幸福とは何なのか

河正雄

2020年、誤解によるコミュニケーションの本質を追求する画家・江上越さんのインタビューを受けた。

 「私の人生は人からの妬みや嫉み、社会からの差別、蔑視、偏見、友人からの背信や詐欺、国や組織からの阻害、弾劾など心休まる暇のない道を歩いた。ありとあらゆる事柄で無理解と障害が立ち塞がり、物事が真っ直ぐに進んだ試しがなかった。

人の世は全て損得と謀で生きるのかと理解はしたくないので、自分は善悪両面を併せ持つ人にはならないように生きようと頑張って来た。

文化の違い、民族の違い、習慣の違い、 境涯の違い、時代の違い、年代の違い、老若男女の違い、先輩と後輩の違い等々、この世は価値観の違いだらけの齟齬(そご)の世界なのだ。

この違いだらけの世界の中を “自分らしく” どう生きるかである。」と処世観を実直に述べた。

東京オリンピック前年の1963年に私は結婚し、現金で家庭電化製品を購入した。その電機店主から、その現金を使いたいので月賦で買ったことにして欲しいと頼まれ、名義と印鑑を貸したことで多額の負債を背負わされる詐欺に遭った。負債を返済するために、その電機店を引き受ける羽目に陥った。

その時、私は朝鮮総連川口支部に勤めており、二足の草鞋は履けないので、止む無く辞めなければならなくなり、委員長室で退職の話を済ませトイレに行った。

その時、委員長室で幹部達が「河正雄は韓国のスパイだ。これからは、この事務所に入れるな。」と私を罵っている声が聴こえてしまった。

背筋が凍るような恐怖を感じた私はそれ以降、今まで朝鮮総連の事務所に近づいたことはない。

これは電機店を経営していた時のことである。朝鮮総連のお得意さんから弟の嫁を紹介してもらえないかと頼まれた事がある。当人たちは意気投合して交際を始めたが後日、女性から断りが入り縁談は纏まらなかった。

ある朝、店のシャッターを開けると糞尿が店先に撒かれていた。弟が私の仲介が良くなかったために破談になったのだと、腹いせにやったようだとお得意さんから謝罪があった。

そして弟は間もなく肝硬変で亡くなったと知らされ、可哀そうだったという想いが今も残っている。

1980年に韓国民団川口支部に誘われて入団し、副団長を引き受けた。そして埼玉セマウル美術会を主催し、民団で絵の指導をした。

民団での文化事業として、活動が全国的に知られることになったが、幹部や一部の団員に「民団を利用して名を売り、絵を買わせることが目的である」と批判され、執拗に中傷を浴びせられた。

その後、役員改選となり監察委員長に立候補、民団規約に従って手続きを済ませ、支部総会の投票日を迎えた。

総会で立候補の所信を述べる段階になったが、その時に議長が私の演説を止めた。総会を一時中断として幹部達が協議のためと言って一階に下りて行った。一階からは揉めているような大声が聴こえて来た。

一時間以上経って再開されると、河正雄の立候補は認めないという採択が成されて立候補を取り消された。何故、このような無法が罷り通るのか、その時は全く理解出来ず、私の声は圧殺されてしまった。

後に判明したことだが、私が監察委員長になると、それまで行われて来た馴れ合いの民団運営や幹部人事、民団活動の不浄を厳しく追及、改革するであろうという先入観が理由であった。

民団には規約がある。それを捻じ曲げてでも仕組んだ計略により、私を引き摺り落とし民団を私物化しよいうとする一部幹部達の行いであったのだ。それ以来、私は民団川口支部から距離を取り、関りを遠ざけた。

2018年9月5日以降、良識と品位、高い倫理性を保っていると信じていた、韓国の公共放送光州KBSにて連日、私に対する数々の批判的、不名誉な放送がなされた。

「市民の血税を使って河正雄を神の様に奉っている。河正雄は光州市と強制的協約を結び、荷重に栄誉を得ている。 『表裏の顔を使い分ける二面二重の仮面を持つ河正雄』」という内容の報道であった。

