強制徴用者の慰霊に思う

みぞれ降る2005年2月19日午前9時、西武所沢球場に近い埼玉県所沢市の山口観音・金乗院(真言宗)で、埼玉県の朝鮮総連、韓国民団、強制連行真相調査団の三者合同主催による、朝鮮半島出身徴用工犠牲者合同追悼会があった。
平成5年45柱(対馬の品木島で1984年6月15日収骨したもの)、そして平成15年86柱(壱岐・対馬に仮埋葬されていた遺骨を1976年に収骨し、本願寺広島別院に安置していたもの)を厚生労働省の依頼で金乗院に保管されていた131柱の御霊の追悼会である。
日本の敗戦後、徴用によって日本に強制連行された朝鮮半島出身労働者の乗った祖国に帰る船が台風のために対馬壱岐沖で遭難した。三菱重工などで働かせられ、広島で被爆したと見られる朝鮮労働者の御霊を鎮めるものである。
式の始めに総連委員長と民団団長が供物のお膳の前に並んで朝鮮式の拝礼をした。住職の読経の後に石田貞調査団長より日韓、日朝を架け橋され、三者合同開催までの経過報告があった。追悼の言葉は韓国より日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会・全基浩(慶煕大学校名誉教授)委員長がされた。昨年、慮武鉱大統領が小泉首相との会談で「戦時中の民間徴用者の遺骨収集への協力」を首相に要請された。
今、韓国では日帝強制占領下の強制動員被害(満州事変から太平洋戦争期間に旧日本軍による軍人、軍属、労務者、従軍慰安婦など強制労働被害者の生命、身体、財産上の被害)調査が行われている。
靖国神社に合肥されている韓国人は2万人余りで、その中には特攻隊として死亡した韓国人学徒兵もいるという。これから日本全国を調査して真相を究明すると全会長は述べた。(その一環として民団でも全国調査することとなった。)そして総連委員長、民団団長は1日も早く祖国に埋葬され安らかに眠れますように尽力するとそれぞれ追悼の言葉を述べた。
式を終え、祭壇に安置された131柱の遺骨が入った16個の段ボール箱入りの骨壷の内の3個が赤い敷布の上に降ろされた。そして骨壷から遺骨が出され公開された。私はその時、坪の中から御霊が現れたような戦標を感じた。合葬されて焼かれた遺骨は粉々になっており、ゴミも混ざっており遺骨とは形容しがたい、人間の死の尊厳などは微塵も感じられない、無惨極まりないものであった。
「犬猫でもこんな事はない。骨壷を段ボール箱に入れるなんて霊を冒涜している。」洪祥進調査団事務局長は恨(ハン)を込めて説明された。名もなく合葬された御霊を131柱だけと数だけで呼ぶには余りに胸が痛む。厚生労働省は「徴用工の遺骨である可能性が非常に高いが、個々の身元は確認できない。」として韓国側と返還協議中であるという。
遺骨が安置されている本堂裏の納骨堂は今だ、波濤の中にある難破船のように思え、とても御霊の安寧の眠りの場所とは思えない。戦後60年経つが日韓、日朝間の波は今だ高く、御霊の安寧は幻の如きであると追悼の思いは重く痛かった。
何故なら以前に強制連行の調査でお会いした李用鎮(イ・ヨンジン)さんと曺四鉱(チョ・サヒョン)さんのことが脳裏を掠めたからだ。お二人は私の故郷である秋田県田沢湖を水源とする発電所工事に従事した徴用工である。李さんは、その現場から逃亡した後、病魔と闘いながら横須賀で生きながらえた。曹さんは戦後、韓国全羅南道「霊岩郡三湖面に帰国し唯一生き残られた生き証人である。そして埼玉県にも徴用連行者の生き証人である申鉉杰(シン・ヒョングル)さんがいる。
申さんは韓国民団埼玉県地方本部顧問であり、2005年韓国政府より国民褒章を受章された。申さんは1944年8月、21歳の時に慶尚北道から強制徴用され、秋田県小坂鉱山で働かされた生存者の1人である。1945年7月小坂鉱山から逃亡し埼玉県の高麗の郷で終戦を迎えた。
帰国の機会を失い、埼玉県を第2の故郷とされている在日1世である。受章を祝う会で「国がなかった時代、小坂で空腹のため死にそうな辛い経験をした。国から褒章を受けることなど夢にも考えられなかった。」と申さんは感謝の言葉を述べた。
そして小坂鉱山での過酷な不幸を乗り越えられた貴重な話を涙ながらに話された。その日の申さんを祝う会は、厳粛なる過去への省察の会にもなった。
私は1994年に李さん、1999年に曹さんも追って他界された。2000年に申さんと会って秋田での強制連行の真相を調査したことがあった。(その経緯は明石書店刊・河正雄著「韓国と日本・二つの祖国を生きる」に詳しく記述している。)
その時3人は異口同音に日本政府や韓国政府に保証を切実に求め、無策に抗議していた。だが李さんは、何の保証も謝罪も受けることなく2005年1月5日に逝去され曹さんも追って他界された。生前に徴用の代価を何ら受け取ることが出来なかったことが痛ましい。
遅きに逸した調査が進んで多くの徴用犠牲者達の苦痛が少しでも癒され、名も知れず亡くなっていった方々の名誉が回復することを願わずにいられない。
私は埼玉県日高市の聖天院にある在日韓民族無縁の霊碑を守る会の当番を務め守っている。金乗院に保管されている遺骨や、祖国に帰る事が出来ずに日本で彷徨っている全国の無縁の霊を聖天院在日韓民族無縁の霊碑の納骨堂に安置する方法も良策の1つであろうと考えている。
在日として光を見たのは三者合同で 追悼式が執り行われたことである。そこには日韓、日朝の国としての壁は無く、ただ慰霊の気持ちだけがあった。これこそ御霊の導きであると思った。不条理な出来事は世に満ち溢れ、ただ無為に時を過ごすのみで虚しく嘆かわしいばかりである。しかし、その中から学ぶことにより、より良い世の中を築いていくことも可能なはずである。昨夜の春雪が我々を取り巻く不条理を浄化し清め、英霊の安らかなることを祈らずにはいられない。

