―露堂堂と生きる―

2021年の年明けは2020年からの新型コロナウイルス禍が収束せぬままに幕を開けた。4月25日には新種、変異株ウイルスなどで第4波による3度目の緊急事態宣言が4都府県に発出され、7月12日には東京都に4度目の緊急事態宣言となった。

7月23日に1年延期となった2020東京オリンピック、8月24日にはパラリンピックが開催された。世界は感染力の強い「デルタ型変異株」による第5波襲来で感染は広がる一方である。医療の受け入れ態勢は限界を超え、救える命が救えない拡大速度となっている中の無観客開催で終えたが、世界的に事態は一向に収まる気配を見せておらず第6波へ体制見直しの世相である。

私が生きた82年間には第2次世界大戦終戦による、朝鮮解放後の祖国朝鮮半島に於ける南北戦争、オイルショック、バブル崩壊、リーマンショック、阪神淡路大震災、東日本大震災等々、暇ない社会変事と自然災禍があった。世の中とはこういうものだと、平常心を保ちこれらの変事を潜り抜けて生きることが出来たのは、幸せな人生を送って来たとは言える。

変動の2021年、私の身辺に慶事が起きた。3月27日の「在日韓民族慰霊碑由来碑」(埼玉県日高市・聖天院)の建立、6月13日の「浅川伯教・巧兄弟顕彰碑」(山梨県・北杜市)の建立、そして11月3日に建立される「ふるさとの碑・平和の群像」(秋田県仙北市・田沢湖畔)である。この3件の慶事は、世界中のコロナウイルス災禍中であれ、浅川巧のように「露堂堂」と生きぬき、良い心、広い心を持って、ふるさとのため、世のため、人のために尽くしてきたささやかな証だと喜んでいる。

カント学者でリベラリストであった安倍能成著「青丘雑記」(1932年、岩波書店)の中に「浅川巧さんを惜しむ」の文がある。これが1934年、中等学校教科書「国語 六」に『人間の価値』と題して収録され、世の人々に知られることとなった。

私は秋田工業高校3年(1958年)の時秋田県立図書館で「青丘雑記」を読み記憶に止めたことが、浅川巧との出会いとなり、その後の清里ライフの基になった。

 「巧さんのやうな正しい、義務を重んずる、人を畏れずして神のみを畏れた独立自由な、官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間だけの力によって『露堂堂』(禅語、何一つ隠すことなく堂々とあらわれるさま)と生きぬいていった。かういう人はよい人といふばかりでなくえらい人である。人間の生活を頼もしくする。人類にとって人間の道を正しく勇敢に踏んだ人の損失ぐらい、本当の損失はない。」安倍能成をしてかく言わしめた浅川巧は、今も私の心に普遍の価値として生きている。

 「“俺は神様に金はためませんと誓った。”といはれたそうである。一種の宗教的安心を得て其自身の為になされてその他の目的の為に、報酬の為になされることを極度に忌まれた様に思ふ。道徳的純潔から来たものであろう。」

 弱者を見過ごせない清貧の人、右手で行った善行を左手に知らしめない行事は常に朝鮮の人々の心に解け込もうとする彼の人格がさせたことだ。

 「奸黠(かんかつ)な者、無能な者、怠惰な者、下劣な者の多くははるかに高禄を食み、長を享楽しているが、巧さんのごときは微禄でも卑官でもその人によってその職を尊くする力ある人である。巧さんがこの位置にあってその人間力の尊さと強さとを存分に発揮し得たといふことは、人間の価値の商品化される当世に於て、如何に心強いことであろう。私は巧さんの為にも世の為にも寧ろこの事を喜びたい。」

 「巧さんの仕事が、種を蒔いて朝鮮の山を青くする仕事で、一粒の種を蒔き一本の木を生ひ立てた方がどんなに有益な仕事か知れない。巧さんは『種蒔く人』であった。」

 「朝鮮人の生活に親しみ、文化を研究し、大正12年来、柳宗悦君や伯教(のりたか)君と協力して朝鮮民芸美術館を設けた巧さんの態度は実に無私であった。内地人が朝鮮人を愛することは、内地人を愛するより一層困難である。感傷的な人道主義者も抽象的な自由主義者も、この実際問題の前には直ぐに落第してしまふ。」

