百花春至為誰開

聖天院は若光王を祭る新義真言宗智山派の寺で、総本山は京都東山の智積院。大本山は成田山、川崎大師、高尾山である。

聖天院(高麗山聖天院勝楽寺)は埼玉県秩父地方54ケ寺の総本山で歴史的諸侯に準ずる格式ある寺である。紀元前一世紀に建国され668年に滅びた高句麗人らが666年(天智天皇5年)10月に日本に渡来したと「日本書紀」にある。

大和朝廷は駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)に散在していた高句麗人1799人を716年(霊亀2年)、武蔵国(埼玉)に移し、高麗郡を創設した。

最初の高麗郡長に任じられたのが渡来人若光王である。その史実は「続日本書紀巻七」に記録されている。若光王が無くなった後、侍念僧勝楽が若光王の菩提を弔う為に751年(天平勝宝3年)に建立された由緒ある寺が聖天院である。

聖天院旧本堂は寛永年間(390年前)に再建された古い建物で雨漏りが酷くなり、1994年に本堂を新築する事を決定した。6年の歳月をかけ聖天院開山1250年を記念する2000年n月3日に本堂の落成式が行われた。

その寺の裏山に在日韓民族無縁之霊碑と納骨堂並びに慰霊塔が建立され、除幕法要式が執り行われた。その時、聖天院第50世横田鮮明住職が挨拶された。

「平成7年の或る日、20数年来交誼のある在日の升柄道氏が来山した折り、『終戦迄の数十年間に沢山の無縁仏が日本のあちこちに散在し、誰も訪れる者も居ない。何とかこの地に葬り供養したい。』との、戦争中全く日本人と同じ気持ちで過ごし終戦を迎えたという在日の升氏の言葉に感銘を受け、早速総代にことの次第を報告、役所のあちこちを奔走し、やがて升氏の心が立派な形となって実現しました。途中共鳴者河正雄氏が現れ、多方面に亘り格別なる協力をされて居ります。

心が形と成り、形は人々の心に映じ、心によってこれを支えて行くものです。形なき世界に心を寄せ、今後一層確かなものと成ることを念じます。遥かなる古の先祖、同胞を肥る異国の地に、心ある同胞が静かに冥福を祈る時、生きている我々の心が通じ合い、安らかな世界が展開するのではないでしょうか。」

続いて私は式辞を述べた。「式辞霊碑の除幕、開眼法要が執り行われますにあたり、謹んで式辞を申し述べます。振り返りますと、20世紀は、韓日、朝日、両民族の歴史において、まさに激動の時代でした。

在日同胞100年の歩みはまさにその象徴であります。この100年の問に、祖国を離れた遠い異国の地で、望郷の思いを噛み締めながら痛恨の生涯を終えた人々はどれほどの数になるでしょう。

今日に至るまで、我が在日同胞は、家業に精励し、子弟を養育し、あらゆる苦難を乗り越えて祖国と日本の発展に大きく寄与・貢献してまいりました。数年前、埼玉県居住の在日一世チト嫡道氏の発願により、聖天院寺域奥山に、在日韓民族無縁之霊碑と納骨堂、並びに慰霊塔を建立する計画が立てられました。

歴史の中で犠牲になられた在日同胞たちの御霊が安眠できるように供養したいとの願いからであります。それはまた、在日同胞が歩んだ苦闘の歴史が風化しないように、歴史の真実が埋没しないように、子々孫々にまで語りつこうとの願いによるものでもあります。

民族の統一を願い、日本と韓国・朝鮮の友好・親善を願う多くの皆様のご理解とご尽力によって、この事業が実現しましたことは、何よりの喜びであります。

本日、この慰霊祭が、このように盛大に厳粛に執り行われます事は、ひとえに聖天院様を始めとする方々の尊いお心と、関係各位の皆様がそれぞれの立場を乗り越えて、真の平和と友好を願い心をーつにしてくだされたことの賜物と存じます。

この地は、その昔、渡来した高句麗王若光が一族を伴って移り住んだという伝承の地であります。1250年の縁起をもつ高麗山聖天院の本堂落慶法要の記念すべき日に、霊碑の除幕、開眼法要を執行できますことは、まことに意義深いことであります。先人たちが歩んできた20世紀の歴史を、21世紀を担う若い世代に伝えていく事は、我々に課せられた大きな使命であります。霊碑の建立が、在日同胞の願いを新しい世紀へ伝える新たな一歩となる事を祈念するものです。

歴史的な南北首脳会談の実現により統一の願いが現実に近づきました。私たちは21世紀に向け、良き兄弟として、争わず信じあう良きパートナーとして善隣・友好の紳を強めて行かねばなりません。本日ここに、よい心、広い心、同じ心を通い合わせて、末来の子孫のために、世界のため、人類のために寄与・貢献し、豊かで平和な21世紀を創造する起縁を結んだことは、諸霊に対する何よりの供養となるでしょう。諸霊のとこしえに安らかなることを祈ります。

