平昌パラリンピックでの勇姿高村和人さん(2018.3.17)

(「傘寿を迎え露堂堂と生きる」より抜粋)

2018年4月27日、板門店の平和の家で世界注視の南北首脳会談が開催された。解放後(終戦後)から3回目、10年6か月ぶりの会談であった。
北の金正恩委員長が38度線の分離線を簡単に越えられたとの所感を述べた。会って話し合う事がこんなにハードルが高く、統一の夢を遠ざけて来た歳月の虚しさが胸を掠めるが、希望ある再会である。
きっかけは平昌オリンピック南北合同チームによる参加であった。
これこそ本来のオリンピックの意義と役割が果たされたスポーツの祭典になったと喜んだ。
成功裡に終わり平昌オリンピックは平和の祭典となった。
誇らしさと未来への自信と希望が湧き上がって来るのを抑える事出来なかった。
その後に開催された平昌パラリンピックに日本初の視覚障碍者1名が参加した。
私の母校、秋田県仙北市立生保内中学校の後輩である、バイアスロン選手高村和人君(35歳)である。
2017年12月の母校創立70周年記念講演の際、佐川校長より高村君は私の教え子で母校の誇りであると知らされた。
平昌パラリンピックの期間中は彼の出る競技のテレビ中継を全て観戦し熱い声援を送った。
そして激励の書簡を送った。
「高村和人様
バイアスロン選手として2018平昌オリンピック(パラリンピック)に出場され優秀なる成績を上げられた事、敬意を表します。
平昌での貴君の青春は記念すべき記録として残ると思います。
私は在日韓国人です。縁あって小・中・高時代を生保内で過ごしました。
生保内中学9期生(1956年卒)で貴君と同窓です。
私の後輩が母国韓国でのパラリンピックに出場し、花を添えて下さった事が嬉しくてお便り致しました。
私は1982年、韓国光州広域市視覚障碍人連合会設立、そして会館設立発起人となり、1988年竣工し光州広域市に寄贈、今はその連合会名誉会長を務めております。
生保内中学校3年の時(1955年)、ヘレン・ケラー女史が日本訪問された時、その偉大さを知り憧憬を抱いた事、20歳の時に栄養失調で失明の試練を受けた体験などが、この様な人生を歩む事になったと思われます。
『生保内公園で基礎体力をつけたと思っている』と新聞記事で読みました。
私も良く遊んでいた公園、懐かしい故郷です。
貴君は『自分が活躍する姿を通じて障碍者達の社会参加を後押ししたい』と述べられ、教育者として後進を指導される事は公益に奉仕する事であると思います。崇高なものです。
これから押し寄せて来る試練を努力と研鑽を積まれ、世界の人々に夢と希望を分けて下さいます様エールを贈ります。
前途を祝し輝く事、幸せと御健康を祈念します。
2018年3月10日 河正雄」
パラリンピックが終り4月21日に高村君と会った。
白い杖を持って一人で私を待っていた。
スポーツ選手らしい機敏さと感覚を持って、盛岡駅構内は我が家の庭だと言って、昼食を摂る食堂へと自ら案内してくれたのだから恐れ入った。
偶然にも「盛岡冷麺」を食べようという事になった。
「平壌冷麺」が元祖であると教えたら、彼は「盛岡冷麺」が元祖であると答えたのには参った。
「今日は盛岡大学で講義をして来た。」と話されたので「スポーツの選手生活は短いけれど、教師は聖職で息が長いしごとだ。
君が体験し、身体で覚えたものは貴重である。
惜しみなく後輩達に教え伝え、勇気と希望を与えるメッセンジャーになれ。」
そして「今の社会は健常者が障碍者よりモラルや生き方の精神力が劣る様な気がする。
君が模範的なモデルになって健常者をもスポーツマンシップをもって教育力を発揮してリーダーになるよう。」と励ました。
「私が中学3年生の時(1955年)ヘレン・ケラー女史が日本に二度目の訪問したニュースを見た。
三重苦を克服して社会福祉に貢献した世界的聖者に私は憧れ、尊敬した。
私は戦前は日本人、終戦と同時に朝鮮人となった。
国交が無かった為に無国籍となり、民族的差別の対象者になってしまった。
国交が正常化し韓国人になったものの、国は南北に分断され同族争いを始めた。
以降、南だ、北だと同胞内で争い、差別し合う世界で生きて来た。
そして韓国内では全羅南道とか慶尚道だとか地域差別する。
日本では朝鮮人、韓国では親日派チョッパリ(在日に対する差別用語)と罵られ、四重五重の精神的苦痛の中、差別を乗り越えて在日を生きて来た。
母校秋田工業高校の4期上に、オリンピックに3回出場し金メダル5個を獲った体操選手の遠藤幸雄先輩がいる。
中学時代に秋田市内の福祉施設で過ごした過去があった。
最後に残した言葉は「感謝する事を忘れちゃならない」であった。
秋田で青春時代を過ごしたが、秋田をかけがえのない故郷だと思っている。
生保内中学校は今の私を育んでくれた母校であると誇りを持って生きて来た。」と語った。
すると「私が教職にある岩手県立盲学校(現盛岡視覚支援学校)は創立120年になります。
ヘレン・ケラーが慰問に来た資料が最近見つかりました。
きっと河さんが話された1955年だと思います。
資料が整理出来ましたら公開しますので是非見に来て下さい。」と言った
そして「河さんも目が見えなくなった時があると聞きましたが、その時の気持ちはどんなものでしたか?」と聞かれた。
「何もかも真黒で希望も夢も真黒でした。
運良く光が戻った時は世の中が明るい事、幸せの意味を知り、感謝の中で生きようと思いました。」と答えた。
「私は小学校5年の時に網膜色素変性症の難病で視力を失い、絶望も味わいましたが今は国の代表となってパラリンピックにも出場出来、妻の理解もあり子供も男の子二人に恵まれ生活も
安定して今は幸せです。
学校で若い人達に教える事が生き甲斐で楽しいです。
河さんのおっしゃる通り、機会があれば私の得たもの全てを分け与えたいと思います。」と同意してくれた。
「君は生保内、秋田県、いや日本を越えた世界の視覚障碍者の光になる人材である。
視野を世界に人類に貢献する人材である事を自覚し、活躍して欲しい。」と激励したところ、「そのように自覚しており憧れられる人になりたいと思います。」と即答され、その自覚と決意に触れ、頼もしさから高揚して私にも青春が戻って来るようだった。
ヘレン・ケラー訪問の記録が彼の務める学校にあった事は、私の人生にとっての出発点となる記憶の遺産であり共有する喜びでもある。

