故郷は遠きにありて想うもの

光州市立美術館名誉館長 河正雄

―父の肖像―

潮のように引いては打ち寄せる、そして泉のように湧き出ずる母校の思い出。ほろ苦く、切なく、やるせなかった青春期の感傷もまんざらではなかった。今、80代の生を歩むものには、郷愁となって懐かしさが募るばかりだ。

私の処女出版「望郷一二つの祖国」(1993年刊)に、中学時代からの親友、直木賞作家の西木正明君が一文を寄せてくれた。「人間の記憶には二種類あって、時間の経過と共に薄れていく記憶と、逆に過去を埋め尽くす渤々たる時間の中で、ますます輝きを強める光芒のような記憶がある。」という書き出しで始まる。それは「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ去ることの虚しさよ。」で始まった菊田一夫作「君の名は」のナレ―ションが同時に甦り、重なる。「忘却」など我が辞典にはないと言えるほど母校の「記憶」は今も新鮮で胸を熱くする。

私が秋田工業高校に入学した理由はラグビーの名門校、質実剛健の校風への憧憬もあったが、社会に出た際に働いて、お金を稼ぐための役立つ学問や技術を身につけたいという、単純な就職の為の動機からである。当時我が家にはラジオも冷蔵庫もなかった。いや何もない困窮の極みであった。日々の生活の切実さから貧乏からの解放、そして、もっと人間らしい豊かな生活の世界へ行きたいという願望、現実的な考えが入学に繋がった。

入学式の父兄との記念写真に父の肖像が一枚だけアルバムに残されている。息子の晴れの日に礼装の父兄達の中に唯一人だけノーネクタイのジャンパー姿、労働着で写っている。私はその姿を見る度に父母の愛の有り難さに頭が下がる。

生保内から秋田まで3年間、片道3時間、往復200キロの列車通学したことは人生の試練の第一歩、良い思い出である。蒸気機関車の躍動は心臓の鼓動のように感じ、日々生きているという実感を味合わせてくれたからだ。宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず…そういうものに私はなりたい。」と祈り願いながら、生きた学生生活を体験した事は誰よりも果報者であったと思う。

-戸籍謄本-

1958年、私は秋田県立秋田工業高校3年生であった。
その年の一学期末、学校から、卒業後の就職の試験を受けるために戸籍謄本の提出を求められた。

それまでは外国人登録証明書の提出だけで身分の証明をしてきたので、戸籍謄本の提出を求められる事に戸惑いを覚えた。それまで父母から戸籍謄本なる存在を全く知らされずに育ち、日本での生活において提出を求められたのは初めてのことだったからだ。

その事が日本社会に出る最初の関門となり、私自身のルーツ捜しの旅となった。戸籍謄本を取り寄せるために駐日韓国大使館、そして韓国民団を訪ね、取り寄せることが出来た。しかし届いた謄本の内容に問題があった。謄本に記載されている私の名は「正雄」ではなく「政雄」となっていた。そして弟二人が戸籍に載っていなかったことである。

父母に聞いてみたところ、私の名について光復前(戦前)に人に頼んで行なったので間違えたのだろう。弟二人の戸籍は光復後のどさくさで頼む人もいなかったので戸籍に載せられなかったという。

無責任といえば無責任ではあるが、父母の言う通りで辺境の秋田で生活に追われ、為す術が無かったのだろう。我が家の戦後の生活状況は、日々切迫していたから私には理解する事が出来た。

-卒業証書-

戸籍の不備を直すために書類を整理してとても難しい手続きを終えるまでには半年以上もかかった。学校から日本を代表する大企業の試験を受けるべく推薦を受け、私はその謄本を提出した。
しかし試験のチャンスは一度も与えられなかった。要するに門前払いを受けたのである。その時私は日本の社会には韓国(外国)人である理由、戸籍条項による就職差別、民族差別があるのだと悟らされた。

その不条理に私は激しい憤りを覚えたが一介の高校生である私には抗う術はなかった。当時の日本社会には、外国人に対する差別条項は就職差別のみならず、金融や保険、住居や教育など280以上の分野に及んでいたのである。
卒業間近になって担任の青海磐男先生に呼ばれ、「君の卒業証書のことだが、名前と本籍をどう書けばよいのか」と尋ねられた。
それまで私は通称名である日本名の河本正雄と名乗り、出身は出生地の東大阪市としていた。しかし私は即座に戸籍謄本にある通り本名の河正雄、本籍は朝鮮(当時、韓国と日本は国交がなかったため)と記して下さいと答えた。社会に出るにあたって、ありのまま露堂堂と生きる決意をした。
その卒業証書は自分のアイデンティティーとルーツに目覚めた私の原点であり、在日韓国人として生きる岐路となった。東京に一人で上京し、自力で就職先を探し船出をした。それが私の20歳までの人生の行路である。