最後に、手厚く朝鮮人無縁仏の霊を祀り、霊碑建立を認め供養して下さる聖天院様、本日の法要を司って下さいました真言宗智山派管長宮坂宥勝狙下を始め埼玉第11教区内の各住職様方、霊碑の御揮毫下さいました三塚博様に厚く御礼を申し上げます。今後、聖天院様には護持の為、多大なるご尽力を頂くこととなります。皆様の御奉賛により支え守り育て、盛り立てて下さることを祈念致します。

本日お集まりになられ、御慰霊下さいました皆様方の御健勝と平安、仏菩薩様の御加護あらん事を切に、お祈り申し上げ式辞と致します。

2000年11月3日在日韓国人文化芸術協会会長河正雄」
その日、有り難い法要を執行して下さった方が宮坂宥勝智積院管長であった。数日置いて、私はお礼の挨拶の為に京都の智積院へ伺い、宮坂管長とお会いした。

通された部屋の柱に掲げられていた短冊の書が目に入った。私はその字句を読み解く事が出来なかったので「何と書かれているのでしょうか。」と宮坂管長に伺ったところ、「私の書で、"百花春至為誰開"という字句です。」と答えられた。

「この書の意味と出典を教えて下さい。」と願ったところ、意外にも「とても気に入った言葉であったので書いたが、出典はよく判らない。」と答えられた。私もこの言葉が気に入り、意味も判らぬままではあったが「百花春至為誰開」は私の座右の銘となり、これまで多くの人々から求められるままに贈る座右の銘として利用して来た。

2007年の事、光州市近郊に住む小説家・文淳太のアトリエ開きに招待された。私はその席に同席した画家から座右の銘をサインして欲しいと請われ、「百花春至為誰開」と書いた所、その画家が咄嗟に「これは『碧巌録』にある言葉ですね。」と言われたので驚いた。こうして長い間判らなかった出典が判明した。

2017年3月私の故郷、秋田県仙北市立田沢湖図書館で「河正雄文庫展」が開催された。その図書館で目に触れたのが1976年、大森曹玄著の「碧巌録」で目から鱗が落ちる思いがした。「碧巌録」は、宋代に活躍した雪賓重顕(せっちょうじゆうけん98011053)が、「景徳伝灯録」に載せられた千七百余人の語録の中から百則を選び出して本則とし、それを措評した類をつけて、「雪賓頒古百則」と題したものが原典である。

雪賓が遷化してから六十余年を経て、円悟克勤(えんごこくごん106311135)が、その煩古百則に垂示と評唱を加え、更に本則と頒には著語と称する短評を加えたものが『碧巌録』である。著語(じゃくご)というのは、当時の俗語で寸鉄、人を刺すといった痛烈な批判を下したもので、読む人にとっては、内容を理解する上で重要な指針になる。

「碧巌録」という題名は、円悟克勤が垂示、評唱、著語などを執筆した霊泉院の書斎の壁間に掲げられた扁額の"碧巌"から取ったという。「碧巌録」は、臨済録・大慧(だいえ)書・虚堂(きどう)録・正宗賛(しょうじゆうさん)・江湖(ごうご)風月集・禅儀外文(ぜんぎがいもん)とともに禅門七書のーに数えられ、「宗旨の浅深を明める」為に必読するものとされている。

「碧巌録」第五則雪峰尽大地の「頒」に「百花春至為誰開」の出典が確認された。

「春になれば催促しなくても、桜も梅も桃も百花が咲き競うように、生々と躍動するものです。花は何らかの目的があったり、期待するところがあって咲くのではありません。

無目的に任運自然に春になれば咲くだけのものです。誰のために、何の為に、などという理窟は全くありません。それが絶対真実の姿、大小を絶し、比較を超えたものの実相なのです。それが我々の真実の心そのものの在り方です。

それをーつしっかりと掴むのが禅というものであり、また本則の狙いでもあるわけです。お互いにわが心の真の姿を見つめてみましょう。」と説かれていた。

その時、2000年11月3日にされた横田辨明聖天院住職の挨拶が脳裏に雌り、その意味を知る事となった。「全ての人は生まれた時、花となって生まれる。人生は春なのだ。春に咲く百花が世界を彩り、人の為、世の為に咲く花であってほしい。人生の意味は花なのだ。」と私は解釈している。

明歴々露堂々

2018年9月30日刊行の自著「傘寿を迎え露堂堂と生きる」の文中に「明歴歴露堂堂」について著した。本文はその続きである。

2000年12月18日の事である。智積院宮坂宥勝管主様との面談を終え、清水寺に参拝した。帰り道に三年坂(産寧坂)を下り、足が止まった。八坂神社に向かう道筋で風格ある懐石料亭前の店前で打ち水をしていた京美人に誘われるかの様に料亭に入った。

その料亭は著名な政治家、もしくは富豪が住まわれていたのかと思わせる別荘仕立ての風情ある建物であった。水打ちされていた石畳を踏み玄関に入ると、正面に掛けられていた書額に目が釘付けとなった。威風堂々、骨太く力強く太字の二字だけの「露堂」と書かれていたからだ。

私は唱嵯に「『明歴々露堂々』という禅書ですね。」と京美人に尋ねたところ、「そうです。この建物の主人が残された書で、そのままにしてお客様をお迎えしております。」と大層に驚かれながら答えた。