 「巧さんの生涯はカントのいった様に、『人間の価値』が実に人間にあり、それより多くでも少なくでもないことを実証した。私は心から人間浅川巧の前に頭を下げる。」

私は人を惜しむ文でこれほど痛切に真情を吐露した言葉を他に知らない。

 戦前教科書に載った安倍能成のこの文章が、戦後になってなぜ教科書から消えてしまったのか。政治や経済が変われば、『人間の価値』そのものまで変わっていくとでもいうのだろうか。お金の価値のように人間の価値も変わるものだろうか。価値は変わらないのだが人間が変わり、世の中の都合で変わっただけではないかと思われるがどうであろうか。

 私は、どんな時代でも人間の価値は変わるものではないと思い、今日まで浅川巧を敬愛し感謝の在日を生きてきた。

私の旅の途中の慶事を分かち合い、コロナウイルスの災禍を祓い平安と幸福を祈念したいと思う。

―聖天院・在日韓民族慰霊塔由来碑建立―

 2019年9月5日、埼玉県日高市の聖天院に於いて在日韓民族無縁の霊碑を守る会主催の第20回慰霊祭が行われた。

 その時、聖天院第51代横田辯宥住職が、在日韓民族慰霊塔建立の由来について100字以内の原稿を依頼された。

 それまでの20余年間、横田辨明前住職や尹炳道氏からは由来碑についての言及はなかった。寺に成した行為と事績は喜捨と称して、何事も仏様は全て御存知であるからという理解でいたので戸惑いがあった。

「慰霊塔の由来

1995年に尹炳道氏が来山し、在日韓民族慰霊塔建立を発願。

1996年に尹氏、横田辨明前住職の要請により河正雄氏が協力。

20世紀、不幸な歴史の中で犠牲になった在日韓民族無縁の御霊を慰霊し、苦闘の歴史が風化せぬよう2000年に建立し守られている。」と書いて届けた。

2020年は新型コロナウイスルが猛威をふるい、在日韓民族慰霊塔由来碑を建立する計画も宙に浮いたままになっていた。横田辯宥住職も建立が遅れていることに心を痛めていた。

コロナ禍が多少の落ち着きを見せはじめた同年9月、横田住職から「由来碑のことでご意見をいただきたい」と連絡をいただき、9月11日に聖天院に伺った。横田住職は「100字程度では由来碑の内容を説明するの難しいと思う。由来の経緯を知っているのは河正雄さんだけなので、ぜひご意見とご協力をお願いしたい。来春の完成を考えている」と話され、2021年3月の「夜桜詣」慰霊観桜会を目指して由来碑づくりが再び始まった。

2021年3月27日、住職の尽力で由来碑が慰霊塔前に建立された。20数年来の建立経緯と由来を記した記録が「露堂堂」と蘇り、感謝に堪えない結実となった。

以下は由来碑に新たに刻まれた原文で、昔日の営みが刻字され明らかになって今に表われた。当事者の私ですら朧げになっていた記憶を新たにする感無量の証文である。

『在日韓民族慰霊塔の由来

この慰霊塔は戦争・震災等により犠牲となった身元不明の在日韓民族無縁仏の慰霊と供養を目的に建立された

一九九五年 尹炳道氏は当時引き取り手なく人知れず安置されていた多くの無緑仏に憐憫の想いを馳せ韓民族縁りの地である高麗郷の当山に供養のための仏塔を建立することを発願

尹氏の志に共感賛同した河正雄氏の献身的な協力を得 二〇〇〇年十一月三日に完成した

塔の周囲には異国の地で亡くなった人々の御霊を慰めるために歴史上の偉人達の石像・八角亭・石彫羊像など祖国に縁りの物が配置されている

霊地を彩る桜と無窮花は日韓両国友好への願い 相輪を併せ三十六層の塔には民族の苦難の歴史と戦争により分断された民族統一への願い 塔下納骨堂壁面に飾られた鳩のレリーフには平和への願いを 建立に尽力された尹・河両氏の想いが込められている

