アカシアの街、小坂であったこと

河 正雄

―浅川巧の足跡を訪ねて―

浅川巧の生誕地(山梨県北杜市高根町)では浅川伯教・巧兄弟を顕彰する資料館建設が着工された。2000年夏最も嬉しいニュースであった。

1999年の事であるが満開の桜の季節に浅川巧の足跡を求め大館を訪ねた。植民地政策下の韓国で民芸の中に朝鮮民族文化の美を見つけ出し、韓国の人々を愛し韓国の人々から愛された日本人農林技手。日本では浅川巧という名前さえ知られることがなく、今もソウル郊外忘憂里の共同墓地に眠る。その墓は韓国の人々によって守られ続けてきた。墓の傍らに建てられた碑文はハングルで「韓国が好きで韓国を愛し、韓国の山と民芸に身を捧げた日本人、ここに韓国の土になれり」と刻まれている。

高校時代、私は浅川巧についての安倍能成が書いた「人間の価値」なる文を読み、その人柄と人格に憧憬を持つようになった。1909年、浅川巧は大館営林署に就職し、そこから1914年韓国に渡ったと彼の経歴に記述されている。浅川巧が秋田杉の美林の中で過ごした四年余りの青春の地、大館は韓国での偉大な功績を残すに至った原点の地である。

今は日に2便の鉱山からの荷の搬送に使われているという小坂鉄道に沿って茂内駅という所まで浅川巧の足跡を訪ねた。無人の駅構内には「小坂まで8キロメートル」という案内板があった。秋田工業高校時代に小坂町出身の学友、村木貞夫君が「夏休みに小坂に遊びに来ないか。十和田湖にも案内する」と誘われたことをこの時懐かしく思い出した。

その日、花岡七ツ舘の信正寺、そして花岡鉱山を廻って共楽館跡を訪ねた。秋田市に住む在日一世の李又鳳さんは強制連行により花岡鉱山で働かされた。花岡事件の時、逮捕され針金で吊され残酷な拷問を受けている中国人労働者の地獄の現場である“共楽館”での出来事を李さんから聞かされていたからだ。共楽館は取り壊されており名のみの虚しかった歴史の事実を語っていた。

―新聞記事―

1997年の事である。野添憲治(作家・秋田県朝鮮人強制連行真相調査団事務局長)さんから秋田魁新報の記事が送られてきた。小坂鉱山で作業員宿舎を経営していた「異国の地で逝った証言者」金竜水さんの冥福を祈り追憶する文であった。

「太平洋戦争中の小坂鉱山には朝鮮人が380人ほど来ており中国人、連合軍捕虜等も厳しい労働をさせられていた。連行されてきた中国人は“康楽館”に収容され61人が死亡し、朝鮮人は約31人が死亡したと記憶している。寺の沢の共同墓地に埋められていたが日本の敗戦後、親類とか知人が遺骨を持って帰っていったが身内の無いのは残された。何体が残っているとははっきり言えないがかなり残された。」という故人の証言であった。

1946年の厚生省の「朝鮮人労働者に関する調査(秋田県)では官幹施・徴用として小坂鉱山(多田組も含む)の862人の徴用者名簿が公開されている。野添さんはその墓を確かめようと金竜水さんの案内で寺の沢に行ったが、ササダケが人の背以上に茂っていてかき分け捜しても見つけることが出来なかったとそれには書かれていた。

―薄れゆく記憶―

数年前、わらび座に泊まる機会があった時、茶谷十六さんが小坂の”康楽館”の話をした。「今日本で残されている芝居小屋の“康楽館”は秋田が誇る文化財である。そこでわらび座の公演が行われているので、一緒に見に行かないかい。」と誘われたことがある。雪深い秋田に明治時代の木造の芝居小屋が現存していることも驚きであったが歌舞伎も上演されると聞いてからは小坂の文化的風土に好奇心が湧いた。しかし秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報(以下会報とする)第7号に掲載されている小坂町出身者岩城洋一さんの「薄れゆく記憶の中から」と第11号「川は流れるままに」の文を読んで好奇心だけの想いではなくなった。

