紹介記事

副題に「日本と韓国 ・二つの祖国を生きる」とあるように、旧田沢湖町(仙北市)出身の著者は在日韓国人二世。
「美術を通して(日韓)両国の海峡に相互理解と交流の懸け橋を」と生きてきたという。
それは希望であり、祈りでもあった。
在日の画家を中心に蒐集した作品「河正雄コレクション」は、父母の故郷である韓国・光州市 美術館に展示されている。
作品にまつわるエピソードなどをつづっている。
取り上げた人物は、旧山本町出身の石井漠門下で、世界的に活躍した舞踊家・雀承喜、全世界に数人しかいない「無鑑査マスターメーカー」の称号を授与されたバイオリン製作者・陳昌鉱、「祈りの芸術」とタイトルを打った画家・全和鳳ら多彩だ。
関係作品のカラー写真も掲載している。文章を読み、芸術家たちの生涯と創作活動への思い、そこに包含され た「祈り」を知った上で鑑賞すれば、作品がより味わい深いものになるはずだ。

日本と韓国二つの祖国を生きる『祈りの美術』文集出版に寄せて

〈問題提起〉

二〇〇二年七月一〇日付聖教新聞のコラム『名字の言』に「大成功で終えたサッカー・ワールドカップ。日本と韓国による共催とあってか終了後お互いに親近感を増し、両国の関係は良い方向に向かっている。お互いの国が理解しあう事は大切なこと。ただこの“相互理解”、ワールドカップの共催を機にした一過性のものであってはならない。『韓国と日本、二つの祖国を生きる』を記した河正雄氏は、この点を鋭く指摘」との記事が載った。

それは先立つ事二〇〇二年六月二六日付同紙の『きのう・きょう』欄に「共生・共栄の精神で懸橋となる『在日の想いを込めて』」を執筆したことへの問題提起であった。

(『ワールドカップ』を『韓流ブーム』と重ねて読んでも、今の時流には当て嵌まる。)

〈在日の想いを込めて〉

我が家の在日としての歴史は現在、孫の世代まで数えて四代、七八年の時を刻んでいる。

一九二六年、我が父は一六歳の時来日した。そして一九三九年東大阪市で私は生まれた。振り返れば、私は父母と共に日本の植民地時代と第二次世界大戦(太平洋戦争)を体験し、終戦後も日本国民や同胞と等しく貧困と闘い在日を生きてきた。祖国解放の喜びも束の間、朝鮮戦争による南北分断は朝鮮民族の不幸の象徴であり、その傷は未だに癒されず悲願の統一は夢の中である。

在日の我々は、国交回復までは韓日政府から疎外され差別と偏見の対象であった。著しく人権を無視され、韓日の狭間の中で翻弄された民である。今、世の流れは急激に変わりつつある。現在開催されている日韓共催のワールドカップサッカー大会は、熱狂の中で在日とも親しくなり、近くなり、理解しあえる為の絶好の好機を両国民に与えたと思う。

しかし、日韓の兄弟は熱しやすく冷めやすい気質を何故か共通して持っているようだ。私は歴史認識からくる教科書や靖国参拝問題などで在日の我々が、また肩身の狭い思いをするのではないだろうかと一抹の危惧を抱えている。両国民にとっての千載一遇の好機が、一過性の「友好親善のブーム」で終わってしまわないことを祈らずにはいられない。

日本には七〇万人の在日同胞が住んでいる。今や在日は五世代となり日本を我が故郷、祖国と思っているのだ。若い世代は祖国発展への寄与と日本社会への貢献など定住、定着志向を鮮明にし日本社会で尊敬され模範的市民となるよう努力している。韓日の友好親善に積極的に寄与し「共生・共栄」の精神で「懸け橋」としての役割を担う矜持を抱いているのだ。

私は「在日」の生き様をテーマに世の人を愛し、故郷を想い、父母を敬い、韓国と日本という二つの祖国に対する熱い想いと願いを今回の本に込めて書いた。これが韓日両国間、そして両国民の在日の理解への指標の一つの形となれば幸いである。

〈出版の動機〉

二〇〇五年は光復(終戦)六〇周年、韓日国交正常化四〇周年記念の歴史的節目の年であった。韓日政府間では国民友情年と定め、更なる友好と交流を促進するため、帝国ホテルで開かれた「国民友情年を祝う集い」には小泉総理が、韓国での集いでは盧武鉉大統領が出席して、両国の友情年の出帆式はこれまでにない友情ムード溢れる希望に満ちた盛大なものとなった。

