました。失明という、そして視覚障害者という重荷を年若い身で背負いながら、すでに鬼籍に入られた黄永雄、ハン・ギョンス、金寿慶、ホ・ジェス先輩、崔三基、尹在松、張永喆、朴贊圭らに会い、視覚障害者としての新しい道を探すことになったのです。協会に足しげく通いながら、協会での仕事をいろいろと手伝うようになりました。旅行に出かけた時や、デモや各種のイベントに参加した時も、友人たちと共に力を合わせてきました。そのような中で、在日韓国人である河正雄先生にお会いすることになりました。私の記憶によると、1984年頃だったと思います。あるイベント会場で先生と挨拶を交わす機会があり、「大学在学中に失明した者です」と自己紹介をすると、「まだ若いのに大変な目にあわれましたね」とおっしゃいつつ「自分の道を探していくことが重要です」と語って下さり、私の境遇に関心を寄せて下さいました。これは後になってからわかったことですが、河先生は協会とは何の関係もなく、たまたま身体の不調で協会の黄秀雄会長から按摩の施術を受けていた時に、会長から「視覚障害者協会に協力して下さい」とお願いされ、それで関係を持つようになられたそうです。以後も、イベントの際や先生が韓国にいらっしゃった際などに時々お目にかかることがありましたが、ひときわ私に目をかけて下さり、温かい関心を寄せて下さいました。そんな中で「視覚障害者協会の会館が必要だ」と当時の会長を中心に要求の声を上げていた時、河先生が「それなら、あなた方はあなた方の『巣』である会館を作るために、どのような努力をするつもりなのですか?」とお尋ねになりました。「あなた方が会館設立のために自ら努力をなさるのであれば、私も協力を惜しみません」と。私は、言うなれば縁もゆかりもない、道でたまたま出会ったような視覚障害者に自立の大切さを教えて下さり、更には「努力をするなら協力を惜しまない」という河先生のその言葉が深く胸に刺さりました。今でも、先生のそのお言葉と精神が、私の人生を照らす灯明となっています。

※8-9-20 하선생님과 내가 찍힌 사진 또는 합동으로 찍힌 사진 첨부하면 좋아요.

2. 全国初となる光州広域市視覚障害者会館を設立

1980年代に韓国は目覚ましく発展しましたが、社会福祉の面における発展には厳しいものがありました。そんな頃、障害者全体ではなく、視覚障害者のためだけの会館を造るなどということは、まったく想像もできない、夢のような話でした。それにもかかわらず、黄秀雄会長をはじめとして、全ての会員が自分たちのための会館を造ることを望みました。そのために一日限定の喫茶店やタオル販売、按摩施術による収入から一定の金額を貯めながら夢を追い続けました。これは河先生の「あなた方は会館を造るために、どのような努力をするつもりなのですか?」という問いかけに対する答えとして、視覚障害者たち一人ひとりが最善の努力を尽くした結果でした。そのようにして200万ウォンほどの資金を集めて河先生にお伝えしたところ、先生はいたく感動され、会館を造るために協力をして下さることになりました。河先生は日本でスポンサーを募り、光州地域の美術関係者たちと共にチャリティ目的の展示会を行って1986年に6,800万ウォンを集めました。河先生自身が35270543ウォンを寄付されて現在の視覚連合会が位置している南区社洞の19-4番地に168坪の土地を購入しました。そして光州市と東光州JC、河先生が募って下さった日本のスポンサーたちと力を合わせる形で、1989年に地上2階、地下1階の延床面積130坪余りの韓国初となる視覚障害者会館が建立されるに至りました。会員全員が喜び、河先生をはじめ、光州市や東光州JC、日本のスポンサーたちに感謝の気持ちを伝えました。ところで、このように韓国の視覚障害者の奇跡を成し遂げた歴史には良い面だけではありませんでした。最初に敷地を用意してから会館が建てられるまで、視覚障害者たちをはじめ、さまざまな方の尽力がありましたが、中でも一番大きな役割を果たして下さったのは河先生です。それなのに会館の入口に河先生の功労について顕彰されているものは何一つなく、代わりにすべてが終わりかけた頃に手を出してきた東光州JCの顕彰碑が建てられることになりました。顔を立てることが得意なボランティア団体の特性を理解していないわけではありませんが、これでは主客転倒もいいところではないか、と心が痛みました。河先生は「力を尽くして下さった皆々様に感謝の気持ちを表現しなくてはなりません。これは未来の歴史になります」と、記録の意味と公正について語って下さいました。このようにして、光州視覚障害者の会館を建立するという宿願の事業が、河先生の尽力で成し遂げられたのです。

※89년 개관식 사진이나 당시 회관 사진 그리고 행사현장 등 최초 회관의 근거 등을 첨주해 주세요.