歌舞伎公演の芝居小屋として明治のロマンを求め“康楽館”を全国から観光客が訪れてはいるが、ここがアジアの隣国からの強制連行されて来た人々と捕虜の大収容所であったことは露知らずであったからだ。

岩城さんは「露天掘のある元山は鉱山跡地である。元山や不動沢の奥地、大谷地や山神社下の谷間の掘建小屋に押し込められ、相内、長木鉱山に強制連行の労働者は駆り出された

寺の沢の寺院前に整然と列んだ鉱山従業者の家族の墓地とは別に、遺骨の殆どは笹むらの奥地に散らばったまま放置され、確かめようにも確かめられない状態になってしまった。戦争による犠牲であった強制連行の実態を証拠づけるものが見失われている状況を見逃すわけにはいかない。」と言及していたからだ。

また「鉱山城下町の小坂は観光に力を注いでいますが、戦争のむごたらしい歴史は伝えていません。康楽館も収容所であったのですから、忘却の彼方に葬り去る事は許されません。大谷地の共同墓地も無縁仏なのです。小生は語り伝え、書いて残そうと思っています。」と私信で述べている。

会報によると朝鮮人強制連行者は小坂、相内両鉱山で1070人で犠牲者の人数は不明であると報告されている。

私は元山や不動沢の奥地、そして相内鉱山の近くまで行ってみたが鉱毒水が不気味に澱みあとは夏草だけが繁る荒涼たる風景で山は静まり返っていた。

―康楽館―

2000年になって村木君から「ふるさと訪問小坂七夕を観る旅」の案内が届いた。想いが深い小坂へ念願の旅となった。東北は旧盆の帰省客と四大祭り見物の団体客の往来で、この季節に一番華やぎがあるはずなのだが、到着した小坂にはそれが何故か感じられなかった。出迎えられた川口博町長さんが「昔、鉱山が盛りの時は待ちの人口が三万人近かったが、今は七千人程度になってしまった。鉱山に群がった人が去り残った物は過疎、人心と山の自然の荒廃だけであった。」と寂しく話された。

移築中であった町指定有形文化財旧小坂鉱山事務所を見て、アカシア並木の明治百年通りにある康楽館での芝居見物となった。その際、康楽館が2億数千万円をかけて創設時の姿に修復されたとの説明があった。同じ時代の芝居小屋である大館の共楽館は取り壊されたが小坂の康楽館は保存された意味の違いはどこにあるのだろうか。とどのつまり、歴史文化に対する価値観と認識度の違いではないのかと思った。

竹下首相がふるさと創生と称して全国一律に1億円をばらまいたが、何も残る物がなかったというのが実際の評価であろう。康楽館を残した小坂町の文化行政には未来を観る見識があったと私は思う。昔懐かしい浅草剣劇を公演するのは、ここ康楽館のみという触れ込みであったが座長の

伊藤元春には確かに古き時代の良い心が残っているようであった。「遠くから康楽館にようこそおいで下さいました。小坂を忘れないで下さいね。また必ず来て下さいね。」と三つ指ついての挨拶に心がこもっていたからだ。久しぶりに挨拶らしい挨拶を受けたことが何よりも新鮮で情を感じた。彼には遠来の客を歓迎し、康楽館を守り育もうとする誇り高い、ふるさと小坂への愛情が満ちていると感じた。

しかし康楽館は日本に残されている唯一の芝居小屋というだけの存在ではない。戦前の歴史上の証人であり文化の舞台であった。在日や祖国の人々も広く知らねばならない、共有されねばならない文化遺産であることを深く認識する必要がある。私は康楽館での伊藤元春の公演を五感の全てを以て感慨深く涙にむせびながら、過去の不幸に想いを寄せながら過ごした。

しかし後に見学した町立総合博物館「郷土館」での展示物や町の資料、観光パンフレットのどこにも過去の不幸が言及されていない。「小坂町史(小坂町の草創から昭和50年までの内容〉」には中国人の記述はあるが、朝鮮人の記述は「花岡・小坂尾去沢にも3500人からの朝鮮人労働者が投入されている」のみなので私は異議を述べた。この20世紀、小坂鉱山や康楽館で何があったのか、過去の歴史の事実が抜け落ち記録されていない事は残念で悲しい限りであった。