なぜ祈り慰霊するのか

父、河憲植(1912.9.16-1975.4.1)の墓所は曹洞宗天医山光音寺(埼玉県川口市領家)にあり仏教の開祖釈迦牟尼仏の御本尊の元で眠っている。
農家の三男であった父は全羅南道霊岩の故郷を離れ単身、1928年日本に来て大阪、秋田と労働者として渡り歩いた。父の生涯は血を吐くような労働と生活苦との戦いの一生であった。その父が秋田県田沢湖町の生保内発電所や先達発電所工事に関わったのは1
940年からの事である。発電所工事に徴用され犠牲となった朝鮮人労働者らと共に暮らした、過酷な飯場で私は育った。
その事が御縁で、長じて田沢湖畔の姫観音の由来の発掘や、曹洞宗龍蔵山田沢寺(秋田県仙北市田沢湖田沢寺下)に埋葬されていた朝鮮人無縁仏の慰霊碑を建立(1990年)した。
父が1973年、突然故郷の「霊岩に帰りたいと朝タに泣いて訴えた事で、私は父母と共に祖国韓国を初めて訪れた。
霊岩は応神天皇の招請で千文字と論語を携えて日本に渡来した王仁博士の生誕の地である。日本と縁深い文化の恩人として尊敬されている誇りある先賢を輩出した故郷である。
父にとっては46年ぶりの帰郷であった。父祖の墓所は「霊岩の町の入ロにあって月出山を仰ぎ見ることが出来る丘陵の美しい松林の中にあった。碑石もない土饅頭であったが祖父母が眠る墓所での出会いは、私の全身を震えさせ父母の故郷「霊岩が私の心を激しく揺り動かした。
翌年、一度限りの帰郷を果たした父は亡くなった。私は、父母のおかげで祖国韓国と霊岩との結び付きを強くしていった。その後月出山九龍峯の麓に外祖父の墓所を作り碑石を建立、そして月出山道岬寺に報恩の石燈を建立寄贈した。以後、家族共々参拝できる事が無二の喜びとして在日を生きている。
いつしか私は霊岩と田沢湖を二つの故郷と呼び、韓国と日本を二つの祖国と呼ぶようになった。二つの故郷、二つの祖国を愛する喜びは掛け替えのないものである。
1959年、田沢湖町を離れた私は埼玉県川口市に住むようになり60年が過ぎた。埼玉県日高市は高麗の郷と知られている。8世紀にこの地に入植した高麗王若光一族の菩提寺、真言宗高麗山聖天院勝楽寺の境内には「在日韓民族無縁の霊碑」が建立(2000年)された。
施主尹炳道氏は長瀞に住む在日一世であるが、尹さんとの出会いから霊碑建立に関わった。戦前戦後を通して日韓の不幸な歴史の狭間で亡くなられた、日本全土に散らばる多くの在日韓国・朝鮮人の無縁仏を祀り、苦難に生きた同胞を慰霊する為のものである。
聖天院は人権のシンボル、在日の魂の故郷・聖地として永遠の灯火を灯す事となったのである。
何故祈るのか、何故慰霊するのか。我々が生きた20世紀は不幸な時代であった。日帝の植民地時代・太平洋戦争・祖国分断による苦渋と苦痛に満ちた世紀であったと言える。
在日は人間らしく生きるために、人権を勝ち取る戦いの先頭に立って来た誇るべき民である。20世紀の不幸な歴史の中で、祖国と痛みを分け合った在日同胞犠牲者達を永遠に慰霊追悼する事は、韓民族のヒューマニズムの根幹が豊かで、澄んだ鏡になった事の実証(しるし)であろう。
御霊を忘れない事、思い出してあげる事、そして感謝の心を持って祈る事が、何よりの供養になると思う。それは同時に在日同胞の歩んだ苦闘の歴史が風化しないように、歴史の真実が埋没しないように子々孫々まで語り継こうという願いが込められている。
しかしながら最近、祈る力が弱まっているように思える。我々は20世紀の傷みと、過去の歴史に、じっと耳を澄ませ声を聞く事が出来る世代である。
だが、後の世代は、我々が正しい史実と想いを伝えなければ単なる歴史のーコマに過ぎなくなり、更には後の世代にそれを伝えることは不可能になるだろう。
過去の傷みと教訓が示す事柄に注意力を持って見続け、正しくそれを伝える努力を怠ってはならない。我々の世代が持つ傷みを後進と共有し、薄れて行く記憶や体験を語り伝えていく事が使命である。未来に希望を託せるように、過去への追悼と祈りを継承していく事が、ひいては若人を育てる大きな力となると思う。慌ただしい時代の流れの中で過去を忘れ、今を生きることは容易い。しかし自らの足元、即ち自らが依り立っている父母の生き様や、民族の歴史を知ることは混迷極まる今を生きる中で、重要な事である。