3. 訪韓の度に私を励まして下さった先生

河先生は光州を頻繁に訪れていらっしゃいました。作品を寄贈するためにいらっしゃったり、画家の方を訪ねるためにいらっしゃったり、視覚障害者協会のイベントのために訪れて下さったこともありました。河先生は光州にいらっしゃる度に私を訪ねて下さり、「事業はうまくいっているか! 気持ちが入っていなければいかんぞ! いずれは障害者たちの指導者になるんだぞ!」とおっしゃり、また「明歴歴、露堂堂」と禅の言葉を口癖のようにおっしゃっては「どんな仕事でも正しく堂々とやらなければならない」と、どのように生きることが人生の正しい道であるかを折に触れて教えて下さいました。「個人であれ、国家であれ、どのような関係性であっても歴史を忘れてはだめだ」ともおっしゃっていました。これに対する決定的な論拠であるのが、光州市立美術館の前庭に植えられた原爆を受けた長崎の柿の木の二世の木です。日本から運ばれてきて、光州に植えられた木が、歳月を経て果実を実らせている様子をご覧になって非常に感動され、嬉しそうに眺めていらっしゃいました。そして、人々がその被爆した柿の木に実る果実の意味を理解していないことに対して残念がっていらっしゃいました。訪韓の度にいつも私を訪ね励まして下さったことが、河先生の精神を理解し、私の人生の新たな道しるべとなるきっかけになりました。

4. 「ドゥメ」を訪れて下さる

私は失明後、もどかしい生活を送ってから事業を始めることになりました。障害を持たない人にとっても事業をするのは難しいことですが、視覚障害を持つ私にとっては尚更でした。特に視覚障害者が食べ物を作るということには、より難しいものがありました。メインであるメニューはお弁当でしたので、主にイベント会場に納品しました。そうすると、自然の成り行きとして河先生も我が社のお弁当を召し上がって下さることになり、その度に視覚障害がありながらも按摩ではなく新しい道を行くことは素晴らしい、と称賛して下さいました。そしていつも、「正直な姿勢で頑張れば、成功はついてくる」と励まして下さったものです。そのようにイベント会場などで時折お会いする度に、河先生は私の事業について関心を寄せ、ある時、光州で一緒に食事をしていた時に「先生、私の会社『ドゥメ』が成長して、より大きな場所に移転しました。キムチ工場も、物流センターも、お弁当工場も一緒にあります」とお伝えすると、河先生はとても喜び、食事の後でそこに行ってみたい、とおっしゃいました。私はいつも関心を寄せて下さり、心配をして下さっていた河先生に恩返しをするつもりで会社にご案内させていただきました。私の人生と「ドゥメ」の成功のシンボルとして植えた松の木、1,030坪の敷地、1,200坪余の社屋をご紹介してお茶を一杯お出ししようとしたところ、滞在中の予定が詰まっていて「ドゥメ」を訪問することも難しかったのだが、目が見えない状態であるにもかかわらず会社をここまで成長させられたことが嬉しくて特別に時間を作ったとおっしゃり、これからも頑張って、という激励のお言葉を頂き、短い訪問を終えられました。私は河先生がお忙しい日程であるにもかかわらず、視覚障害者の成功を喜んで下さり、わざわざいらして下さったそのお心遣いを今でも覚えております。私自身もやはり、河先生のこのような生き方を見習いたいと思いました。

※회사사진 소나무 사진 회사에서 하정웅선생과 찍은 사진 첨부.

5. 「日々一歩」出版記念会を開催

安明錫国会議員(河正雄の右)、高在維 元光州市長(その右隣)、程巳柱(河正雄の後ろ)、金甲柱会長(河正雄の左)、画家禹済吉氏(その左斜め後ろ)、黄英雄初代会長(その左斜め前)

私は2013年8月に紆余曲折の末に光州広域市視覚連合会長に就任しました。河先生はとても喜んで下さり、若くて経験豊富な金会長のさらなる発展を願う、とおっしゃって更なる力を与えて下さいました。2014年に河先生が「日々一歩」という著書を出版されました。私はその本に接して祝賀の気持ちを抱くと同時に、先生の精神を世の中に広く知ってもらうために2014年11月5日、5・18記念文化センターで「河正雄エッセイ出版記念会」を開催しました。尹壮鉉光州市長(当時)、金宗才院長、姜連均画家をはじめとする美術関係者、そして視覚障害者たちと共に祝いました。河先生は挨拶の言葉の中で、誰もこのような祝いの席を設けてくれなかった中で、身体の不自由な視覚障害者たちが祝ってくれたことに感動したと述べて下さり、涙まで流して下さったことを私はよく覚えています。

6. 光州市立美術館分館河正雄美術館の開館

私は視覚障害者関連で河先生とお目にかかりましたが、その流れで地域社会の美術関係の方々との出会いがあり、先生が韓国に1万2千点余りの絵画を寄贈し、その中の2,600点余りを光州市立美術館に寄贈されたことを自然と知るに至りました。それだけではなく、光州市立美術館が青年作家を発掘する「河正雄青年作家招待展『光』展」を毎年開催するための基盤をお作りになられました。河先生は私に、ドイツのフランクフルト聖堂の壁画を撮った写真を下さいました。その画はイエス・キリストが十字架を背負わされてゴルゴダの丘を歩かされているもので、ローマ兵士がイエス・キリストを鞭打ちながら連れて行く様子を、見て見ぬふりをする元老たち、そして泣きながら悲しんでいる人々の姿を表している壁画です。河先生はその壁画を見ただけで日本に帰国されたのですが、壁画のことが頭から離れず、写真を撮るためにまたドイツへ行き、撮影してこられたとのことです。河先生は、今の世の中はこの壁画と同じであり、今後どのようなことが起きてもこれと同じような状況が起こり得るので失望してはいけない、とお話しされ、この壁画の写真を下さったのです。河先生は1枚の絵画が人の心と世の中を変えることができると信じていらっしゃり、絵は人生であり歴史である、と考えていらっしゃいました。