―母校の誇り―

私が生まれた1939年は第二次世界大戦が勃発し創氏改名が法制され、強制連行が法的に強行された歴史的な年である。戦争と植民地政策の苦痛の中で祖国の運命に翻弄されながら、その歴史と記憶を忘れず平和に拘り続けて生きてきた。

社会に出たら朝鮮人としての「根」を隠さず、人間的に文化的に生きていこうと、人間宣言をしたのが母校の卒業証書である。

母校は今、「一人一人の人格の完成につとめ、全地球的観点から人類の幸せのために日本や国際社会に貢献し工業界の発展に寄与する人間の育成」を教育目標に掲げていることは頼もしい。世界に迎えられ、世界に雄飛する人材の育成に挑む教育理念を持ち、発展していく我が母校を誇りに思う。

―絵画部創設―

私は中学時代から絵を描くことの楽しさに目覚めていた。高校に入学して絵画部に入ろうとしたが当時は部がなかったので、担任であった松田幸雄先生に部創設の相談をした。級友からは絵画部は質実剛健の校風にそぐわない、女々しいと蔑まれたが、すぐさま三十余名の入部者が集まった。当時、全校で女子学生は3名いたのだが、その全員が入部したものだから羨望の的になったものだ。

1986年、松田先生が母校の19代校長に就任されたので表敬訪問をしたことがある。その時、絵画部部室に案内された。50坪以上もある部室で制作に勤しんでいる後輩を見た時、誇らしさと嬉しさを隠すことが出来なかった。私の時代には十坪にも満たない物置のような部室であったからだ。絵画部創設は工業高校でありながら、文化部が活性化する時流を作り、部活動が校風全体の文化的価値を高める実績を挙げ得たと今も誇りに思う。部長を引き受けて下さった斉藤靖雄先生は卒業後も毎年年賀状に干支を描いて下さり亡くなられるまで私を励まして下さった。その作品は額装されて今も私を見守り、心の糧となっている。

1959年、この年は鍋底景気と称される大不況の年で、卒業間際まで私一人だけ就職が決まらなかった。担任の青海磐男先生は品川にある、母校の先輩が経営する会社を就職先に決めて下さったが、私が希望する職種で無かった為に独力で探し働いた。数年経って母校の先輩の会社への就職の労を取るにあたり、私の身元保証人が第九代大井潔校長であった事を青海先生から打ち明けられた。それまで大井校長の存在を私は知らなかった。影で支えて下さった恩師と母校、そして大井校長の温かい配慮を有り難く思った。この恩徳を私は生涯忘れられない。

-族譜-

1970年始めの事、我が家に電話があった。「私は河南斗という者だ。霊岩から来た者だが正雄さんのお父さんやお母さんを良く知っている。
一度正雄さんに会いたいと思い東京にきた。」と言った。父母の故郷霊岩からの初めての河家の血脈が繋がる方との出会いである。
河南斗氏は日本語を流暢に話され、霊岩の名士、学識もあり重量感のある大人の風格を持った人柄を感じさせた。「私は河家の族譜を補充し新たに作ろうとしている。
日本に居住する河家の子孫たちを訪ね歩いて調べているのだ。」と言われた。「東京の河徳成氏や京都の河炳旭氏を知っているか。」と尋ねられたが、父母の故郷とも在日の縁故とも断絶して生きていたので、この時点では知る由もなかった。
後日、在日の方々を東京王仁ライオンズクラブに入会してから知る事になるのだが、日本で成功を収めている名だたる先輩らであった。その時、河南斗氏が河家の族譜の一冊を見せ「これは大事なものだ。君にお土産として持ってきた。」と言って下さった。その時まで、私は族譜なる存在を聞いた事も見た事も無かった。

-故郷-

河家の族譜を始めて目にして、震える心で私のルーツを確認した。そこに記されていた厳粛なる河氏の血脈の記録にただ圧倒されるばかりであった。
1971年、偶然にも青森八戸市で、姻戚筋にあたる金義男氏の長男・性植の結婚式で河南斗氏に再会した。式を終え夜行列車で共に東京に帰ることになった。周囲から霊岩での指導者的人物の一人であること、実業家としても並々ならぬ人物であることを再確認させられた。
河南斗氏が「正雄さん、歓迎するから霊岩に一度遊びに来なさい。」と一族の長老として我が子を諭すように話された。それまで父母は、霊岩の事や族譜に日常で触れたことはなく、故郷を訪れようと話したこともなかった。河南斗氏の誘いの言葉は、霊岩の祖先が呼んでいるように思え、私の胸に急速に熱くなり、近くなったのである。当時日本での生活は困窮を極め安定していなかった。父母には、故郷に錦を飾るなどの余裕もなく夢にも考えられなかったのが実態で、父母の心中は誰よりも私は知っている。
それ以来、父は故郷霊岩に帰りたいと、朝な夕なに泣きながら訴えるようになった。そこで母を説得し1973年、霊岩を父母と共に訪問することとなったのである。父母にとっては夢にまで見た42年ぶりの帰郷であった。霊岩に着いてまず始めに祖先の墓参りをした。そこで私は祖先の存在を確認し、父母の故郷の偉大さと温かさを認識した。
1975年、父はまた霊岩に行きたいとせがんだが、生涯一度だけの帰郷の思い出を抱いて天国に旅立ってしまった。