その放送後、光州や霊岩、ソウルなど国内外から連日「何事ですか」と心配する問い合わせがあった。

「抗議デモをする」「放送倫理調停委員会に告発する」「名誉棄損で訴えよ」「記者会見を開き反論せよ」、また「在日潰しではないか。潜在的な差別意識の表れではない

か。」等々、慰労と激励を越えて穏やかならぬ飛躍した話まで出た。

そして彼らは異口同音、「全く恥ずかしい話だ。河さんに申し訳ない、許して欲しい」と同情と謝罪の言葉を数々かけられ、逆に戸惑った。

親の恥は子の恥、韓国の恥は在日の恥。同情され、謝罪し慰められる理由を捜してみたが心当たりはないフェイクニュースであった。

これまで韓国で「余りの複雑さと訳の判らなさ」に翻弄された時が幾度もあり精神を病んだ。防衛本能から確執すると泥沼の罠に嵌る。我慢を重ねると小さな不幸が起き、怒れば大きな不幸へと育ってしまう。

辛抱の木に花が咲くまではと、忍の一字で耐えた。いつも世の中は正しさよりも判り易さを優先し、作為的な世論操作により正義が捏造される不条理なる現実を見て来た。

その間に、筋書きを描いて暗躍していた3名の名が私の耳に入って来た。光州KBSを利用して世論を操作し、私の光州市立美術館名誉館長の肩書を失くす目的もあったようだ。

間違っていても多くの人が共感すれば、それが真実になってしまう大衆心理の恐ろしさがある。光州KBSのフェイクニュースには正義の名に潜む悪意と毒気があり、権力の横暴と大衆の狂騒を作り上げる恐ろしさを感じた。

田沢湖畔に姫観音が建立されたのは1939(昭和14)年11月10日。私が生まれたのは同年11月3日である。その姫観音像に刻まれている碑文の主旨は玉川の毒水が田沢湖に入り込んだ為、死滅した魚と湖神・辰子姫の霊を慰めるというものであった。

1981年1月2日、私は田沢湖町で行われた同期会で41歳の厄払い行事に参加し、その時から姫観音や戦前の徴用史実の調査を始めた。

その年に田沢湖町観光課は、荒れ果て放置された姫観音像の周りを整地し、姫観音の由来を解説した掲示板を掲げた。下記がその案内文である。

「姫観音像

いにしえ、辰子とよぶ村の乙女が、永遠にかわらぬ美しさと若さを保ちたいと大蔵山の観音に祈った。

満願の日、俄かに山は砕け水をたたえた精澄な湖が成りて女は蛇体に変じて湖の主になりたまふた。

それより村の人は、姫をあがめ、湖水の清浄を守り伝えて来た。

しかるに昭和十四年に東北地方振興のため、仙北平野の開拓と水力発電に田沢湖を活用する事になり、湖水が大きな変化を受ける事になった。

ここにほろびゆく魚族と湖神辰子姫の霊を慰めるため浄財を集めて、姫観音を建立した。

みほとけよ、願おくは大いなる恵みを垂れたまわんことを。

昭和十四年十一月 槎湖仏教会 田沢湖町」

それまで町史や観光案内書等の資料にも建立由来の記録は見当たらず、知られない秘められた観音様で、田沢湖観光の名所としても紹介されていなかった。

1985年から町の高橋福治観光課長ら有志による呼び掛けで、姫観音供養祭が執行される様になり、私は招待されて参席した。その開催動機は田沢湖に投身自殺者が余りにも多いので、その慰霊と訪れる観光客の安全を祈祷する為という理由であったので私は疑念を抱いた。