尹炳道 (一九三〇~二〇一〇)奉納

一、三十六層(年)高さ十六メートル 石塔としては日本最大で下部には納骨堂を備える在日韓民族慰霊塔 並びに造成工事一式

一、慰霊塔前に日韓親善協会長で運輸・大蔵等大臣を歴任した三塚博氏 (一九二七~二〇〇四)揮毫 在日韓民族無縁之霊碑

一、慰霊塔擁壁に韓民族の霊を保護する十二支神像石板レリーフと慰霊塔前文人石像二基

一、ソウルパゴタ公園の八角亭を縮小し 韓国建材で韓国人大工が施工した八角亭

一、慰霊塔を囲む丘陵に祖国の自尊心を高めた歴史上の人物石像六基

○紀元前二三三三年に即位したという伝説上の古朝鮮王檀君

○四世紀末頃千字文一巻と論語十巻を携え渡来した百済の王仁博士

○高句麗第十九代広開土王(三七四~四一二)

○新羅第二十九代武烈王 (六○三~六六一)

○高麗末の儒学者鄭夢周 (一三三八~一三九二)

○李氏朝鮮の女流書画家良妻賢母の鑑 申師任堂(一五〇四~一五五一)

一、高麗王廟前に国務総理 金鍾泌氏 ( 一九二六~二〇一八) 揮毫 高句麗若光王陵碑

河正雄氏 (一九三九~ )奉納

一、本堂に木彫釈迦如来像 文化勲章受章者の澤田政廣氏 (一八九四~一九八八)一九八五年作

一、在日韓民族慰霊塔前と高麗王廟前に朝鮮王朝時代の石彫羊対守護像二基(計四体)

一、在日韓民族慰霊塔納骨堂壁面に五大陸の平和を祈る平和の使者「鳩」ブロンズレリーフ五点 朴炳熙氏 (一九四八~二〇二〇) 一九八四年作

一、幼少育年期を過ごした故郷の秋田県仙北市教育委員会承認を受け 一九九九年天然記念物 角館枝垂桜 (江戸ヒガン桜の変種) 実生の苗木五本 二〇○八年仙台枝垂桜(ヒガン桜系紅色 八重咲き)と吉野枝垂桜 (里桜系 白色一重咲き)の苗木三十本境內に植樹

一、本堂に四三一〇名の「朝鮮人物故者名簿」の過去帳』

―浅川伯教・巧兄弟顕彰碑建立―

浅川巧(1891年-1931年)は、山梨県北杜市高根町に生まれた。山梨県立農林学校卒業後、4年余り秋田県大館営林署で農林技手として務めたが、兄伯教と前後して朝鮮に渡る。

農林技手として植林緑化の普及に努める傍ら、失われようとする朝鮮の美の発掘に貢献した。植民地下にあった朝鮮に生き愛された稀有の日本人である。30数年前までは浅川巧の生地山梨県北杜市ですら彼の事は知られていなかった。

1959年、秋田工業高校3年生の時に、安倍能成著『青丘雑記』の「浅川巧さんを惜しむ」という文を読み、浅川巧に憧れと感謝の念を抱いた。

秋田工業高校時代に浅川巧を知った事から、浅川巧は私が在日として生きる為の人生哲学を学んだ敬愛する日本人の一人である。人間誰でも自分だけの隠し田を持ちたがるものだが、朝鮮人と向き合った浅川巧は隠し田など一切持たなかった。

自分のルーツが高句麗人だと思っていたらしい浅川巧は高句麗人の血が故郷の朝鮮へと、私を呼んでいると告白した事でも朝鮮への愛の深さがわかる。歴史的に植民地下の難しい時代に、両国の故郷でも受ける苦難を自分の生涯と代わる愛の対象としたが、時代は違えどもディアスポラである在日二世の私には、理解共感する世界人である。

浅川巧の名著『朝鮮陶磁名考』 (1931年刊)の末尾にある「民衆が目覚めて、自ら生み、自ら育ててゆくところに全ての幸福があると信じる」の文は、その愛の証である。

朝鮮松の露天埋蔵法による種子の発芽、養苗開発など、その業績は光る。朝鮮民族美術館建設の推進、朝鮮陶磁器や工芸の研究、朝鮮の膳などの工芸美を考察した著書を残し、韓民族の美意識と魂を民芸と植林の領域で我々の自尊心を髙めてくれた。

日本民芸館の創立者柳宗悦(1889年-1961年)は『朝鮮陶磁名考』の序文に「どんな著書も多かれ少なかれ先人の著書に負うものである。だが此著書ぐらい、自分に於いて企てられ、又成された物は少ない」と記した。