-報恩-

その後、私は父母のおかげで、父母の故郷を自分の故郷として韓国と日本との懸け橋の人生を送るようになった。

その道程で道岬寺には祖先の有り難さからの安寧を祈り、道岬寺本堂新築浄化事業で石燈を三基建立、本堂に盧遮那仏を寄進し、日本の故郷であると角館の枝垂桜を植樹して恩徳に感謝した。続いて月出山九龍峰の麓には母方(外姻戚)の祖父(ハラボジ)の墓、そして31代祖父河権雲の墓を建立し祖先を祀った。
また霊岩の王仁廟浄化事業に参加し浄化記念碑を建立した。その時、王仁廟周辺に桜(染井吉野)の木、欅の木を各々200本植樹した。

2006年には王仁廟の神仙大極庭苑を企画推進し造成、その周辺に角館の枝垂桜20本を記念植樹した。1600年前渡日した王仁博士の先賢の遺徳に真を尽くし顕彰した。

また1988年、光州広域市には視覚障碍者福祉会館建立。1993年に光州市立美術館へ美術作品寄贈。続いて釜山、浦項、大田市立、全羅北道立、霊岩郡立河正雄、朝鮮大学校美術館へ美術作品、古宮博物館と淑明女子大学には歴史資料、光州5.18記念聖地浄化事業として欅植樹。

1995年より開催された光州ビエンナーレへの文化事業支援、メセナ運動を推進出来たのは、祖国と故郷霊岩への報恩と誇りによるものである。在日の私が存在を示し、矜持を抱いて生きてこられた大きな原動力、その源は父母と祖先の故郷あればこそだと思う。
2012年9月5日、7年の歳月をかけて霊岩郡立河正雄美術館が開館した。その祝いの席に親戚の32世、河尚煜2男の河永鎬が「霊岩郡美岩面採芝里山52番地にある正雄の曾祖父30世河正浩(29世河鏜鳳の4男)のお墓が崩れ、形が無くなっているので墓を新造して欲しい。」と頼まれた。

私は「父と祖父、そして曾祖父3代の墓を作る名誉をくれてありがとう。」と言って造成を引き受けた。

墓の碑石には「通訓大夫行事憲府監察普州河公正浩之墓 配淑人曺氏」と刻まれていた。霊岩郡三湖、美岩、鶴山、西湖地方の監察官を司り、正五位の位にある王様の指名を受けた人物である事が判った。

また29代河鏜鳳の嗣子・河瓚浩の長男は李瞬臣将軍の部長を務めた歴史的人物である事も判り、先祖の偉徳の栄光に今日、生ある事を墓前に感謝の拝礼をした。周囲360度が開けた田園の中、緩やかな丘状の小山に整然と眠りについている河一族の先祖達が身近にいる事を確認出来たことは、幸いだった。

―祝・霊岩郡立河正雄美術館創作教育館開館—

全羅南道霊岩郡立河正雄美術館に「明露堂」という施設がある。2014年、その施設に滞在していた私を全東平霊岩郡守が訪ねて来られた。初対面のその席で前任の金逸太郡守との関わりを述べた。

金郡守は2006年4月「先に霊岩郡鳩林里にある中学校を利用して霊岩陶器博物館を開設したが、このたび新築することになった」と言って設計図を見せられた。

その時、「河正雄の陶器コレクションを寄贈して頂ければ3階に河正雄寄贈記念室を作りたい」との申し入れがあった。

そして「河正雄氏は韓国内各都市の美術館に美術品を寄贈している。何故父母の故郷である霊岩郡には寄贈してくれないのか。美術館を作りたいので美術作品を寄贈してほしい」との要請を受けた。

父母や先祖が霊岩のために特別に尽くした訳でもないのに、日本で生まれた在日二世を記念する美術館を建立してくれるという計画には、天から星が降ってきたような身に余る幸せを感じた。私の故郷を想う心、愛する心が天に通じたと、私は素直に喜び祖国と故郷に感謝した。

2007年3月31日第一次として709点の陶器と美術作品のコレクションを寄贈することになった。寄贈は続き2019年10月29日時点で総数3801点となり、2012年霊岩郡立河正雄美術館は開館した。