私はこの意義ある年に以前から計画していた韓国と日本、二つの祖国を生きる『祈りの美術』というタイトルで文集を出版する計画を立てた。

一九九三年『望郷-二つの祖国』、二〇〇二年『韓国と日本、二つの祖国を生きる』という自叙伝的なエッセイ集(そう言うと気恥ずかしい出来だが)を出版したが、韓流ブームも手伝ってか、『二つの祖国』というタイトルネーミングに郷愁と共感を寄せる読者が増えていったことは想定外の出来事だった。

その時、読者の方から私のコレクションについて、美術にまつわるエピソードを読みたいという話を何度かいただいた。

確かに既存する作品から作家、作品、展示会に対する想い、エピソードを推測し、理解することは難しい。ならば折々に開いた美術展に寄せた文章、在日の日々の想いの文章などを集め、理解を深めてもらいたい。この本の出版の動機はそれに尽きる。

『望郷-二つの祖国』を出版した一九九〇年の初め頃は、韓日の友好ムードは今と比べるべくもなく、民間交流、文化交流も冷え切っており、韓国嫌い、日本嫌いが多かった時代であった。

在日の私事に関心を寄せる人が少ないのは当然であったが、少なからず私の本に共感を得たといってくださる方々もあり、大いに励まされた。近年、私の出版の意義を認めて下さるような風潮、世論が生まれてきたのは、この時期から潜在的に韓国への興味が増し、現在への萌芽が始まっていたのではないかとも思われる。

〈反響〉

『望郷-二つの祖国』(一九九三年成甲書房刊)という本を出版した際、様々な反響をいただいた。日本人が忘れ、意識しなくなってしまった「祖国」と言う言葉に覚醒させられ、そして懐かしさを感じたとの感想であった。

「溢れる感激性が気恥ずかしくて、それでも抑えられないという朴訥な文章を通して幾重にも折り編まれた“故郷を越える故郷”が読み取れる。在日同胞は、どのようにして代を継ぐ自らの故郷を築いて行くかという問いかけを受け止めることでもある。」(統一日報:一九九三年一〇月二九日)

「二つの祖国に対する望郷の思い」は誰もが持っている、いや持たねばならない故郷というものだが、社会的環境によって特殊な環境に置かれ、故郷を求めるに苦労を伴うものとなってしまったが故に、より強く、より切実なものとなって著者の心に溢れ出てきたものではあるまいか。」(友情:一九九四年一月一日)

幼少の頃から筆舌に尽くしがたいほどの苦難の道を歩みながら、それを不幸とも思わず、夢と希望、ロマンと喜びを抱いて、勇猛に生き続ける。しかし文句の一つ言うでもなく、むしろ感謝の念の中で生活し続けた河正雄の人生。(韓国文化院ニュース:一九九四年三月号)

国境や民族を超えた河正雄の生きた実践の勝利の書である!(劇作家・李容九:一九九五年七月二二日)

人間はいったいどこまで他人に優しくなれるのか-。民族的なバックボーンはあるものの、基本的には他人への優しさがある。(秋田さきがけ 佐川博之:二〇〇〇年九月二日)

また『韓国と日本・つの祖国を生きる』(二〇〇二年明石書店刊)を発表した際には次の様な感想をいただいた。

平坦な道ではない。教科書問題が燻ぶり反日感情は強かった。劇団公演では「何故拍手するのか。してはいけない。ウエノム(倭奴=日本人の奴め)!」という声も浴びる。それでも働き続けるうちに変わっていく。(公明新聞:二〇〇二年七月三〇日)

尊く誠実に営まれた業績は、時代の移り変わりにも何の変色もなく輝き続ける。その姿に自身を重ねたいという叫びが全編を貫いている。(民団新聞:二〇〇二年七月三一日)

両国の狭間の中で苦吟し悩み抜く真摯な生き方、そして正しいと信じた事を行動に移す決断力など、人の出会いを含めた生きてきた証しの数々。(明石書店:二〇〇二年)

スポットが当たる分、毀誉褒貶はつきものだ。しかし「どこかで成長が止まって今の世には通じない化石」のような在日と美術にこだわる姿が見て取れる。こういう河氏を社会的に位置づけようとすれば美術を軸に在日、韓国、日本の相互理解に尽力する「ひとりNPO(非営利組織)」とでもいうべきか。(アプロ:二〇〇二年五月号)