「寄稿」 継続は力なり

ー平昌パラリンピックを戦い終えてー

岩手県立盛岡視覚支援学校教諭  高村和人タカムラカズト

 今年3月に韓国で開催された平昌パラリンピックで、クロスカントリースキーとバイアスロンの2競技で計4種目に初出場しました。短いレースはクロカンの「スプリント・クラシカル」で1・5キロ、長いレースはバイアスロンの15キロです。

 中でもクロカンの10キロが一番印象に残っています。レースは3・3キロのコースを3周するものでした。最後の1周の急な登り坂で、頂上までもう少しというところ。動きが止まりそうになりました。疲れが貯まり、全身が思うように動かなくなっていたのです。そんな自分に「これまで何をやってきた」、「たくさんの方が応援してくれている」と檄を飛ばし、最後まで滑り抜きました。結果は大会の中で最も良かった11位。「全てを出し切れた」と思いました。

 最大7500人を収容するというスタジアムからの声援は、これまでの大会では味わったことのない大きさでした。スタートからゴールする瞬間まで、選手の姿が見える度に観客から「ワー」と歓声が上がります。大舞台に立っているという実感がものすごくありました。

 日本選手団の視覚障害選手は私1人でした。しかし、海外にはたくさんの視覚障害選手がいます。クロカンで今回、金メダルを3つ獲得した弱視のカナダのブライアン・マッキーバー選手はプロアスリートです。2010年のバンクーバー冬季五輪とパラでは両大会に代表として出場しました。また、全盲クラスで世界トップのスウェーデンの銀メダリスト、セバスチャン・モディン選手は経済大学に通いながらスキーをしています。

 実は、あるメダリストにお願いをして、金メダルを触らせてもらいました。とても重く大きかったです。点字で「ピョンチャン2018」と書かれていました。後から聞いた話ですが、リオのパラのメダルは振ると音が鳴ったそうです。

 私は今回、パラリンピックに選手として出場するという経験を通して、改めて継続することの大切さを知りました。

 元々私は野球などのスポーツが大好きでした。しかし、網膜色素変性症で徐々に視力と視野が落ちていき、中学2年生以降はスポーツから離れていました。職場の同僚に勧められて2011年にクロカンを始めました。最初は数メートル進んでは転んでの繰り返しでした。ゼロからのスタートでしたが、やめてしまおうとは思いませんでした。むしろ、「続けたい」と思ったのを覚えています。久しぶりに思い切りできるスポーツにめぐり合えてうれしかったのです。

