李方子妃殿下について
李方子さまは日本の皇族のご出身、皇后陛下の従姉に当られます。
梨本宮守正、伊都子夫妻の第一王女として明治34年11月4日にご誕生されました。
大正9年4月28日、19歳の方子さまは李王朝王世子垠殿下とご結婚され、赤坂紀尾井町に新居を構えられました。
昭和20年の日本の終戦と共に夫君の国は分裂、臣籍降下、無国籍、そして一韓国人と、波乱の日々が続きました。
昭和34年、垠殿下が脳血栓で倒れ、意識不明のまま韓国にご帰国され、昭和45年5月ご逝去なされました。
方子さまは垠殿下のご遺志を継いで、ソウル市郊外に精薄施設「慈恵学校」、翌年には身体障害児補導施設「明暉園」を設立なさいました。
晩年は、私財をなげうって精力的な奉仕活動に半生を捧げていらっしゃいました。
李方子女史ドキュメント映像フィルム
韓国のめぐまれない子供たちのための李方子元妃殿下
チャリティ作品展
開催日時 | 1982年9月28日~10月3日 |
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開催場所 | 日本橋三越 |
傘寿を迎え露堂堂と生きる-河正雄著より
1982年9月28日の事である。
日本慈行会主催李方子妃殿下日本橋三越チャリティ作品展が開かれた。私はその時、通訳や案内役のお手伝いをした事で妃殿下と御縁を結ぶ事となった。
作品展には福田赴夫首相や皇太子様(平成天皇陛下)と美智子妃殿下、三笠宮妃、高円宮様など皇族の皆様がお揃いでおいで下さった。
方子妃殿下の作品を一点一点と買い求め支援下さる情の深さに心打たれた。その時に撮った写真は、私の貴重な記録となっている。
その日、広島の呉市からお見えになった舟橋素貞さんは李方子妃殿下のチャリティ作品展に賛助出品した韓国女流画家郭桂晶さんの作品をも買い上げられた。
そして郭さんを広島、宮島へと招待されたのである。
私は郭さんの通訳の為に同道して舟橋さんとの御縁を結ぶ事となった。
舟橋さんはその後、幾度となく染色の作品を送って下さった。
その作品は全てが霊岩郡立河正雄美術館に寄贈し、収蔵されている。しかし再会する機会は一度もなく36年が経過して行った。
2017年になって心臓の手術を受けて眠れぬ夜が幾晩とあった。
その夢の中に舟橋さんが現れたのである。
私は2018年3月20日、一途に会いたさが募り、その思い抑えがたくなって妻を連れ立ち呉に旅立った。
呉駅前のホテルで再会した。
30分は立ったまま抱き合い、つもる話は途切れなかった。
「会いたくて会いたくて堪らずに参りました。」と述べたところ、「これまで36年間あなた様を私の弟だと思っておりましたのよ。」と語られ、私は感極まってしまった。
今年、舟橋さんは90歳になられたが、36年前にあった時のイメージのまま、凛と威厳を持った立ち姿の美しさには見惚れるばかりであった。
人を恋しく思いあう心。例えようのない至福の気持ちを味わい尾を引いた。
「呉においでになったのだからカメラマンと車を用意しましたので記念写真を撮って下さい。」
呉の観光スポットを廻り写真を撮り終えて「お茶にしましょう。」と自宅に案内された。室内には1982年に三越で買い求められた懐かしい李方子妃殿下の「梅」の掛け軸や郭桂晶さんの版画と民芸品を飾って迎えて下さった。
室内には客をもてなす為の茶の作法に則った目録の書がしたためられ、ピンと張り詰めた空気が漂っていた。
梅 李方子妃殿下
鶴亀 遠外妙心寺管長
茶 盌
瑞新 楽吉左衛門
瑞松 清水六兵衛
松嶋 永楽善五郎
棗
六瓢 中村宗哲
春草 黒田正玄
波 輪島章
平成30年3月20日 舟橋」
目録を見て15代楽吉左衛門の「光悦考」からの言葉、「それが未だ見ず名も知らない人の心を、わずかに温め幸せな気分をもたらすなら…この世に存在する確かな意味と資格を持つ」を思い出した。
「これ程の準備の為には、大変な時間を費やされたでしょう。」と感謝を述べると、付き人の方が「3日前から準備してお待ちしておりました。」と答えられ身が縮む思いがした。
私は完全に浦島太郎の心境となってしまった。訪問記念にと室内でも写真を撮りお暇を戴いた。