著者の人生がいかばかり過酷なものであったか。語られるのは容易に埋めがたい二つの祖国の溝に、しなやかな橋を架けようとする著書の精神の尽力についてである。

(読売新聞 渡辺利夫 拓殖大学国際開発学部長:二〇〇二年五月一九日)

〈コリアン・ディアスポラ〉

これらの反響には、分断国家の国民に課せられた苦痛と苦悩を持つコリアン・ディアスポラ(本来属していた共同体から離散することを余儀なくされた人々、及びその末裔を指す普通名詞・徐京植氏の解説)に対するノスタルジックで感傷をも包み込んだ「望郷」という共通語で共感されているかのようにも思われた。

我々には故郷があるようでない。日本で生きるには日本人以上に日本人であることを求められ、韓国でも韓国人以上に韓国人になることを求められる。それは、そのどちらにも存在を認められていない現実を突きつけている。

韓国人としての誇りを持つ一方で、日本で生まれ育ち、ここでなくては暮らすことができないという思いと葛藤が常にある。しかしその狭間に生きる私達には、互いの長所、短所を学び人間としての品格、人格を備えて生きていく独特の視点、思想、処世術もある。狭間に生き続けて行く事、それはコリアン・ディアスポラとしての宿命である。

人間は一生一人で生きていくことは出来ない。友や恩師、家族、二つの祖国が私の人生を彩り、豊かにもし、苦しめてもきた。しかし長い月日の中、それらは愛しいことと思えるのだ。その想いがこれらの本となって形となった。その想いが、読んで下さった方々にも少し理解いただいたことは幸運であったと思う。

〈国益〉

だが桜が開花する頃になって韓日間の雲行きがにわかに怪しく、厳しくなってきた。教科書問題、小泉総理の靖国参拝、独島(竹島)の領有権問題などが、外交問題として噴き出してきたからだ。私がいつも抱いている憂慮、危惧は現実のものとなり、花が咲かぬうちに散っていくような雰囲気の中、友情年は白々しく吹き飛んで、過ぎ去っていった。

本来国交の要は国民同士の間で築かれる民間交流である。国同士の国交は互いの主張、思惑、都合によって千変万化し、民間交流がどうなろうと構わないという傾向はある。国益というものを重視すれば致し方ないこととはいえ、それによって失われた機会が生み出したかもしれない相互理解を思う時、暗澹たる想いがするのだ。

「最も近い国」と心通わせたかのように思えた両国の友好とは、このように脆く内容がないのだろうか。それぞれの思惑と国益により軋みを挙げる「友好」を思う時、私は失望と苦々しさしか感じていなかった。

秋に入り月刊誌『韓半島』から特別企画として、河正雄コレクション『海峡を結び悠久の明日を託した在日の画家たち』を四号にわたり連載したいとの申し入れがあった。

私は「『祈りの美術館』への想い」という文章を寄稿した。

〈「祈りの美術館」への想い〉

月刊『韓半島』で、河正雄コレクションから「在日」の画家たちを紹介したいとの申し入れがあったとき、一瞬の戸惑いとともに、沸々と沸いてくる感慨は、一口では語り尽せないものがあった。

徴用(強制連行)などを含め、祖国と日本の不幸な歴史の中で亡くなられた、無縁の霊を慰めるための美術館を建立しようと、私は在日の手による美術作品を中心にコレクションをはじめたが、「金にもならない、名もない画家の作品を集めても、末は公害か廃棄物にしかならないだろう」と陰口を叩かれ、光州では「ゴミのような作品を寄贈した」と中傷され、「ゴミもここまで集めれば立派な宝物だ」とも揶揄された。

民族の統一と和合を祈り、韓日の平和と安寧を祈りたいだけの、純粋な動機からのものであったが、日本では私の『祈りの美術館』設立の夢は理解されなかった。

中国を含む東アジアという視点から蒐集した作品は二一〇〇点以上(在日の画家たちの作品は約半数)、このたび『韓半島』で紹介する在日の画家たちによる作品は、ほんの一部でしかないにしても、費やした四〇年という歳月の労苦を忘れさせる感慨深いものだった。