このように我々の社会で大きな役割を果たして下さった方ですから、河先生の精神を称えて受け継いでいかなくてはならないと考えて、河正雄美術館の建立を強く主張いたしました。光州市長や美術関係者の方々にお会いした時はもちろん、一般の方にお会いした時でも「河正雄美術館を作らなければならない」と広報して回りました。そんな気持ちが天に届いたのか、旧全羅南道の道知事公館を河正雄美術館として改装して開館することになりました。寄贈された絵画を展示し、河先生の精神を多様に発揮させるには少し狭い空間かもしれない、という気持ちもありましたが、河先生の精神を活かすことができる根拠地ができたということに大きな意味があり、私も限りない喜びと共に河先生にお祝いを申し上げました。その時に開館の準備をしながら河正雄美術館ができるまでの意味と希望を込めた映像を制作したのですが、美術関係者でもなく、大きな力もない私が映像制作に携わったのです。その河正雄美術館の広報映像には私の希望のメッセージが込められたインタビューが収録されています。

河正雄美術館の開館式は2017年3月3日に行われました。河正雄美術館の存在が世の中の灯明となる期待をしていた私に、ここでまた別の奇跡が起きました。それは何の力もない私に開館式の祝辞の依頼がきたことです。常識ではちょっと考えられないことですが、河先生は何も問題はないと話されました。市長や議長、関係公務員たち、数多くの美術関係者、韓国や日本の知人たちなど、数百名の祝賀客すべてがそれなりに有力な方々であったにもかかわらず、この私に祝辞を述べる機会を与えて下さったのです。祝辞は市長と議長、主役である河正雄先生、美術関係者である黄栄性前館長、そして私が述べることになりました。私は祝辞の中で、この私に機会を与えて下さったことに感謝を述べると同時に、「河正雄美術館の規模は小さくとも、多様な展示を通して世に残る世界的な美術館にならなくてはなりません」と述べました。

7. 河先生の喜寿記念講演会と「日々一歩」を読んでの金甲柱の献詩と洪銅義の書による屏風の贈呈

書・中虚書藝研究院 洪 銅 義 (2015制作)

日本語訳

貴方はここに立っておられます。

陽の光のように、眩しく輝いています。

以前も今もこれからも、永遠にそこに、そのままの姿で立っておられます。

誰も知らず汽車に乗り、東京に向かった足取りが、

あれ程描きたかった貴方の身悶えが、光の街を越え、果てしなく照らして行きます。

見知らぬ青い、あの遠い国日本に向かって、碧空を飛ぶ力強い翼に沿って、

母の国、希望の世に飛び立ちます。

ある画家の筆先から、ある匠の指先を経て、ある野次馬の口を通じて、遥か遠くに広がります。

手足を縛られ言葉まで奪われた時代に、あの恨めしい「朝鮮人」という束縛の中でも、

厳冬雪寒、隠れていた花の芽のように、貴方は生命を育んで来られました。

皆が自身の未来のみを描いていた時も、隣人の涙が川の水となって流れる時も、

イエスが道を失った一匹の羊を探したように、その足取りは終りがありませんでした。

道に沿って行けば、次の道につながるように、貴方の暖かい差しのべた手にしたがって、

世の中がひとつひとつ開かれて行きます。 

  