「柳宗悦や民芸運動は朝鮮の日常雑器によって開かれた眼を、日本に転じる所から生まれた。日本の民芸運動の誕生の機縁となった結びつきを作った人に柳の友人としての浅川伯教、巧兄弟があった」と哲学者鶴見俊輔が述べている。

山梨県北杜市出身の江宫隆之著『白磁の人』(1994年刊)の映画化がなされ、2011年に完成し全国で上映会が催されている。

制作過程では両国で紆余曲折はあったが、浅川巧生誕120周年・没後80周年を記念する映画が上映出来て喜んだ。

それまで韓日両国の若人達や、浅川巧が勤務していたソウルの林業試験場の職員等も関心が薄く、知られていない存在を憂える人々がいた。この映画上映を通して、両国の青少年達に韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人・浅川巧の時代を振り返り、その業績を顕彰し今こそ学び合って我々の未来に福音をもたらす果実を収穫せねばならない。

日韓両国の中学校教科書に唯一、浅川巧の人となりが紹介されている。そして2015年には韓国の発展に寄与した世界の70人の1人に浅川巧が選出され「浅川巧の心」が両国国民の心に確かに生きていることは幸いである。

私は2006年より私塾清里銀河塾を18回開催し、これまで学んだ塾生は1000人を超えている。

共に学んで善き追憶を辿り、先人の徳を慕い回顧する事は、相互理解が深まり国際親善の糧となる意義がある。

韓国では韓国人に墓は守られ、地元山梨県北杜市でも顕彰され、両国から愛されている人物でありながら、顕彰碑が建立されていない事を長年淋しく思っていた。2021年は私が敬愛する浅川巧の生誕130周年没後90周年記念の年に当たる。

ポール・ラッシュ博士は「清里の父」と呼ばれ、顕彰碑も建って敬われ、聖壇に祀られて久しい。

私は浅川兄弟もいつの日にか、聖壇に祀られる人物であると1997年の浅川兄弟を偲ぶ会総会で講演をした事がある。それ以来、いつの日にか石に刻みブロンズ像を配し北杜市に顕彰碑を贈ろうと20数年間、構想を温めていた。

私は2021年6月13日、浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会結成25周年を記念して、“捧ぐ 敬愛と感謝を込めて”私の座右である「露堂堂」の碑文を添え、兄弟のブロンズレリーフの顕彰碑を生誕地に建立するに至った。2019年11月、北杜市市民栄誉賞を受けた報恩と63年来の夢が叶うことになった良縁に感謝してである。

碑のデザインは五重塔をイメージする五層(五段)。

碑石は上野公園の王仁博士碑に倣って下層四段は国産の稲田石を割り肌仕上げ。上層は韓国産谷城石を本磨きにして、彫刻家・張山裕史氏の作である浅川兄弟レリーフを配した。碑文は甲府市の書家・峡山植松永雄氏の揮毫による書「露堂堂」である。

安部能成著『青丘雑記』 「浅川巧さんを惜しむ」の文中にある「その人間の力だけで露堂堂と生き抜いて行った」から顕彰文に採用し、刻むこととなった。

―ふるさと(故郷)の碑・平和の群像建立―

  1985年4月20日、田沢湖町観光協会の呼びかけで田沢湖姫観音の供養祭が初めて執り行われた。参席した私は、1981,に田沢湖町の手で建てられた姫観音像建立由来の案内板の文面に疑問をもった。そこから真相糾明の調査が始まった。それ以来、かれこれ37年になる。

1991年に田沢寺に保存されていた「姫観音像建立趣意書」を発見し、生保内発電所建設工事に伴う工事犠牲者の供養が観音像建立の趣旨であったことが明らかとなった。そこで、姫観音像が建っている脇地に慰霊のための「よい心の碑」建立を計画した。

 田沢湖町よい心の会会長の佐藤勇一氏と自然石を捜しに岩手県まで足を伸ばしたが、何故か佐藤氏が消極的になってゆき、計画は頓挫した。

 姫観音像建立地が町有地で許可が難しいからとの理由であった。実は反対する町の人達がいたというのが真相であった。

 田沢寺墓地の「朝鮮人無縁仏慰霊碑」建立地内に、1999年「よい心の碑」を建立し慰霊祭などの慰霊活動を継続して来た。しかし未だに姫観音像建立由来の案内板はそのままで、私の心のわだかまりは晴れなかった。いつの日か姫観音像建立趣旨に添い犠牲者を慰霊するための碑を建立したいとの想いを秘め、構想を温めていた。