一九八二年、ソウル徳寿宮国立現代美術館で在外作家招待展が開かれ、全和凰、郭仁植、李禹煥、郭徳俊、文承根が、在日の作家として韓国の美術史上初めて記録された。一九九八年、同美術館で『再び捜し出した近代美術展』が開かれ、曺良奎、宋英玉が新たに在日の作家としてスポットが当てられた。

そして、二〇〇〇年三月第三回二〇〇〇光州ビエンナーレ記念、光州市立美術館企画『河正雄コレクション・在日の人権展』が開催され、前述の七名の外に呉日、金昌徳、李哲州、蔡峻、金登美、三浦利江子(李菊子)、伊丹潤(庚東龍)、金石出、孫雅由、金善東、崔広子、洪性翊、金愛子、朴一南、李鏞勲、姜慶子、金英淑の作品が展示された。

「在日の人権」という重いテーマではあったが、着想のユニークさと省察を促す内容は、国際美術展で在日のアーティストの存在と、現代美術を見直す一視点を内外の美術界に与えた。この記録は在日の歴史となる。

作家個々の活躍を見れば、一九八四年、陳昌鉉はアメリカバイオリン製作者協会から、世界に五人しかいない『無鑑査製作作家の特別認定』と、マスターメーカーの称号を受け、一九八五年には崔広子が仏国立美術館ポンピドウ文化センターで、アジア人として初めて個展を開くなど、世界に認知されることとなった。

また、一九九一年には李禹煥、二〇〇五年には伊丹潤が仏政府から文化勲章を受けるなど、さらに拡がっていく。これらの事例が示すとおり、今や在日は、日本という島(列島)から祖国(半島)へ、そして大陸へと雄飛する新時代の世界人(美術芸術の域)となっていることを、私は誇りとする。ブラックホールのように閉塞された過去の「在日」から解放され、世界を舞台として存在感を示した存在であるということを-。

この企画を受けたとき、「在日には文化がないよ」とある識者が語っていたのを知り、「在日には、他者にはない独特な想いと文化がある」と答えた。また、「世界の人が見る河正雄コレクションの中で実証することができる」とも力説した。義と民主と人権の都市としてもっともふさわしい光州に、在日の作家の作品を中心とする河正雄コレクションが存在し、収蔵されているという事実は、誰もが認める厳粛な現実(歴史)となるだろう。

光州という韓国の地方都市から発せられるメッセージは、普遍化された祈りとして世界に届くものであると確信するものである。(月刊韓半島 二〇〇五年一一月号)

〈韓日間の境界を越えて〉

この文章を書いて後、晴れ晴れとしない想いから本の出版を半ば放棄していたが、気分を新たに昨年から計画していた出版に本格的に着手することにした。

年の瀬、何十年ぶりかの大雪の日、秋田県横手市十文字町の友人、イズミヤ出版のオーナー泉谷好子さんを訪ねた。泉谷さんは、それまでの話と私の気持ちを快く聞いて下さり出版を快諾して下さった。

今までもそうであったが、売れて儲かるような内容の本ではないため、損失の危惧がないでもない。しかし在日と韓国、そして美術に関することに関心と好奇心を持つ読者の方々がいるというのも先述のように確かである。

本書で在日二世の私が日本に生まれ、如何なる想いで在日を生きたか、私の在日の生の全てに美術があったこと、美術を通して両国の海峡に相互理解と交流の架け橋を架けようとして苦闘の半生を生きてきたのか。その動機を読んで貰いたいと思っている。

本書の文章作成には、その折々に感動したり、関心を持ったことを、長年書き綴ってきたもので、日記、または記録文のような側面も持っている。私が学徒として学んだことを記している面もある。

本書には新聞、雑誌、そして先に出版した本に発表した文章も構成上から何篇か再録して載せている。よって同意、同旨の文が重複していることをご理解戴きたい。

文献や資料、記事、そして多くの方からご教示をいただいた事を参考、参照させていただいたことを、ここでお断りし、感謝申し上げる。

イズミヤ出版には大変難儀をかけたが、私の想いに深い理解を示して下さり、このようにご協力いただいたことに喜びと感謝を表する。

読者の皆様方にとって面白みがなく、苦痛を強いる内容である事は筆者である私が十分に承知しているが、押してご寛容をお願いする次第である。

韓日間が境界を越えねばならない歴史認識の差異、在日の人権問題に何が横たわっているか、行間から読み取り感じ取っていただければ幸いである。

この書の意義と福音は読者の皆様方の想いが定めて下さるものと信じている。

-二〇〇六年早春-