日々一歩ずつ日記を書き残すように、中川伊作が盲人の群れを率いて飛び石の橋を渡るように

中島昭二郎が花の村を作ったように、貴方の愛で花を咲かせていきます。

日々一歩ずつ、また一歩ずつ、夜空の星のように

貴方も、私たちも、世の中も、積み上げられて行くでしょう。

村の老人がまく種のように、幼な子たちの童話のように

握りあった恋人の暖かい手のように

貴方がそのようになさったように、私たち皆が共に交わる、幸せな国を創って行きます。

日々一歩ずつ、またそのように一歩ずつ

日々一歩ずつ、歩いて行きます。

光州広域市視覚障害者協会長の金甲柱(キム・ガプチュ)「日々一歩」を

2015年冬、雪の降る佳い日に中虚(チュンホ)洪銅義(ホン・ドンウィ) 記す

1999年に河先生の還暦に合わせて光州市立美術館主催で雲岩洞のプリンスホテルで祝賀会を開きました。数多くの絵画の寄贈と人々の精神を救済する運動による労苦のおかげか、数百名もの祝賀客が集まりました。私も気持ちばかりの贈り物を手に、河先生へのお祝いのために末席で食事をしていました。河先生は私を見つけて下さって、幸福な事業を行っていますか、とお訊ねになり、成功を祈る言葉を贈って下さいました。私は今でも、幸福な事業家になる、というお言葉を大切にしています。時が流れ、私が光州視覚障害者連合会長の在任中に河先生が喜寿を迎えることになりました。私は美術関係者と市庁関係者、そして河先生を尊敬する知人たちと先生の喜寿を記念する祝賀の席を設け、喜寿をきっかけに先生の精神を受け継いでいくための河正雄財団を設立しようと提案しました。しかし、全員が快い反応を示してくれるだろうと思っていたものの実際には賛否両論で、もっとも賛同してくれると考えていた美術関係者による反対の声が大きくてショックを受けました。大規模な会を開催する意味を見出せなくなったために、視覚連合会のレベルで祝賀会を開くことに決定したのです。まず、「日々一歩」を読んで河先生の出版記念会の時に書いた私の詩を屏風にして贈ろうと考え、日頃から河先生と親しくされていた書家の鶴亭先生を前もって訪ね、字を書いていただくことを快諾していただきました。しかし、いざその時になって鶴亭先生の元に書を受け取りに伺いましたところ、先生はガンの闘病中で字を書くことが出来なくなってしまっていました。時間が過ぎ、代わりの人を探しましたが、窮すれば通ず、とはよく言ったもので、光州市庁の都市再生課の姜権先輩が自身も河先生を尊敬しているとし、鶴亭先生の弟子である洪銅義書芸家を紹介して下さり、洪先生はむしろ光栄だと喜んで文字を書いて下さいました。そして2015年12月17日、光州市庁の大会議室で視覚障害者たちの文芸発表会である第1回「ナレヤ(나래夜)」のイベントで視覚障害者たちと後援者600人余りが集まった席で河先生の喜寿講演を拝聴した後、私が書いた詩を紆余曲折の末に洪銅義先生が書き写して下さった屏風をお贈りすることができました。喜寿講演は、ご自身の生きてきた人生の話と、禅の言葉である「明歴歴、露堂堂」、すなわち世の中のあらゆることは歴々と明らかで堂々と露わになっている、という内容でした。河先生の大きな業績にもかかわらず、誰も関心を持っていなかった先生の喜寿祝賀会を開き、贈り物までして、何かをやったぞ、という考えで嬉しく思っていました。そして5年の歳月が過ぎたある日、河先生とお電話で話をしていた時に先生の評伝を書くというお話をしたので、屏風の話を持ち出してみたところ、先生はまったく覚えていらっしゃいませんでした。私はとても驚いて、喜寿記念講演のこと、鶴亭先生に字を書いていただけなかったので弟子であるホン先生の字でお贈りしたこと、贈呈式の写真もあることをお話ししましたが、河先生は何も記憶していらっしゃいませんでした。それだったら、あれほど苦労して制作した意味は、そしてあの大きな屏風はどこに行ったのでしょう? 残念なことに、関係者すべてが屏風の行方を記憶しておらず、喜寿祝賀会での贈り物の屏風は跡形もなく消えてなくなってしまったのです。もどかしかったものの、これといった名案もなく、契約書を2部作成し、お互いが1部ずつ保管するような感覚で、私が書いた詩を先生にお贈りする際に私も1部を持っていなければならないと考えて、表具をするのではなく、私自身も別に1部を保有していたのです。それを先生に差し上げる形で収まりました。残念ではありましたが、幸いでした。

※병품에 담았던 김갑주 회장 헌시, 하정웅 -희수연을 맞으며-(※金甲柱会長の献詩の屏風、河正雄先生の喜寿祝賀会に寄せて。)

題目:「日々一歩」を読んで

貴方はここに立っていらっしゃいます。

陽の光のように眩しく輝いています。

以前も今もこれからも、永遠にそこに、その姿で立っていらっしゃいます。

ある知らない汽車に乗って東京に向かう足取りが、そのように描きたかった貴方の身悶えが、光の村を超えて終わりなく照らしていきます。

青く青いその遠い国に向かって広がりを飛ぶ力強い翼にしたがってオモニの国、希望の世界に飛んで行きます。

ある画家の筆端に、ある盲人の指先にしたがって、ある野次馬の口を通して遠く遠く広がります。手足を束ねられて言葉にさえ別れを告げなければならなかった時代にも、その恨多き朝鮮人という束縛の中でも、厳しい冬の寒さの中で隠れていた花の芽のように、貴方は生命を育ててきました。

皆が自分のことだけを描いている時でも、隣人の泪が川の水になって流れる時でも、貴方は家を出た我が子を探すように、新しい生命を宿してやってきました。イエスが道に迷った一匹の羊を探すようにその足取りは終わりがありません。