書の主人を偲びながら抹茶一服の応対を受け、高校時代に出会った「人間の価値」「露堂々と生きた人浅川巧」の文を噛み締めた。懐石料理は京料理の華たるもてなしの心に溢れ、幸せを存分に味わったのは言うまでもない。これが私の座右の銘のーつである「明歴々露堂々」との出会いである。

私の処世としての哲学「明歴歴露堂堂」について述べる。「明歴歴露堂堂」とは禅林句集にある禅の教えの言葉である。

「露」はあらわれる「堂堂」は隠さないさまである。即ち「明歴歴露堂堂」とは全ての存在は明らかに、全ての物事がはっきり現れ出ている様子である。ありのままの全てが真理であり、大意は一点隠す所も無く表れるという事である。

人生においても執らわれず、焦らず、気取らず、誤魔化さず、素直でありのままに堂々と生きたいものである。自分を飾れば不自然であり、虚勢を張って強く見せ偉ぶれば、理論武装や無理がいく。

無理を通せば道理が引っ込むという教えの通りで、必要以上に謙虚になる事もまた、無用だという事でもある。

神仏に頂いた、与えられた立場や環境の中で神仏と共にあって隠す事無く、堂々と生きようとするところに、この言葉の意味がある。私は「露堂堂」と生きる。生きたいと思う。

崔子玉座右銘

私が30歳の頃(1970年代)、母と一緒に京都祇園祭を見学した。数千人もの観衆の中で鉾屋台から数十個撤かれた粽を私はーつも取れなかったのだが、母はその縁起物を運良く二つも取った。親子して、その足で宇治の平等院へお参りに行った。

その時、寺の入り口にあった掲示板をなにげなく読んだところ、崔子玉(西暦77年~142年後漢時代の中国の儒家。名は環、字は子玉。)の座右の銘であった。日を変えて法隆寺を参拝したが、中宮寺門跡の掲示板でも同文を読み、理解を深めた。

その後、節分の日に高野山へ参拝に行った。根本大塔での法要の後に仏前のお供え物であった高野山鰻頭を頂いた。ふくよかな味と紅白の鰻頭の美しさは忘れられぬ思い出である。

崔子玉座右銘を高野山の開祖弘法大師空海(774年1835年)が書き遺され、その書は日本書道史上の名筆として重要文化財(財団法人大師会所蔵)となっている事を金剛峯寺で知った。自由闊達、9世紀の空海の書が21世紀の今日にまで1200年の時空を超え残されている。のびやかな筆致は現代にも通じる書体で惚れ惚れする。

縁あって2010年始めに山梨県甲府市在住の書家、峡山・植松永雄先生の作品をコレクションする事となった。その時、先生に崔子玉座右銘の作品を依頼したが「恐れ多くて私の力ではとても及ばぬ。」と応諾されなかった。

数年経って「ようやく書く気になった。」と書かれ、作品が出来上がり数年来の夢が叶った。

その作品は2018年9月25日、私の故郷である秋田県仙北市立角館町平福記念美術館に寄贈し収蔵される事となった。

私は2018年10月12日、秋田が生んだ黄金の秋田伝統工芸品「金銀銅杢目金」作家林美光(1937年生)先生の作品金銀銅杢目金花紋用「薫炉金剛峯」が高野山金剛峯寺に献納され寺宝となる「献納の儀」に招かれた。

林先生は「金銀銅杢目金」技法の再現を夢見て50有余年の試行錯誤の末に現代に雌らせた。秋田を輝かせた偉業と夢を叶えた事を讃えたい。

その高度で稀有な幻の技術と歴史が、後世に伝え広められる事を祈念し、祈った。
我が生涯の道の指標となった先人の教え「崔子玉座右銘」を共有したい

無道人之短、無説己之長。
施人慎勿念、受施慎勿忘。
世譽不足慕、唯仁爲紀綱。
隠心而後動、誇議庸何傷。
無使名過賓、守愚聖所戚。
在浬貴不潜、暖暖内含光。
柔弱生之徒、老氏誠剛強。
行行鄙夫志、悠悠故難量。
慎言節飲食、知足勝不祥。
行之萄有恒、久々自券芳

他人の短所欠点をそしり批難するものではない。自分の長所を自慢し誇るものでもない。恩を施した時はなるべく忘れるように努め、恩を受けた時はいつまでも忘れるような事があってはならない。水に流し石に刻む心。

世間の名誉は慕うに足りないものであるから、ただ仁徳をこそ守り続けねばならぬ。じっくり考えて後に行動を起こし、人や世の悪ロなどは気にしない。

実質以上の評価を受けないように。賞の中に罰あり。愚を貫くことは聖人の認められたところである。黒く染められても黒くならないことこそ尊い。暗愚なる外見の内側に光明を含めよ。

柔弱こそは生きている者のあかし。
老子は剛強を戒められた。勇気益れる馬鹿な男は、一体どういうつもりだろう。

言葉を慎み飲食を節し、足るを知って災いに勝て。以上の事を常に守ってさえおれば、いつまでも芳しく薫り続けるであろう。