2021年に入り、朝に夕に頭をもたげることは姫観音像慰霊への想いであった。私はそのモヤモヤを吹っ切るために意を決し、門脇光浩仙北市長に書簡を送った。

「門脇光浩仙北市長様

新型コロナ禍中での御公務に御慰労申し上げます。

貴市の人材登用施策は、先駆的で頼もしい限りです。

何時も私事につき格別なる御厚情を頂き感謝しております。

つきまして30年前、姫観音のところに『よい心の碑』を建てる計画を致しましたが叶わず、田沢寺にその碑を10年後に建てた経緯を御存知かと思います。

それ以降、別紙のような『ふるさと(故郷)の碑・平和の群像』を建てたいと構想を温めて参りました。

82歳という年齢、心臓病の体調、余生の時間を考えての想い余ってのお伺いです。

設置場所は姫観音のところか、『平和の群像』ですから新庁舎又は美術館のところなど、何処か生きる場所があると思います。御検討下さり、お受け下さる余地があるか、可能性があるか御返事頂ければ光栄です。

余地と可能性があるならば具体化のため御面談賜りたく存じます。

貴市の御発展と市長様の御健康を祈念申し上げます。

2021年3月14日 河正雄拝」

 追って市長から返信があり、2021年4月9日に面談が叶った。その席で市長から「クニマス未来館のところはどうか、見て下さい。」と提案された。

同席していた小学生時代からの同級生である安部哲男先生からは「田沢湖駅前の広場はどうか。広場から100mも行かない場所で河君は20歳まで住んでいた。想いも強いだろうから。」と思いがけぬ場所の提案があった。

その時、市長から駅前の空地は市のイベント空地で難しいと示されたが、その2ヶ所を千葉俊成クニマス未来館館長が案内された。どちらも優劣付けることが出来ぬ思いのこもった適地であった事は奇跡にも思えた。

帰宅後、市長宛に所感を送った。

「門脇光浩仙北市長様

吉兆の名残雪の歓迎を受け幸いでした。

御公務御多用のところ御面談下さり有難く思いました。

30数年来の思いが辿り着いた所が教育館であり、歴史館であるクニマス未来館。その対岸は姫観音を拝する適地でした。

どちらの場所も先見性があり裁断下されば光栄です。

御面談時に今年中に設置したい旨申しましたが9月中に作品完成、10月には設置完了したいという考えです。出来ますれば4月末頃まで決定があれば予定通り進行出来るものと思います。よろしくお願い致します。

2021年4月10日 河正雄拝」

そして安部先生にも協力を願う便りを送った。

「安部哲男先生

我見たり 田沢の湖(うみ)の 国鱒を 奇蹟起れと 名残雪舞う

(2021年4月9日 クニマス未来館にて詠んだ短歌)

貴君の田沢湖駅前、市長さんのクニマス未来館案、どちらに決まっても奇跡です。対案したデザインはどちらにも座ると思います。A、B案のどちらかを決めて下されば感謝します。2021年4月12日」