道が道に沿って続くように貴方の温かい助けの手に沿って世界が一つ一つ開かれていきます。

日々一歩ずつ日記帳に書き残すように、中川伊作が盲人の群れを率いて架け橋を渡るように、中島昭二郎が花の村を作ったように、貴方の愛で花を咲かせていきます。

日々一歩ずつ、また一歩ずつ、夜空の星のように

貴方も、我らも、世の中も、積み上げていきます。

ある老農夫がまいた種のように

小さな子供たちの童話のように

握りあった恋人の温かい手のように

貴方がそのようにして下さったことのように、皆々が共に交わる幸せの国を作っていきます。

日々一歩ずつ

そしてまた一歩ずつ

日々一歩ずつ、歩いていきます。

-2014年10月22日(水)光州視覚障害者連合会にて「日々一歩」を読んで-

8. KBS光州放送が河先生を非難

世の中はさまざまなことがあります。イエス・キリストがガリラヤで捨てられたように、世の中は義理堅い恩人を裏切ることが多いのです。私が視覚障害者連合会の会長としての任期を終え、光州広域市の障害者総合支援センターの常任理事を務めていた2018年のあの日、KBS光州放送のニュースが河先生による絵画寄贈の光州広域市との協約は個人の私欲であるのに、光州広域市が過度な厚遇をしたことは間違いであり、原点から見直さなければならない、と報道しました。崇高な先生の意志に反するニュース報道が連日のように流されていました。悪意と作為を持った一部の人々の間違った判断と無知なる軽薄さ、そして記者たちの傲慢な英雄気取りの行為が善なる偉人を埋葬していたのです。恩人に対し光州がこんなことをしてもいいのだろうか? 怒りがこみあげてきました。美術関係者をはじめ、心ある人々が蜂の群れのように蜂起して戦うと思っていましたが、数人を除き、全員が沈黙を貫きました。これは先生をもう一度殺す沈黙だと私は思い、辛く感じました。

私は視覚障害者たちと一緒にKBS光州放送局の前で抗議集会を行うつもりでした。しかし河先生の相手の策略にはまってはならないとの引き留めと、視覚障害者連合会の会員たちの同意を取りまとめることができなかったために実行には至りませんでした。できたことは、李庸燮光州広域市長、田東平霊岩郡郡守、そして関係する方々に対して呼びかけを行い、光州MBCのコラムとKBSの視聴者ご意見箱に意見を投稿することだけでした。正義と真実が潰された現場で、苦しんでいる河先生と凱旋将軍のように意気揚々のKBS記者と加害者たちがオーバーラップし、私の姿は限りなく小さく見えました。もしかすると、先生が何年か前に私に下さった写真の壁画、イエス・キリストがゴルゴダへ引きずられていくあの壁画の主人公に、私たちはなっていたのかもしれません。

※光州MBCコラム ―称賛する社会を作りましょう―

イソップ寓話で旅人の服を脱がせたのは荒い風ではなく暖かい光でした。

称賛は鯨をも踊らせると言います。

皆さんは日常の中でどれだけ褒めることを探し,褒めることを実行していますか? 

周辺では称賛に値することが絶え間なく起きているのに、日に一度でも褒めることをしなければ、「知れば知るほど物事をよく見ることができる」ということわざのように、生活の中にある良い点を見ることができないということになります。

残念なことに、間違えたことを先に見てしまう否定的な心が先行してしまい、良いことが見えなくなってしまったのです。

アレクサンダー大王の肖像画を描くために大王の元を訪れた当代の有名な画家は、大王の顔にある大きな切り傷を見てどうしたらいいのか苦心した末に、大王を机の上に腰掛けさせて頬杖をつかせてその傷を隠した後、名作を完成させたと言われています。

私は35年前に在日韓国人である河正雄先生にお会いしました。

絵の収集で光州にいらっしゃった際に身体の調子が悪くなり、視覚障害者の黄英雄氏から按摩の施術を受けることになりました。そして、初対面だった黄英雄氏と施術中に話をしたことをきっかけに、光州の視覚障害者たちの宿願であった会館の敷地を用意して下さいました。そのようにして始まった縁で毎年お会いすることになり、先生の精神を知ることになりました。先生は何事もまず自らやらなければならないこと、健康な精神と正しい歴史認識、そして共に協力し合う社会を作らなければならない、と常におっしゃっていました。

先生は画家になることが夢でしたが叶えることができず、勉強がよくできましたが韓国人の名前を変えなかったという理由で就職もできなかったそうです。それで、日雇い労働者から始め、いろいろな仕事を通してお金を貯めて夢であった画家になる代わりに絵の収集を始めたそうです。絵の中には歴史と精神、そして人生が詰まっていて、絵を通じて世の中の幸せを作っていくことができると考えていらっしゃいました。

そのようにしてお金を貯め絵を収集して恋しい故国に1万2千余点もの絵を寄贈し、その中の2,600余点を光州市立美術館に寄贈して下さいました。1992年の開館初期の光州市立美術館は所蔵品がなく、一部の展示室を閉鎖しているという空虚な状況でしたが、先生の25年間で7回続いた寄贈のおかげで今では全国の市立美術館の中でもっとも水準の高い美術館になりました。それだけではなく、先生は日本による占領期に日本に徴用されて名もなく死んでいった5千人余りの韓国人の名簿を探し、毎年慰霊祭を行っていて、本来であれば国がしなければならないことを奇跡のように行ってきたのです。

しかし、一部の否定的な人々と某放送局は光州広域市は協約を間違えていた、過度な待遇をしている、偶像化しているなど、先生の高貴なメセナ精神を称賛して広く伝えるどころか、魔女狩りのごとく先生を傷つけることに熱を上げています。本当に情けない限りです。