4時間程の対面ではあったが、その濃密さは36年の時間が詰まったものである、もてなしの心に変わらぬ心根があった事を確認した。
後日、余韻冷めやらぬ思いでいる所に記念写真帖が贈られて来た。
それは舟橋さんの書「夢」を染めあげた風呂敷を八重に縫製した作品で重厚に包まれていた。
そして「生きて生きて夢を夢みて天空へ」と句が添えられ「河様、御多幸を祈念いたします。
平成 戊戌 春吉日」としたためられていた。
私は「舟橋様の御心に何のお返しも出来ません。
ただこれまで一生懸命に生きて来た事のお報せだけで感謝の証と御理解いただければ幸いです。
御健勝でお幸せでありますよう祈念します。」と答えるのに精一杯であった。
国立古宮博物館寄贈経緯
2008年4月11日 | 17点 金沢市小村進氏文物寄贈代理人 |
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2008年12月4日 | 684点 英親王・李方子女史資料寄贈 |
2009年4月23日 | 1点 李方子女史資料寄贈 |
2017年11月3日 | 5件6点 李方子女史資料寄贈 寄贈総計691点 |
国立古宮博物館 河正雄寄贈展 2011年11月22日
韓国国立古宮博物館に寄贈した垠殿下、李方子妃殿下の
お写真(抜粋)
英親王・李方子妃殿下の遺品を寄贈
在日韓国人2世が、大韓帝国最後の皇太子である英親王(本名:李垠)と李方子妃の遺品を駐日韓国大使館に寄贈し、話題を呼んでいる。駐日大使館と韓国文化院によると、埼玉県川口市に居住する河正雄(ハ・ジョンウン)さんは4日、これまで所蔵していた英親王夫妻に関運する遺品680点を 大使館に寄贈した。英親王は初代大韓帝国皇帝高宗の7番目の息子で、同国最後の皇太子。1920年に日本の皇族の方子女王と結婚した。
美術品収集家で歴史研究家としても活動する河さんが寄贈した遺品は、英親主が初めて日本に渡ってきた時の写真から、日本植民地時代に韓国を訪間した時の写真、韓国に永久帰国した当時の写真など、さまざまな写真・写真乾板・資料だ。英親王の自筆手帳や各種書類、郵便はがき、書簡など未公開の資料も少なくないため、史料としての価値も高いと駐日大使館側は説明する。
これら遺品は、李方子妃と長年にわたり親交のあった「サンオフィス」社の山口卓治社長が李方子妃から直接受け取ったものと伝えられた。山口社長は、李方子妃のドキュメンタリー映画を制作したこともある。
韓国文化院関係者は「山口社長が高齢となり、普段から付さ合いの深かった河さんに贈呈したと聞いている。河さんはこの遺品を通じ、韓日両国が不幸だった歴史を共有し、共同で研究することを願い寄贈した」と明らかにした。駐日大使館は遺品を韓国の関運機関に送り、該当資料の研究・データベース化を進め、資料展示会を開くなど、寄贈者の意思が尊重されるよう計らう方針だ。
河さんは若いころから韓国に関する文化財と芸術品を収集しており、在日韓国人文化芸術協会の会長も歴任した。これまで光州市立美術館に3557点、全羅南道の霊岩郡立美術且官に1466点、朝鮮大学美術館に178点、全羅北道の道立美術館に122点、釜山市立美術館に100点など、各機関に多数の寄贈を行った。
李方子妃直筆の日記、手紙等公開(2010年)
博物館側は「激動の歳月を解き明かす貴重な資料だ」と評価している。
公開されたのは、2008年12月に在日韓国人が韓国政府に寄贈した方子さんの遺品 約700点の一部。
日記は、1919年1月から12月までの期間中、計136日間にわたってつけられていた。
朝鮮王朝最後の皇太子である李垠殿下との結婚が4日後に予定されていた19年1月21日の日記では、殿下の父で、第26代王だった高宗が重体に陥った報告を受け、悲嘆に暮れた様子をつづった。結婚式の延期や殿下への愛情なども語られている。
2011年
この内容は彩流社2012年刊 新聞記者が高校生に語る「日本と朝鮮半島100年の明日」にも掲載されている。
李方子妃殿下関連:宮内庁楽部雅楽と大韓民国国立国楽院国楽の交流演奏会 「田沢湖祈りの美術館」