―慰霊碑建立―

小坂が明治のロマン観光立町で生きるためにも過去は記録されねばならないし、歴史の

責任を果たすことが国際的認識であり未来に希望と展望をもたらすものと思う。

発想を変え、マイナスをプラスにすることこそが日本の国益であり先進国の範であるとも思った。21世紀は文化の時代である。歴史文化遺産の宝庫であり国際親善交流都市宣言をしている小坂町は世界の小坂に飛躍することも夢ではない。小坂町は負の鉱山遺産をプラスに転化する行政を推進し新しい町興しの原動力にしている叡智は認められる。

その夜、小坂七夕のハイライト、康楽館前には15台ものねぶたの屋台が勢揃いした。

同じ秋田県でも小坂は南部の文化圏で、私が育った仙北地方とは文化を異にしている。ねぶたにハーモニカの演奏が入っているのも珍しかった。小坂七夕のねぶた運行には鉱山犠牲者の霊を慰める為の祭りという意味があることが分かり私の心は慰められた。東北の旧盆の祭り、先祖供養とは一味違う鉱山街、小坂ならではの七夕祭りには意味があったのだ。

ねぶたの囃しと引き回されるねぶたの光りの中で慰霊の心が天まで届き諸霊がとこしえに安らかなることを祈った。

小坂を去る日、「河さん、近い内に(1~2年の内に)朝鮮人の無縁仏の慰霊碑を建立しようと思っている。その時は協力を頼みます。」と川口博小坂町長が私に言った。「霊は慰霊される権利があり、我々は霊を慰霊する義務がある。」とその時答えた。無縁仏の慰霊碑建立は小坂町の戦後処理でもあり、霊が鎮まり小坂町の平安と発展があることを祈った。

―終わり良ければ全て良し―

小坂七タツアーで思いがけぬ人と出会った。小坂町で暮らした在日同胞二世の鈴木資也さんが田沢湖町生保内での私の生活の話を聞いて懐かしそうに話しかけてくれた。

「昭和12年から14年頃、父が田沢湖畔の発電所工事現場の監督をしていた。その工事が終わって木曽谷の発電所工事現場に移った。田沢湖にいるとき小学校は君と同じ生保内小学校に通った。草鞋を履いて綿入りの和服(地元で言うドンブク)は手すりがテカテカに光って汚かったことを覚えている。私は子供だったので記憶は薄いが姉は当時の田沢湖畔の工事現場であったことをよく知っていると思う。」と懐かしそうに語った。思いも寄らず生きた証人が現れたことで姫観音の史実がまた明らかになる。歴史は記憶されねばならず、歴史に責任を持つことが明日の善隣友好の礎になる。過去を清算して新しい世紀は真の兄弟にならなければならないという希望を抱いて私は生きてきた。不幸な歴史という事実はもう消し去ることは出来ないが、過ちを正し互いを理解し合うことで不幸を乗り越えることは可能なはずだ。事の始まりや経過は決して良かったこととは言えないが「終わりよければ全てよし」で行こうと2000年往く秋田の夏空の下、そう想った。

―偶然の出会い―

私は2001年9月5目、聖天院でのお施餓鬼法要に出席した。2000年11月3日に在日韓民族無縁の霊慰霊碑の建立が成され、無縁仏の霊を慰めるためである。

その席で偶然知り会った人がいる。申和秀さんである。「昨年の慰霊碑法要の時、河さんの式辞を聞きました。実は秋田の何処かは判りませんが私の父・申鉉杰も強制連行で日本に来たのです。中国人やアメリカ人の捕虜と一緒の所で働かされたと言っていました。」と言った。私はその話に驚き「そこは小坂鉱山という所ですよ。昨年夏に行って来たばかりです。是非あなたのお父さんとお会いしてお話を聞きたいですね。」と話が進んだ。