―故郷を田沢と呼ばん彼岸花―

「故郷の碑」の碑文は「ふるさとを 田沢と呼ばん 彼岸花」である。1990年、「朝鮮人無縁仏慰霊碑」を田沢寺に建立した時、その碑に刻んだ私が詠んだ俳句である。

この句には故郷に寄せた愛と、私の死生観、天国の御霊への感謝の心を込めている。安寧なる世、平和への希求、万人が念願する普遍の祈りの心と魂を詠んだ。

碑の裏面には以下の文言を刻んだ。

「捧ぐ ふるさとの碑

碑文の句はふるさとの幸いを願い

平和を祈る愛と感謝で鎮魂込める

神仏よ光り普く照らせたまえ甦れと

祈祷する誠心の詠歌であります

銅像「平和の群像」

菊池一雄

書 峡山 植松永雄

東江 河正雄

二千二十一(令和三)年十一月三日建立」

田沢湖の神魚クニマスは戦時中に不幸な運命を辿り絶滅した。田沢湖がいつの日にか再生、復活し甦ることを念願し未来に託してクニマスを慰霊する心をも吟じている。

「故郷の碑」に菊池一雄作「平和の群像」を添えたのは平和を祈念し幸福を希求するシンボルとして私の生涯の祈願でもあるからだ。

「平和の群像」は「湖畔の乙女像」にイメージが連なる縁深い作品である。1957年、秋田工業高校2年生の旅行で、十和田湖畔に建っている高村光太郎作の「湖畔の乙女像」に見とれた。その感動が1963年の新婚旅行へと繋がり、妻とその思い出を共有する永遠のブロンズ像となったのである。

戦後の代表的具象彫刻家菊池一雄は広島平和公園の折り鶴で有名な「原爆の子の群像」(1958年作)の作者であり、

第一高等学校時代から藤川勇造(1883年-1935年)に学び、1936年にはフランスに留学してシャルル・デスピオ(1874年-1946年)らに師事した。1939年帰国し翌年「新制作派協会」会員となり東京芸大、京都市芸大で教鞭を執った。

戦前、千鳥ヶ淵の三宅坂小公園に「寺内元帥の像」が建っていたが、1951年にその台座の上に電通の依頼で制作した「平和の群像」は菊地一雄の代表作となった。その正式名称は「広告人類頌碑」であり、ギリシャの三美神に着想を得て「愛情・理性・意欲」を象徴する三体の「美神」を作品にしたものである。

「故郷の碑」に添える「平和の群像」は、そのマケット作品で、新生日本の甦りを生命の息吹を感じさせる私にとっては秘仏のような作品である。

2018年10月27日、山梨県甲府市にお住いの書道家・峡山・植松永雄氏が田沢湖を訪問された。

田沢寺の朝鮮人無縁仏慰霊碑に刻まれた私の句、「ふるさとを 田沢と呼ばん 彼岸花」を読まれ、「河正雄さんの故郷を訪ねることが出来て永年の夢が叶った」と哀惜の情を示され、それが「故郷の碑」の揮毫に繋がった。枠に囚われることなく、境界を越え舞わんばかりの伸びやかでしなやかな筆致、祈りの境地に至る書である。

提案した故郷の碑A案のデフォルメは人間の姿、形である。人間性と人格を表すデフォルメを○△□を基本としたデザインである。文字が生まれる前の時代から○△□のデフォルメを人間は哲学として学んでいる。

昭和、平成、令和と私が生きた時代はその時代が求めた和の時代の希求であった。戦争のない平和な社会、幸福な世の具現をひたすら念願して生きた。和こそ知恵であり尊い。丸くなれと和の象徴を○で表す。傷つけ合い、刺々しい。人の世はとかく争いが多い。破廉恥で破滅の世相を△で表す。学び、少しずつ角を取ろうではないかと人間の努力と精進を□で表す。○△□は美術表現の基本の形、哲学であり知恵の源である。

故郷の碑B案は五重塔をイメージする五層(五段)。上野公園の王仁博士碑に倣って上層は韓国産栄州石、下層四段は国産の稲田石を割り肌仕上げ。碑文は峡山・植松永雄氏の揮毫による「ふるさとを 田沢と呼ばん 彼岸花」である。

B案碑のデフォルメはA案の思想哲学を基にデザインしている。故郷の人々の平和を希求する祈りが山懐にこだまし宇宙に響いているイメージを「平和の群像」を据え描いた。

数点のデザインの中から碑立地の環境や条件などが勘案され、調和という点でB案に行き着いて採用された。

―散華の祝福―

 2021年4月21日、クニマス未来館館長からメールが届いた。「故郷の碑・平和の群像」モニュメント設置予定地の資料であった。

 具体的に提示された場所はクニマス未来館の駐車場脇にある直木賞作家千葉治平の詩碑と蚕魚墳塚の間に設置する案であった。

 2週間前に訪問した田沢湖は名残の吹雪であった。その場所の桜が五分咲きの美しい情景になっている写真が添付されていた。

穏やかさと静けさの中にある田沢湖畔大沢部落の春景色は桃源郷のような世界に見えた。これまで目に焼き付いていた田沢湖のイメージを一新したノスタルジックな絵の世界であった。