姫観音像碑文と掲示板の字句によると、姫観音建立の大事な主旨がぬけており、供養祭を観光に利用するための当て付けで、史実が隠されていると感ぜられたからだ。

姫観音が建立された歴史的背景を知る私には、姫観音像に刻まれた文と掲示板の美文に私は納得する事が出来なかったので補足するように要請したが、今だ放置されたままで虚しい。

 戦時下、1938年から40年にかけて田沢湖をダム湖とした国策によって行わ先達や田沢湖、生保内や夏瀬発電所の建設。それに係わる隧道掘削工事は、玉川と先達から二つの導水路や、田沢湖畔田子の木から生保内発電所への導水路が掘られ、2年間の突貫工事で進められた。

寒冷と過酷な労働、食糧不足と発破や落盤事故などで多数の犠牲者があったという。その中には徴用法による強制労働に従事していた朝鮮人も含まれていた。
私は田沢寺に眠る朝鮮人無縁仏と、姫観音の建立趣旨書を発見(1991.6.21)した事により、姫観音は当時の工事犠牲者を慰霊するために建立された事を裏付ける史実が明らかになった。

1998年には先達発電所工事に関わる徴用者307名の名簿(1946年厚生省「朝鮮人労働者に関する調査」秋田県覚書)が公開された。

1990年、秋田県朝鮮人強制連行調査団員である西成辰雄十文字町長が、その覚書を早や得ておりFAXでその資料を送って下さった。

その文書により、先達発電所で働いていた曺四鉉氏が、私の父母の故郷韓国全羅南道霊岩郡三湖里に生存している事を発見した。

証言を得る為に1991年3月2日~5日、秋田県朝鮮人強制連行調査団(代表・野添憲治)と秋田テレビの伊藤玲子記者らを引率した。その取材による放送で史実が実証された。

そして夏瀬ダム発電所工事には徴用された李用鎮氏が横須賀市に住んでいる事も判明、1994年5月18日自宅に伺って生きた証言が得られた。その結果姫観音像に関わる建立主旨の疑問は大方解けた。私の告発が虚言であると村八分にあう苦痛を味わい精神を病んだが、事実である証明を公に出来た。

私は田沢湖町よい心の会(会長・佐藤勇一)を結成して、1990年より2015年までに田沢湖町民らと共に姫観音の慰霊祭、そして田沢湖の朝鮮人無縁仏供養会を2015年までに11回行って来た。

私の願いは姫観音前の掲示板解説を補追記し「姫観音は戦争中の発電所工事による犠牲者を慰霊する観音様である」旨の史実を明記して欲しい事だ。このままでは仏作って魂入れずで霊は休まらない。その御霊を慰める心に、国や民族の違いなどはないと私は思う。

佐藤愛子さんが2022年、99歳になって発表した著作「幸福とは何ぞや」の中で「不愉快なことや怒髪天をつくようなことがあってこそ、人生は面白い」と書いている。

その本を読み、私の人生は面白いことだらけで、結論としては幸福であったのだと教えられた。

しかし下心と悪意ある人の如何に多いことか。悪い人の行いが、後々にまで尾を引いて時折、私は怒髪天を衝かされることがある。私は今だ、解脱に至っていないようである。

小学5、6年生時の担任であった91歳になる鈴木重憲先生から、兄妹が今年3人亡くなって淋しいという便りが届いた。そこで2022年11月19日、私は慰労の電話を入れた。先生は「私が亡くなったら河本君、駆け付けてくれよ。」と仰った。

「飛んで行きますよ。最近、生保内に所要があって行き、駅で出迎えてくれた同級生の安部哲男先生が最近、地元で亡くなった3人を報告してくれました。

私の葬儀委員長をやると言ってくれていた親しい友人達も亡くなり、その報告に私はクラクラしてしまい、すぐにも自宅に帰りたい淋しい心境になりました。私も大病しており、先生が私の葬儀に駆け付けることもあり得る。それが私の心境です。」

「あと1、2年は大丈夫と思うが、河本君の言う通り明日は判らないなあ。」恩師と今ある幸福を噛み締める最近である。