数日後、私は埼玉県東松山市のお宅に訪問した。申鉉杰さんは私の訪問を心待ちにしてくれた様子で耐えて生きてきた気骨と人生の哀感を体に感じさせるお方だった。小坂での生きた証言をして下さる方が現実に現れるとは思いがけぬ事であった。そして早速、徴用で小坂まで辿り着いた経緯を語って下さった。

―小坂鉱山であった事―

「私の名は申鉉杰(シン・ヒョングル)、日本名は平山沃田(ひらやまよくでん)、故郷は慶尚北道盈徳(ヨンドク)郡知品(チプン)面。申家の長男として1923年(戸籍上では1924年)に生まれました。我が家に徴用の通知が来たのは1944年8月の事です。それは私に来たものではなく弟(当時17才)に来たものでした。私は当時21才で、既に結婚しており娘が生まれたばかりでした。年端の行かない弟が可哀想だと逃げて還ればよいと代わりに私が徴用に行くことになったのです。

知品面から6人、盈徳郡からは60人ほどが集められ、行き先も報されぬままトラックに乗せられ釜山から連絡船に乗りました。下関―上野―秋田―大館、そして着いたのが小坂鉱山でした。途中何度も逃げようとしたのですが監督が厳しく逃げ出すことは出来ませんでした。

私は鉱山事務所の上の方にある選鉱所近くの忠誠寮の10畳ほどの部屋に知品面から来た6人が1組になって入れられました。そこには高いフェンスに囲まれた5棟ほどの寮が建ち並び300人を超える人が収容されており、出口は1カ所のみで監督が出入りをチェックしていました。

寮長は日本人で、名前は忘れてしまったが副寮長は湯本さん、監督は重光さんと言い、どちらも韓国人ながら日本名を名乗っていました。副寮長はインテリで「ここはとても待遇の良い所」と逃げないように気を配っていました。しかし、あまり逃亡が相継ぐものだから監督が捕まえてきては別室で袋叩きにして、2、3人は半殺しの制裁を受けて部屋に閉じこめられた後、生死がわからなくなった者もいたようです。後日談ですが解放(終戦)後、監督は韓国に帰国したらしいのですが小坂での同胞に対するひどい仕打ちが田舎で知れ渡ってしまい、いたたまれなくなり再び秋田に舞い戻って暮らすようになったと噂に聞きました。それが事実であるか、また彼の生死はわかりません。

小坂では1日も休まず3交代で八時間労働で働きました。仕事はそれほどきついとは思わなかったです。ほんの少し日本語がわかるというので運輸部に配属されトロッコのポイント切り替えや、トロッコで溶鉱炉から出る銅のカスを捨てたり、鉱物を運ぶ仕事をさせられました。

仕事の辛さよりもお腹が空いてたまらなかったです。昼の弁当を持って仕事に出掛けるのですがそれを朝飯と一緒に食べてもなお、お腹が空いてひもじかったのです。おかずは塩漬けのイナゴだけで、おつゆは馬のモツ。韓国では馬を食べる習慣がなく生理的に受け付けなかったのですが空腹には勝てず、食べざるを得ませんでした。鹿角地方はリンゴの産地で鉱山関係者がリンゴの皮を剥いて捨てたものも拾って食べたことがありました。

当時捕虜が何百人も収容されていました。多かったのは青い服を着た蒋介石の国民党の者と思われる中国人、そして連合軍やアメリカ人の捕虜でした。特に中国人捕虜は可哀想でした。200人はいたと思うのですが、寒さと食糧不足の為に5~60人は死んでしまったと思います。アメリカ人の捕虜は団結力と仲間意識がとても強かったです。溶鉱炉の湯で火傷を負った仲間がいると皆集まって守り助け合う。監督の憲兵が銃剣を突いて「集まるな、仕事をしろ」と威嚇してもそれに屈服しませんでした。田舎にしては立派な芝居小屋があるものだと康楽館を思っていたのですが、そこが捕虜の収容所であった事は教えられませんでした。

私が今も気に懸かることは同胞が落盤で亡くなったと仲間から聞いた事、慶州から来た李隊長は話し方や接し方が人間的で我々はリーダーとして、とても頼りにしていた人だったのですが、1945年1月か2月頃、思想問題とかで警察に連行されそれ以来戻って来なかったことです。その時、殺されたらしいと仲間内では噂しました。