金前郡守は公募で当選した美術館設計案をキャンセルして、私に設計を依頼した。そして「明露堂」の施設まで新築し私に便宜を与えてくれた。

開館に至るまで金前郡守は朝夕に現場視察をされ、鳩林里の芸術文化の里づくりに献身されたと、その功績を称えた。

全郡守に「鳩林里は、高麗青磁の窯跡史跡や、李舜臣将軍と文通があった人物や、王仁博士の故郷であり、日本に旅立った港の上台浦がある。ユネスコ記録遺産にも登録可能な、地元崔氏族の「無尽」の原型である助け合いの記録と資料が多く眠っている里である。

鳩林里は国立公園月出山に抱かれ、古の韓国の懐かしい故郷が今に残る絵の様な里である。私は寄贈した作品を並べ観せる美術館では満足出来ない。この鳩林里から先人たちの歴史を甦えらせ、新時代の文化芸術発進の地、老若が学ぶ生涯教育の場、歴史と美術、芸術の学びの里にしたい」

A4サイズの半紙に創作教育館構想の絵を描いて私の夢を語った。

全郡守は「私の任期中に鳩林里芸術村構想を具現させましょう」と述べられたことで種は植えられた。

コロナウイルス感染禍が、第7波拡大に入ると議論されていた2022年6月初旬「私の郡守2期目の任期が6月30日となった。8年かけた創作教育館の開館式を6月28日に行いたい」と全郡守より電話があった。

私は年初より体調不良で一時歩行が困難ではあったが、慌ただしく訪韓することになった。コロナの検疫がいかに重要なことであるか手続きの過程で知った。老兵にはついていけない煩雑なオンライン手続きには周囲の力を借りなければならなかった。

コロナ禍のため3年半ぶりの訪韓であったが霊岩陶器博物館では「火の痕跡」展、霊岩郡立河正雄美術館では「寄贈の美学Ⅰ・在日の作家たち」展、創作教育館では「地域の作家」展が開催されていた。創作教育館が建ったことで環境が大きく変わり緑も深みを増していた。

当初、全郡守に描いた絵よりも厚みと深みが増し、奥行きと広がりに感嘆した。地元の古老が「鳩林里がこんなに美しいとは知らなかった。この美しさを知らないものは霊岩人ではない」と誇り、これまでの労苦と旅の疲れが吹き飛んだ。

2022年6月28日霊岩郡立河正雄美術館創作教育館建立にあたり、霊岩郡の開館式での経過報告である。

「所在地は霊岩郡郡西面東鳩林里337番地。建立規模は土地2017㎡。建築面積は地上2階建て延べ1434㎡。事業目的は文化集会施設としての美術館-展示場(収蔵庫、工芸展示、創作スタジオ、教育室、カフェ、事務室)。総経費は44億ウォン。

本事業は全郡守の公約事業として、鳩林文化景観造整作業としての企画で2019年国内美術館4か所、日本の埼玉県立近代美術館などの市場調査のうえ推進した。

創作教育館の建立により収蔵品空間が250%拡大。展示空間は150%拡大された。創作教育館建立にあたり大きな関心と支援を惜しまなかった全東平郡守、河正雄先生の諮問を受けて基本実施設計がなされ竣工、開館した。

文化行事と生涯教育プログラムの多様化と郡民の文化素養増進の寄与が期待される。」

霊岩郡立河正雄美術館は世界の人たちの共通の故郷、憧れのシンボル。人類愛に満ちた癒しの美術館になるであろう。

望郷の里・霊岩は世界の人々が、愛の故郷を霊岩に定着させようという、文化活動の拠点である。日本文化の先賢であった王仁博士の故郷で繰り広げられる事は、未来への希望に繋がり夢が膨らむ。

霊岩郡立河正雄美術館は「河正雄の旅の途中」の作品の終結とも思えるが、新時代への始まりとも言える。

7月1日就任された禹承熙新霊岩郡守は「韓国一のかわいい美しい歴史と文化芸術の里鳩林里の造成」を選挙公約され当選したという。

歴代の郡守に引き継がれて来た意欲と情熱を込め、更に発展する霊岩郡に栄光あれと声援を贈る。

-栄光-

私の報恩メセナに対し、国から2012年宝冠文化勲章を受け、光州広域市と霊岩郡には河正雄路が設定され顕彰を受けた。我が祖先の恩徳に感謝し、その遺徳を受け継いでいくことの意味を噛み締める。子孫たちの未来への繁栄と安寧を約束するメッセージであると思う。
霊岩河氏門宗の子孫達が国際社会や地域社会で、誠実さと勤勉さをもって、平和と幸福追求のために、寄与する優秀なる希望の人脈、血脈であることを願わずにはいられない。
聖なる月出山、悠久なる霊岩の輝きが、我々の進む道を照らし、霊巌河氏門宗の栄光を守ってくれることを祈っている。