光州ができてから今まで、河正雄先生ほど多くの寄付を行った人を私は見たことも聞いたこともありません。視覚障害者たちの基盤を作って下さり、名もなく死んでいった魂を慰霊し、青年画家たちを支援し、1万余点の絵を寄贈する方を、どのようにより優遇して称賛する社会を、互いに協力し合う共同体を作っていくのかを考えなければならない時です。桁違いに寛大な寄付者の名誉をこのように毀損し、その胸に釘を打ち付けるのであれば、一体誰が寄付などをしようとするでしょうか。

水原には朴智星の道路が、大邱には歌手の金光石の通りがあります。彼らはそれぞれの特技を通して世の中に利益を与え、それによって優遇されたのです。光州の金大中コンベンションセンターについても同様です。

社会に対して記念すべき業績があるなら、誰であれ相応の待遇を受け、後世の手本となるようにするべきです。憎しみは憎しみしか生み出しません。善行を絶えず見つけ、好循環による温かいコミュニティを作らなくてはなりません。今日もまた、称賛することを見つけられる1日になりますことを願っております。

―2018年10月17日 光州MBCラジオコラム放送

9. 河正雄先生、光州広域市視覚障害者連合会名誉会長に推戴

私は連合会長に在任している間、河正雄先生の哲学と実践に多くのアイデアを与えられました。普段から先生は歴史意識と自立と記録、そして未来に対する変化を作っていらっしゃいました。あるいは、絶えることのない革新の連続、という考えすら頭をよぎります。その中の一つが光州視覚連合会の40年史を作ったことでした。職員たちに、その間の資料を集めるように言い、黄英雄会長や魯柄淑会長といった歴代の会長など、連合会に関係のあった方々に手持ちの資料や口述、そして連合会の歴史に記す価値のある素材等を探すように要求しました。視覚障害者の特性上、写真を撮ったり、記録することへの関心が少ないために、資料収集は困難を極めました。私は河正雄先生にも視覚障害者の歴史を編纂することをお伝えし、視覚連合会と関連する資料の提供をお願いしました。河先生は本当に重要な仕事だとおっしゃって喜んで下さり、数十年に渡って集めていらっしゃった視覚障害者連合会と共に活動された際の資料などを整理して送って下さいました。私はあらためて長い時間の流れの中で、河先生が当事者よりさらに正確な記録を持っていらっしゃったことを恥ずかしく思うと同時にそのありがたさを痛感いたしました。このように河先生が精神的、物質的そして歴史的にも光州の視覚障害者たちとの間に深い縁と熱情をお持ち下さったこと、これをどのように永久的な形でとどめることができるか苦心した結果、河先生を光州広域市視覚障害者連合会の名誉会長に推戴することに意を共にしました。虎は皮を残して、人は名前を残すように、誰でも意味があることを成し遂げれば、それに適した名誉と待遇を与えられるというのはもっとも基本的なことだと思っています。すべての会員が満場一致で同意し、2017年10月、第38回白杖の日に合わせて河正雄先生を名誉会長に推戴いたしました。河先生は名誉会長に推戴されたことを非常に喜んで下さり、私もやはり、意味のある仕事を成し遂げたことを嬉しく思いました。

10. 「『暗闇の中の光』社会的協同組合」組合員として参加

私は常日頃から障害者の社会参加と職業の開発に多くの関心を抱いていました。私自身もやはり按摩の資格を取得しましたが、按摩よりも新しい道を探して事業をすることになりました。そうしながら、視覚障害者たちに合った新しい職業とは何であるかを考えてきましたところ、偶然に「暗闇の中の対話」に接することになりました。暗闇の中の対話とは、光を遮断して何も見えない暗黒の環境を作り、その空間で視覚障害者たちが参加者を案内し、暗闇の中でさまざまな体験を提供するものです。私は、まさにこれだ、視覚障害者が自ら誰の助けをも受けずに暗闇の中で案内者になることができ、体験者たちは視覚を奪われた状態でさまざまな経験をしながら、視覚に対する理解と人生を振り返ることができる良い事業になると思いました。最初は私が稼いだお金でやろうと思ったのですが、思う通りにいかず、志を同じくする方々と協力し合わなければならないと思い直し、2017年に非営利法人「『暗闇の中の光』社会的協同組合」を設立して組合員を募集する一方、光州共同募金会と連合募金をもすることにしました。河先生が光州にいらっしゃったある日、私に電話を下さって会って下さいました。そしてどのようにしてご存じになったのか、体験館の建立後援金を下さって「必ず意志を成し遂げて下さい」と呼び掛け、励まして下さいました。先生もまた組合員の中の一人、という立場でいらっしゃいましたが、私にとっては意味のある大きな力でした。先生はいつもこのように、必要なことに関心をお持ちになって下さり、参加を実践して下さいました。後に暗闇の体験館を作ることができましたら、体験館の中に河正雄記念室を作り、目で見ることができない暗闇の空間の中に先生の音声と彫刻など、聴覚と触覚のみを使う美術鑑賞室を作らなければ、とも考えています。

여기까지는 김갑주의 글입니다.(ここまでは金甲柱による文です。)

다음은 황선권 희장의 글입니다.(次は黄ソングォン会長の文です。)

11. 黄ソングォン会長、河正雄先生の功労碑を建てる。
            高潔なる意志を称え!