―逃亡―

1945年7月初めに私は小坂鉱山から逃亡しました。もやしのように痩せ細ってしまいました。給料は強制的に預金させられており、わずか煙草5~6本を配給されていたのみで、とどのつまりただ働きでした。以前、小坂に来ていた同胞の自由労働者が、もし逃げてくる気があるならとここに来いと教えてくれた高麗の飯場(現埼玉県日高市)が唯一の逃げ場所でした。小坂から歩いて毛馬内駅に向かって逃げたところ、後ろからやって来た車を一緒に逃げた若者と手を拡げて止めました。相手は逃亡の事情を察してくれ「俺にも昨日赤紙が届き戦地に出征する。逃げな。」と駅まで送ってくれました。好摩駅で仙台の空襲の為に東北線がストップ。迂回して4日間何も喰わずに水だけで高麗の地に辿り着いたのです。

降りた駅前(JR高麗川駅)で天下大将軍、地下大将軍のトーテムポールを見たときは、ここは日本ではなく韓国に帰って来たのかと錯覚してしまいました。腹が減って畑の野菜を盗んで食べていたところ、地元の農家の人が報せてくれたので飯場からリヤカーで迎えに来てくれました。日和田山の軍事トンネル工事をしている朝鮮人が経営していた梅田組に連れて行ってくれました。着いてすぐに、その飯場で濁酒を一杯ご馳走になったのですがそのまま倒れてしまい10日間も寝込んでしまいました。

それから1ヶ月後終戦となり同胞達は帰国して行ったのです。私は体調が戻らず病院に半年間も入院していたため、帰国の機会を失い日本に留まることになったのです。初めは米の買い出し等をしながら生計を立て高麗、川越、日高地方を転々としました。

東松山市に落ち着き現在は3人の子供や仕事にも恵まれ幸せに余生を送っています。小坂でも高麗でも月や星を見る度に親や兄弟、妻や子供の事を想って泣きました。12年前には初めて故郷に戻り、大邱で暮らしている娘とも再会しました。」と語ってくれた。

私は話を聞き終え「今、幸せに暮らしている」と聞いて安堵した。最後に高麗に足を向けたこと、高麗の懐で抱かれた生活が幸せな結果を生んだのだと、もしかしたら高麗王の遺徳を受けたのかもしれないと因縁めいた想いを抱いた。この時も終わりが良ければ全て良いのであると思った。

―取材の旅―

2006年6月20日、申鉉杰氏と小坂鉱山を再訪問する事となった。埼玉新聞社菊地正志記者より、河正雄著「韓国と日本・二つの祖国を生きる(明石書店・2002年刊)」、そして野添憲治編著「秋田県における朝鮮人強制連行(社会評論社・2005年刊)」に記述されている申鉉杰氏に関心があるので現地取材したいと申し入れがあった事で案内をする事となった。

申さんと早朝大宮駅ホームで待ち合わせした。「歳をとったせいか出歩く事が億劫である。」と会うなり話された。無理もない話である。戦前に強制連行された現場に出向いて取

材を受ける事は、さぞ気が重いことであろうと容易に想像できた。

先ず我々は川口博小坂町長を表敬訪問した。その席には一戸秀雄元小坂町教育長、小笠原修三元小坂町主幹兼企画振興課長が同席された。申鉉杰氏の証言を裏付ける現地案内の為である。一戸氏は中心になって「小坂町史」を編纂された方、小笠原氏は元山に生まれ、26歳まで暮らしたという小坂鉱山の歴史や町史について詳しい方であった。

小笠原氏の案内で申さんは鉱山を一望できる丘で変貌した鉱山の地形を見下ろした。山の神社や鉱山の煙突、川筋や道筋、露天掘跡、鉄道やトロッコ線路を指差して話された。

選鉱所や製錬所の位置など、労働現場の位置と所在を正確に記憶されていた。最近の事件で国会議員を始めとする人達の常套句でもある「記憶にありません」という言動は皆嘘ではないかと想うほどの正確さであった。申さんの記憶を地元の一戸氏、小笠原両氏が裏付けてくれたので何よりの証言であった。「当時は一帯が赤茶けた山であった。今は緑があって美しい。」と鉱山を囲む山々を見て申さんは何度も口にし、一息ついた。