翌22日、設置場所の確認の為にその現場を訪れた。静寂なる田沢湖は空と一体になって広がり、対岸に姫観音像を臨むことが出来て思わず合掌した。

失って知った大沢部落はクニマス漁の豊かな郷であったのだ。昔日の幸せな営みが懐かしく回想される。瞼に涙が滲み流れるのは何故であろうか。「故郷の碑・平和の群像」が辿り着いた喜びを散華の祝福のように思えた。

「千葉俊成田沢湖クニマス未来館館長様

昨25日よりコロナ災禍の為、第3回目の緊急事態発出、又々息苦しい日々となりました。善は急げとばかり22日に田沢湖駅のお迎え、クニマス未来館での応対、そして田沢湖駅の送迎を受け密なる仕事を成したことを喜びます。

貴下の真心と誠実さを感じ入り、心打ちました。貴市が私の心と想いを真摯に受け止めて下さった賢明さと英知に敬意を表します。

密なる貴下応対の3時間は私の82年の人生の全力を捧げた貴重なる時間でありました。そのチャンスを与えて下さった貴市に感謝を申し上げます。

何事も「無理を通せば道理が引っ込む」という諺があります。「道理」を守り導かれますよう、お願い致します。私の心と想いが安寧に貴市へ届きますよう祈念致します。

2021年4月26日 河正雄拝」

―再検討―

 こうして事前の協議が整ったので「平和を祈念し姫観音建立82周年を記念して仙北市の文化振興と観光行政発展の為に仙北市に『故郷の碑』を寄贈します。」と寄付申し出書を提出したところ、2021年6月10日に門脇光浩仙北市長から「住民の反対があったので時間を少し頂きたい。」との連絡があった。

追って「田沢湖クニマス未来館の千葉です。御連絡が滞り、誠に申し訳ございません。この度の説明会の結果につきましては、正直、残念至極でなりません。河先生のお気持ちを考えると胸が痛みます。

本日朝には、市長、副市長と今後の対応等について確認を行い、その旨を安部先生のところにご報告に伺いました。いずれ、市としては、「故郷の碑」の建立場所を再検討することにしておりますので、引き続き、力不足ながら私が対応させていただきたいと思います。この度の結果を心からお詫び申し上げます。」とのメールが届いた

私は「2021年6月14日付メールありがとうございました。清里での行事(別紙記事)がありましたので本日15日に読みました。残念至極、胸が痛むとの言葉に心情を感じ入りました。お詫びには及びません。どうか心を休めて下さい。

再検討との事、「無理を通せば道理が引っ込む」の哲だけは守って下さい。新たな展開の報、お待ちしております。」と返信したが、何故なのか自責の念に襲われた。何故そのような心持ちになったのか自問しても答えが出ず悶々としている所へ、7月2日に安部先生からFAXが届いた。

「河氏寄贈の件に関してのドタバタ劇にはがっかりで何を恐れ、何に不安を感じているのか、私には理解できません。

 それでも市当局なりに努力していることを認め長い目で見ていこうと思っています。待てば海路の日和ありで、思いは必ず実現することを信じています。担当されている千葉さん、斎藤さんの誠実な努力に期待したいと思っています。

「向日葵の夢の始まり小さき芽」今の私は肥料であり水でありたいと思っています。コロナ予防接種 1回目終えました。お互いに健康第一でがんばりましょう。」

私は安部哲男先生に「私が2021年5月31日に『故郷の碑・平和の群像』寄付申し出書を提出した件で、門脇光浩仙北市長より6月10日電話にて『住民説明会の結果、住民から反対があった。』とあった。

 また6月15日メールにて『この度の説明会の結果につきましては正直、残念至極でなりません。』と千葉俊成田沢湖クニマス未来館館長よりあった。

 残念至極ではありますが静観しておりました。安部先生から7月2日付FAXで『何を恐れ何に不安を感じているのか私には理解出来ません』とあり、お心を患せた事痛み入ります。

 指摘の恐れ、不安は業ともいえる癒し難い感情で、根にある闇は深いものであると私は理解出来ます。

 『信不信を選ばず 浄不浄を選ばず』和を以って尊しの精神で蘇りを期待するのみです。(熊野権現の奥儀)