河正雄博士の立派な精神を心に刻み、末永く記憶に残したいと思います。

社団法人 光州広域市視覚障害者連合会

黄ソングォン会長(第15~16代 2009~2013年)

視覚障害者たちにも空に浮かぶ澄んだ雲を見たいという夢があります。

しかしながら、夢を広げるまでの険しい過程については筆舌に尽くしがたいものがあります。

黄ソングォン光州広域市視覚障害者連合会長は第15代、第16代会長として連合会を率いてきながら、河正雄博士の大きな助けを得て視覚障害者たちの巣である光州視覚障害者連合会福祉館をついに建立するに至り、その崇高な志を岩に刻み永遠に称賛したいと思います。黄ソングォン会長は2009年1月1日に第15代会長として就任すると「光州広域市視覚障害者たちと共に行う福祉、見つけていく福祉!」をスローガンに揚げました。このような夢を実現させるべく光州広域市視覚障害者福祉館建設用地を工面して下さった在日韓国人河正雄博士の崇高な志を込めた功労碑を建てる意志を明らかにしました。このプロセスは専任会長と光州広域市視覚障害者連合会の会員たちの積極的な協力と参加があったからこそ可能でした。霊岩が故郷である河正雄博士は以前から光州を訪れ、光州の視覚障害者たちが適切なオフィスもなく困難を極めているという話を聞き、1982年より「巣作り」ために寄付を始めて下さいました。

時には日本で作品展を開いて用意した私財を寄付し、時には日本の青年作家たちと共に展示会を開いて募金運動をして、2008年まで光州広域市南区社洞19-4番地に視覚障害者たちの施設用地として貴重な土地650.7平米を購入できるよう、あらゆる後援を惜しみませんでした。

在日韓国人が韓国人に代わって堂々と成功したことも特筆すべきことであるのに、故郷を忘れず、故郷の視覚障害者たちが一つの建物に集まり一団となってその膨らんだ夢を耕す基盤を用意して下さった、その崇高な志を忘れることができません。

黄ソングォン会長は、光州視覚障害者たちの宿願であった事業を成し遂げることができるように物心両面で支援して下さった河正雄博士の立派な心に報いて功労碑を建立しました。

建立諮問委員には黄英雄、黄ソンジュン前任会長を迎え、推進委員は黄ソングォン会長、パク・ジス理事、ユン・グァンヒョン事務局長、キム・サンソプ課長、張永喆チーム長、パン・ソンギョン室長で構成され、功労碑建立のための1次~3次推進委員会を開催し、具体的な実行に着手しました。

功労碑建立に伴う予算計画や日程等は黄英雄、キム・ソンジュン両前任会長に諮問を受け、功労碑製作は河正雄博士の業績をもっともよく知っている鄭允台朝鮮大学美術大学長の素晴らしい作品で遂に建立するに至りました。

功労碑建立にかかった予算の3千万ウォンを集めることは、黄ソングォン会長をはじめとする視覚障害者連合会の会員たちの涙なしでは語れない募金運動と協力があったからこそ可能であったことをここに明らかにいたします。

特に、光州広域市東区錦南路近隣公園で2009年6月24日午前10時から午後10時までバザーを開き、光州市民の参加と協力による収益金8百万ウォンを確保した会員たちの誠意を忘れることはできません。

河正雄博士の崇高なる故郷を愛する精神と視覚障害者連合会の会員たちの切なる真心が込められた功労碑がついに完成し、2009年8月12日、社団法人光州視覚障害者連合会(光州広域市南区社洞19-4番地)に建立され、その志を末永く称えたいと思います。

光州視覚障害者連合会は真っ暗な世の中を愛の光で明るく照らす河正雄博士のありがたい魂を忘れることはありません。

2009年8月12日

社団法人 光州広域市視覚障害者連合会

ファン・ソングォン会長他会員一同

12.  特別な縁、惜しい離別

世の中を生きて来ると、思いもよらないことに出会うことが多い。私が河正雄先生に出会ったのも、光州広域市視覚障害者連合会長を歴任したのも、河正雄先生の『日々、一歩一歩』という本を読んで出版記念会を開き、その意義を賛える詩文を書くことになったのも、その詩文を屏風にしてプレゼントしたのに紛失したことも、余分にその作品を所蔵していたので、やっと再びプレゼントできたこと等々、すべての過程が日常、思いもよらなかった奇跡のような縁につながることが多い。

私はこのように特別な縁から、私の人生の痕跡として残したかった私の所蔵品と、惜しくも別れることになった。

何という話だろう!私は1983年に、初めて河正雄先生にお目にかかることになり、河正雄先生の人生が私の人生の灯台となり、今まで尊敬する先生として位置を占めている。私は2013年8月、光州広域市視覚障害者連合会長に就任することになったが、ちょうど河正雄先生が『日々一歩一歩』という自伝的エッセイを出版する頃だった。