その前に大谷地の寺の沢に行った。金竜水さんや岩城洋一さん、野添憲治さんらが語り、記述している火葬場と無縁仏の墓地がある場所である。

「笹薮の中には大きな川石が点々と数多く並べられてあった。戦後中国人や欧米人の遺骨は掘り直されて国に持って帰って行ったが朝鮮人の遺骨だけは置き去りにされたままである。置かれた川石の下には朝鮮人の遺骨と思われる物が今も埋まっているはずだ。」と申さんは指差して語った。

私は小笠原さんに「火葬場で遺体を焼き埋葬するのには法的な書類と手続きがあった筈です。埋葬した寺には、その過去帳があるはず。それを見れば、ここに埋まっていると思われる遺骨の内容がわかると思うのですが…」と問うた。

「寺が新築され、先代の住職さんが95歳の高齢で病床にあり、そのような記録はないのではないかと思われます。」

「それでは川石の所を掘って遺骨が出てきても、証明することが出来ませんね。」

その会話を聞いていた申さんの表情が今まで見た事のないほど厳しいものとなって、無縁仏の事を再度訴えた。私はどうする事も出来ない無力感に襲われ困惑した。そんな私達を見ていた申さんは「もう疲れたから帰ろう」と言った。

―命の恩人―

小坂鉱山の取材が終わって、帰りは「毛馬内駅(現十和田南駅)から花輪線で好摩に出たい。」と言う申さんの提案に私達は従う事にした。

タクシーで十和田南駅に向かう道すがら「この辺だったろうか。小坂鉱山から逃げて来た時、後から来た黒塗りの乗用車(木炭車)で毛馬内駅まで乗せてもらい、逃げ延びる事が出来た。その車の持ち主は私の命の恩人である。もし、終戦後、戦地から無事に帰ってきているならば会って、その人にお礼を言いたい。」と話された。

「申さんに万が一という時、その人に出会うことが出来たなら、申さんに代わって私がお礼を言いましょう。」と申さんと約束をした。

戦後61年になる2006年、戦後はまだ終わっていなかった。渾身の思いで同胞達の無念を恨として日本で生き延びた申さんの想いを考えると、笹薮の中に埋もれている無縁仏を供養する慰霊碑が建立され、犠牲になった霊を慰め申さんの恨を癒し、解放してあげたいと切に思った取材の旅であった。

―後日談―

取材後のこと、「河さん、私達は貴方を信頼していたのですが裏切られた想いです。」と小坂町より電話があった。

何事かと詳細を聞いたところ、「河さんの取材後、申さんと韓国民団埼玉県本部の方達が私達(小坂町)に何の相談もなくショベルカーを持って来て、申さんの記憶を辿り、遺骨の埋葬地だと思われる所を勝手に掘り返したという。その後の始末も悪く荒らされたとお寺の住職も怒っている。」という内容であった。

「私は何も知らない。申さんと韓国民団埼玉県本部の方々からは何の通達もなかった。」と答えると「河さんの指図かと思った。誤解して悪かった。」と詫びられた。

そこで申さんに電話をかけ確かめたところ、「証拠の遺骨を捜しましょうと勧められた。」という事だった。

「それで掘り起こした所から遺骨は出たのでしょうか?」と尋ねたところ、「何も出なかった。笹竹(根曲がり竹)や木の根が張っていて、掘り起こすにもショベルでは歯が立たず、簡単ではなかった。」という。

しかし、この件で申さんと民団から私に謝罪の言葉は一切なかった。理不尽ではあったが、私は信頼関係を築いて来た小坂町の方々に、不始末を起こした彼らに代わって謝罪するしかなかった。

なんとも後味の悪い結果となり、私の処世とは違う事がこの世では起きるものだと学ばされた。