 私は童話「うさぎとかめ」の「かめさん」が好きです。1歩1歩確実に進んでいく、そして最後にゴールに到達する姿がとてもいい。つらい時はこの童話を胸に、練習に取り組んできました。

 これまでに「高村先生だからできるんでしょ」と言われて、悲しくなったことがあります。でも、誰でも「できない」と線を引いた時点で可能性はなくなり、成長は止まると私は思っているからです。世界は想像しているよりも広く、また新たな発見がたくさんあります。活躍できる場所もたくさんあります。目が不自由だからこそ実際にその世界を体験して、感じてほしいのです。そのためには、勇気を出して1歩前へ。皆さんの心の中に挑戦する、あきらめない気持ちがあれば、必ず目標は達成できます。次世代を担う挑戦者たちが出てくるよう、心から願っています。

いくつもの山を越え

2020年1月14日

先日、私の母校・仙北市立生保内中学校の後輩である高村和人君から、早くも春が訪れた気持ちにさせられる電話をもらった。学校教育で優れた成果を挙げた教職員を対象とする「文部科学大臣優秀教職員表彰」を受けたというのだ。
岩手県立盛岡視覚支援学校教員の高村君は2018年、韓国・平昌で開催されたパラリンピックのノルディックスキー距離とバイアスロンの男子視覚障害に出場した。私は当時、彼が出る競技の全てをテレビで観戦し、次のような激励の書簡を送った。
「私は在日韓国人です。生保内中学9期生(1956年卒)で貴君と同窓です。母校の後輩が私の祖国韓国でのパラリンピックに出場した事を誇らしく思います。
生保内公園で基礎体力をつけたと新聞記事で読みました。私もよく遊んでいた公園です。また、自分が活躍する姿を通じて障碍者達の社会参加を後押ししたいとの言葉に感銘を受けました。
努力と研鎖を積まれ、これから押し寄せて来る人生の試練を糧に世界の人々に夢と希望を分けて下さい」
パラリンピックが終わり、高村君と初めて会うことになった。盛岡駅で白杖を手に待っていた彼は「駅構内は我が家の庭のようなものです」と言い、食堂へと案内してくれた。
盛岡大学で講義をした帰りだという彼に、私は「スポーツの選手生命は短いけれど、教職は聖職で息が長い仕事だ。君が身体で覚えたものは貴重だ。惜しみなく後輩たちに教え、勇気と希望を与えるメッセンジャーになってほしい」と励ました。

私が彼を応援するようになったのは、母校の後輩ということもあるが、私自身の体験も大きく影響しているように思う。
私は戦前は日本人、終戦と同時に朝鮮人となり、日韓の国交が正常化してからは韓国人になった。在日の間では南だ北だと同胞が争い、韓国では全羅南道とか慶尚道だとか出身地で差別をする。日本では朝鮮人、韓国ではパンチョッパリ(在日に対する蔑称)と罵られ、四重五重の精神的苦痛の中で生きて来た。
高卒後、就職差別で思うように職に就けず、日雇いで働きながら夜学に通い、過労と栄養失調で目が見えなくなったことがあった。幸いにして3カ月で視力は回復し、世の中の明るさと幸せの意味を知った。感謝の中で生きようと思うようになった。
苦難の中にいた当時、私を励ましたのはヘレン・ケラーの存在だった。彼女が3度目に来日した1955(昭和30)年、中学3年だった私は、三重苦を克服して社会福祉に貢献した聖者に憧れ、尊敬の念を抱くようになった。その後、一時的に目が見えなくなる経験をし、彼女を身近に感じるようになった。三重苦を乗り越えたその姿から、どんな苦労があっても生きる強さを学んだ。

私の身の上を聞いた高村君は「私が勤める盛岡視覚支援学校は創立120年になります。ヘレン・ケラーが慰問に来た資料が最近見つかりました。ぜひ見に来て下さい」と言った。そして、小学校5年の時に網膜色素変性症の難病で視力を失い絶望を味わったこと、今は国の代表としてパラリンピックに出場し、妻と男の子2人に恵まれて幸せなことを笑顔で語った。
「学校で若い人たちに教えることが生きがいです。私の得たもの全てを分け与えたいと思います」と力強く話す姿に接し、私の心にも青春が戻ってきたような気持ちになった。
今夏、いよいよ東京パラリンピックが開催される。高村君のように障碍をものともせず躍進する若人が集い、競技を通じて成長し、巣立っていくと思うだけで未来が楽しくうれしくなる。

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