私はそのニュースに接して2014年11月5日、出版記念会を開催した。そして私は、その本を読み感じた思いを、「河正雄先生の『日々一歩一歩』を読んで」という題で詩文を書くことになった。下手で拙筆だが、河正雄先生の人生を、感じたまま素朴に描いたと思い、自分なりに嬉しかったし、書いた勢いで記録に残したいという欲が生じた。それで普段から河正雄先生と縁を持っておられるハングル書道の大家鶴亭(李敦興)先生を訪ね、詩文を書いて欲しい頼んだところ、快く応じて下さり嬉しかった。

私はすぐに自分が書いた詩文を送り、時間を待った後に連絡すると、鶴亭先生が癌に罹り筆を執れないということだった。良い解決方法がなくなり、それなりに有名だというハングル書道家を探し、事情を話すと快く詩文を書いてくれると言われたが、謝礼を思ったより多く要求され、困難な状況になった。そんなある日、市役所のカン・グォン書記官がこの消息を聞いて、「自身も河正雄先生を尊敬する」と言い、友人の書道家中虚・洪銅義先生を紹介してくれた。洪先生にこれまでの経緯を話すと、洪作家も「河先生を尊敬する」と言い、そして「自分が鶴亭先生の高弟として、鶴亭先生が自分にくれたプレゼント」と言い、快く応じてくれ新しい縁を結ぶこととなった。

私は「時間がないので、早く書いてほしい」と催促したが、「詩文が長くて練習しなければならないから、催促しないで欲しい」と言われた。やきもきしながら時を過ごし、詩文の書を受けとった時、「是非私も書を一点所蔵したいので、もう一点書いて欲しい」と要請すると、快く応じて下さった。私は本当に、私が創った詩を作品に作って、河正雄先生と私が一点ずつ所蔵し、私の人生の1頁として永く大事に保管するという思いで、限りなく嬉しかった。

そしてその年の冬、白い雪が懐かしい日、視覚障害者の祝祭、第1回「翼よ」の行事の場での河先生の喜寿記念講演の時に、河正雄先生の「日々一歩一歩」を読みあげ、屏風をぱっと開いてプレゼントして差し上げた。実に忘れられない、喜ばしい瞬間だった。

その後、私は視覚障害者連合会長職を離れ、また多くの歳月が流れた。2021年初めのある日、河正雄先生から「あなたが書いた私の評伝を載せたいので、私にあなたと関係する記録や写真、そして文を補充して欲しい」と言われた。 私は「そうする」と約束をし、以前の屏風の話を思い出し「その評伝に入れたい」と要請すると、河正雄先生は「屏風について記憶にない」と言われた。私はびっくりして、「講演の時、プレゼントして差し上げた」と、贈呈した屏風が広げられた前で、河正雄先生が講演されている姿を説明した。幸い河正雄先生がその写真を持っていて、屏風を思い出されたが、問題はその屏風を受け取っていないということだ。どうなったのだろうか! 金の指輪のように、小さくて誰かが簡単に持って行けたり、部屋の片隅に埋もれて探せない物でもないのに、あの大きな六幅の屏風が消え去るとは…

私が視覚障害者連合会と河正雄美術館の担当職員に「どういうことか」と問い質すと、皆が上の空だけを仰ぎ見る。真に奇異なことが起きたのだ。

横150cm, 縦35 cm,高さ25 cmの大きな屏風が、第1回「翼よ」の行事が終わった後、河正雄先生が持っていったと思い込んでいたのだが、受理されていなかったのだ。

7年も過ぎ、今や行方も分からない、あの貴重なプレゼントをどうするべきか!誰が所蔵しているだろうという漠然とした推測と、こんなことがあり得るのか!という思いに茫然自失、虚しいことこの上なかった。  

幸い私が余分に表具にしなかった書を所蔵していたので、惜しい別れであるが河正雄先生に差し上げることができる。予想のできないことだったが、このようにしてでも再び差し上げられることは特別な縁だが、河正雄先生と私が共に所蔵したかった夢は、惜しい別れとして残ることになった。

再度、詩文書を差し上げる約束をした後の2022年6月、3年ぶりに河先生が光州を訪問することになった。

それで約束通り、『日々一歩一歩』を読んでの私の詩文の書を、再びプレゼントすることになった。先生は感動され詩文書を広げられた。そして最後の6枚目に、洪銅義先生の落款がないのを見つけて、「すぐに洪先生に落款を貰いに行こう」と言われた。「一枚一枚の全てが、大切な記念品」と重要視された。

洪先生に連絡すると、「こんな縁もあるのか」と大きく喜ばれた。「日頃から河正雄先生とお目にかかりたかったが、詩文を書くことになっただけでも光栄なのに、奇跡的に落款が捺されてなく、今日初めて直接お会いできるとは。こんな縁がどこにあろうか」と嬉しがった。  「『日々一歩一歩』の出版記念会から始まり、記念の詩文を屏風にした縁が、「日々一歩一歩」を書いた著者と記念の詩文を書いた私と書道家が一堂に集まった、このような縁もあるのだな」と喜こび、「泥棒のおかげだね」という河先生のお言葉が、余韻として響いて来る。真に特別なる縁であり、惜しい別れであった。

2022年7月15日記述

暗闇の中の光、社会的協同組合  理事長 金甲柱(キム・ガプチュ)