 『仏造って魂入れず』がこの件の始末と私は理解しております。友情に感謝しております。2021年7月3日」とFAXで返信した。

―報告する幸せ―

 7月9日「この度、別添のとおり「故郷の碑」の設置場所が決定いたしました。場所は、ここクニマス未来館の丁度対岸にあたる御座石になります。

門脇市長と一緒に御座石神社の宮司様にご説明し、相内潟集落の皆様にも別添の資料にて個別訪問し、ご了解をいただきました。

いずれ、御座石駐車場として整備されており、茶屋やトイレもあることから、観光客の皆様の目に触れていただく機会が年中あります。

また、今は遊覧船が発着しませんが桟橋が残っており、景観も申し分ありません。設置予定地はあくまで市側の案です。」と千葉俊成田沢湖クニマス未来館館長からメールが届き、諸々と紆余曲折はあったが御座石に収まる事となった。

7月12日には仙北市長と再度面談し最終確認を済ませ、11月3日の除幕に向って歩みを進めることとなった。

1970年刊佐々木由治郎著「田沢湖と周辺」より御座石の由来を紹介する。

「御座の石とは高鉢森の裾が、凝灰岩の広い岩盤になって湖の中に突き出し水際から断崖状のまま一気に水中に消えている。旧藩時代、藩主佐竹義隆公が田沢湖を巡覧した時、この岩の突き出たあたりに休息されてから、この周辺を「御座の石」と呼ぶようになった。

 藩主佐竹義和公が来遊した時の紀行文「千町田の記」の中にも、この景観を「一湖波平らかにして景勝奇観、中々筆端に尽すべからず」と述べている。

 御座の石神社 の縁起によれば、凡そ600年前(室町時代)に熊野権現を信心し、諸国を巡錫していた修験者が、この地を選んで水想観の奥儀を得るために小詞を建てたと伝えられる。

 下って慶安2年に藩主佐竹義隆公が休息した岩の辺りに詞を建てたのが御座の石神社の始まりといわれ、其の後社殿は天保四年と慶応3年と明治16年に改築され、当時は水かさが増すと浮見堂になる建物であった。

明治44年に、周辺4ヶ村の協力で湖畔の神社を合併して社殿を道路上手に新築し、それを大正2年に改築し、更に昭和38年に改築したのが現在の社殿である。

 もとは竜神社であったといわれるが、明治44年に竜湖姫之神、綿津見神、大国主命に佐竹義隆公、義和公を祭神に加えた。」

 この報告を行える幸せは熊野権現様の加護と導きあればこそと感謝するのみである。神仏にも慶んで頂ける慶事を関係者及び、多くの方々と共有し分かち合いたい。

―「ふるさとの碑」の由来―

ここ仙北市は、在日韓国人二世河正雄(하정웅 ハ・ジョンウン)氏の幼年期から青年期の夢を育んだ故郷(ふるさと)であり、この碑には、戦前から戦後の苦難の時代、縁あって暮らした田沢湖への河氏の真実の愛が込められている。

河氏は、1939年布施市森河内(現東大阪)生まれ、仙北市立生保内小学校・生保内中学校を経て、1959年秋田県立秋田工業高等学校機械科を卒業後、1964年埼玉県川口市にて河本電気商事を設立。実業家となってからは、美術品のコレクションのほか美術芸術を目指す若者を支援しながら作品を世に出す尽力をされるとともに、母校の後輩たちの育成と情操教育のために生保内小学校には「陽だまりの像」、生保内中学校には「憧憬の像」、秋田工業高校に「明日の太陽像」を寄贈されている。また、仙北市立田沢湖図書館の「河正雄文庫」の寄贈者でもあり、1981年から現在に至るまで多くの貴重な図書が文庫には収められているほか、同市立角館町平福記念美術館には美術作品を寄贈され2015年に市政10周年記念功労者として表彰されている。

この「ふるさとの碑」の正面には、東江・河正雄氏が詠んだふるさとの句を書家でご友人の峡山・植松永雄氏が揮毫し、碑の上部には彫刻家の菊池一雄氏の代表作品である国会図書館・最高裁判所近くの三宅坂小公園にある「平和の群像」のマケット(彫刻試作のための雛形)作品が納められており、真の平和を願う河氏が仙北市の文化振興と観光行政発展を祈念して寄贈・建立したものである。

2021年11月3日 秋田県仙北市